職業としての家具作りについて
家具制作を生業としてから修行時代を含めればはや20年になろうとしている。
これまで工房経営は決して安定したものでもなかったし、家具屋に甘んじていることに悔悟が全くないということでもない。
今回は「職業としての家具作り」というテーマになる。
(テーマは決してお気軽なものではないので、数回にわたったものになる)
最近「職業訓練校」情報提供の記事をエントリーしたばかりなのだが、これに冷水を浴びせかけるような記述になる嫌いをあえてするには理由がある。
本サイト「木工家具の工房 悠」に相互Linkさせていただいている名古屋の宮本さんの今月の巻頭言◆ 家具作りという職業について ◆、という記事に触発されたからである。
詳しくは宮本さんのサイトを読んで頂きたいと思うが、(参照)木工屋として家具作りを職業にすることの経済的側面からの困難性を指摘し、今の時代にあえてこのような職業に就くことの意味について考察してくれているものだ。
内容的には同意せざるを得ない箴言を多く含むものでもあると承知しつつも、しかしそれではちょっと身も蓋もないだろう、というところから少し考えてみたい。
当然にも問題の指摘の先には自身がいることも明らかなのでこの記述は戒めとしての意味も持つだろう。
さてまず強く同意する個所は「(木工家、あるいは木工屋の作る家具と較べ…)ほとんどの面で歴史と経験のあるメーカーの家具は優れています。…大手メーカーと同じ品質を個人の木工家が維持するのはほとんど不可能に近いと思います。…」などといった辺りだが、こうもはっきりと言って頂くと「仰るとおりでございます」とすごすごと消え去るしかないだろう。
確かに「手作り木工」というカテゴリーに分類されるものの中には、用いられる材質も悪く、技法的にも決して優れたレヴェルのものでもなく、仕上がりの品質においても拙劣、何よりもデザイン的に首を傾げたくなるようなものがあることも偽らざる実相の一面だろうと思う。
一方量産家具、既製品との差異を殊更に追求するためなのか、自然木の形状をそのまま残し、やたらとごっつく作ってしまう、というある種の「勘違い」を見せられることも少なくない。
つまり家具に求められる本質をさしおいて、どちらかといえば家具の属性(木のぬくもり‥‥、てづくり‥‥、オイル仕上げ‥‥、無垢…… etc)の方を殊更に強調することで差異化を図るという戦略なのか、あるいは美意識なのか、はたまたその程度の技術水準しかないのか。それらのいずれかか、あるいは複合的なものなのか、その背景と当人の自覚の有無も含め様々だろうが、作られる家具の品質において既製品のそれに劣るといわねばならないものが相当量生み出されていることも確かだろう。
家具というものの品質はそうした属性にのみ依拠するものであってはならず、極めて常識的なことであるが、目的とされるその家具の機能を十分に満たし、堅牢で長期間にわたる使用環境に耐え、快適な環境を提供し、そしてあくまでも近代という時代を経た現在の我々の住生活の中にあって美しく感じるものでなければならない、という要請があることを忘れてはならない。
そこでは既製品であろうと、手作りであろうと制作システムの差異はあくまでも多くの要素の中の1つにしか過ぎない。
そうした文脈においては大兄の仰るところは正鵠を射ていると言える。
しかし、なお当事者の1人としてそのまま首肯して後ずさりするわけにないかない(笑)。
ボクたちのハンドメイド家具、スタジオファニチャー、アトリエファニチャー、(呼称は何でも良いが)にも十分に社会的な有用性があると考えたい。
また同様に「木工家具製作者」としての生き方も決して無謀なだけの人生選択ではなく、可能性の開かれたオルターナティヴなものの1つとして悪くないものだということについて考えたいと思う。
以下いくつかその理由を記す。(続く)
キノスケ
2006-4-18(火) 20:37
大変興味あるお話ですね、
過去そのような仕事に拘った者として、宮本さんの言われる事も ごもっともですし 杉山さんの仰りたい事もある程度理解出来ます「まだ次に続く文拝見する前ですので」ですから多分***ですね! 私が申したいのは作る側の意識と注文する方の意識の違いも大いに有り ここが大きな問題ではと 注文される方と作られる者との求めるものが共有出来たときの喜びは嬉しいです。***で酔っ払っていますので(続く)を拝見してから 素面の時に書き込みたいと思います。
artisan
2006-4-18(火) 22:19
キノスケさん、コメント感謝です。
キノスケさんのコメント履歴を見ましても、アルコール充填状態の方が内容充実してくるようです。
>作る側の意識と注文する方の意識の違いも大いに有り
>ここが大きな問題ではと
>注文される方と作られる者との求めるものが
>共有出来たときの喜びは嬉しいです。
宮本さん記述の「日本ではそういう市場がまだ熟成されていない」との問題意識と重なるところかも知れませんが、キノスケさんの「共有出来たときの喜び」とは他ならぬモノヅクリ従事者ならではの特権ですね。