工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

職業としての家具作りについて(7)

木工家具は反時代的か

木工家は何故貧乏なのか。
数年前ある著名な文芸評論家が晩年に「清貧の思想」なるものを提唱していたことを記憶している人も多いかも知れない。

木工家の生き方はさて清貧なのだろうか。ここでそのような命題を考察するのは場違いだし、個人的にはあまり好感の持てる思考ではないので、深くは追求しないが、日本においてはかつては考えられもしなかったほどの勢いでおぞましい拝金主義が社会的に蔓延しつつある現在にあって、木工家の生き方はあたかも他者から見れば「清貧」を実践する風変わりな人々として分類されちゃうかも知れない。

ここでは「清貧」について論考するのではなく、「木工家の販売戦略を考える」の記述への導入部として前回の【生産性の低さを如何に補うのか】の発展形として新たに別の角度から考えてみたいと思う。

さしあたってこの項のサブタイトルは《木工家具は反時代的か》だ。
現代社会を特徴づけるのは経済的側面から見れば大衆消費社会ということであろうが、これは21世紀に入り、ハイパーで極限的なところまできていると言えるだろう。
第一次生産物を除き、第二次生産物、つまり工業生産物は大衆消費社会をターゲットとしてマスプロダクトというシステムによって世界大的にあまねく届けられるためのシステムが整備され、こうしたことを条件として1点あたりの生産コストを極限までに低廉化させている。これはフォードシステムという工場システムの導入以来のことではあるが、それ以降、複製文化という工業社会の革命的な技術進化はすさまじいものがある。

iPodなどが爆発的に普及したことに典型的に見られることであるが、デジタルデータの複製などに要するコストなどはほとんどゼロに等しく、これはかつての概念では考えられもしなかったことだ。
もちろんデジタル社会のこうした複製技術については全く別次元の問題であることぐらい承知しているが、複製文化の1つの象徴的なアイロニーとして触れておくのは無駄ではない。
デジタル社会ほどではないにしても、やはり今日の消費文化は圧倒的な生産力を誇るシステムの環境下にあって著しく進化してきている。

さて翻ってボクたちの家具製作であるが、こうしたマスプロダクトと較べれば全くの反語でしかないだろう。
家具製作におけるマスプロダクトへの対応はトーネットの曲げ木という革命的な技術開発による椅子生産からはじまったが、大衆消費社会の到来という時代からの要請の下、その後家具製作における製造システムもこれに対応すべく大きく変貌し発展してきた。
このような時代認識を前提にできるのであればボクたちの家具製作などは如何にも反時代的なことに手を染めていることになってしまうのであろうか。

無論、同じ制作というジャンルでも一方では芸術作品のように唯一無二の作品として社会から求められるものがある。
しかしこれは制作とはいっても創造的作品の制作だ。
家具製作が果たして創造的作品の制作と呼べるのかどうかはなかなか難しいところだが、木工芸といわれるものを除けばやはりサブ的な位置づけでしかないだろう。

いかに精緻な作りで、創造性があるものではあってもなかなか純粋なアートとしては認められないと言うのが一般的な了解だろう。

マスプロダクトでもなく、アートでもない、こうした宙づりの状態に置かれているのがボクたちの家具製作だというわけである。


ボクは「工房 悠」の制作理念において次のような文言を掲げている。曰く
〔工房悠は、デザイン、設計から原木調達、制作、販売まで一貫した木工を行う、クラフトマン シップの工房です。その精神はアートアンドクラフト様式に基づいた、手仕事としての木工の復権です。〕と。

これは言うまでもなく、近代デザインというものを実践した最初の人々の一人であったウィリアム・モリスの思考をメタとしたものだが、彼の時代にあってもユートピア主義として難詰されたものであったように、以降100数十年経過した今日においてこのようなことを掲げること自体パラノイア、時代錯誤も甚だしいと言われてしまうものなのかも知れない。

しかし如何に時代の精神がマスプロダクト社会への即応形態であるミニマルデザインであったとしても、なおそれへの反語であるかもしれない工芸的クオリティーを求めるものが反時代的であると定義づけられて良いはずはないだろう。

さらに時代を深く読み解けば、19〜20世紀と、ほぼ150年という単位で突き進んできたマシンエイジも、今や様々な領域でほころびが生じつつありることは明白。
ここでそれらを論証する積もりもないが、化石燃料を新しい近代工業社会の資源としてきた前提が崩れ始めていること1つとってもそれは明らかで、現代社会構造のその延長線上にボクたちの未来は見えにくくなりつつある現状認識は共通のものになってきていることをあげるだけで、とりあえずは十分だろう。

快適さと便利さを極限的なところまで追求してきた19〜20世紀のパラダイムは過去のものになりつつあり、これらとは異なる新たな生存のための存在様式が求められている。

確かに地球温暖化を防止させようという「京都議定書」(気候変動に関する国際連合枠組条約の京都議定書)が最大の温室効果ガス排出国、米国が締約することを拒むなど世界的取り組みでの困難性を突きつけられてもいるというのが現状である(*1)のだが、中長期的に見れば、世界大的にライフスタイルの改革まで迫るものとして突きつけられることは必至だろう。

家具制作の主たる素材である木材資源に引き寄せてみても、年々良材の入手が困難になりつつあることは現場のボクたちにとっては深刻な問題になってきている。
これは人々の生活に欠かせない調度品としての家具制作の在り方そのものをも問いかけるものであることにボクたちも気づき始めている。

21世紀を迎えて、地球環境破壊をもたらしている工業生産システムと限りない欲望社会への懐疑の先に新しい生き方のパラダイムが求められていることと歩調を合わせるところから、ボクたちの家具制作の在り方を展望するものでなければならない、というのが共有の時代認識として確認できると思うのだが如何だろうか。


*1:環境保護運動は謀略だというコンセプトで数百万部を売り上げた米国の著名な作家マイケル・クライトンの『恐怖の存在』State Of Fearは論争的であると同時に米国エスタブリッシュメントの代弁だろう。

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