職業としての家具作りについて(9)
新自由主義という身も蓋もない経済システムは、いわゆるグローバリゼーションという名の米国多国籍企業による世界経済支配を拡大させ、それまでの製造、流通、販売の環境を木っ端微塵に解体してしまうものだった。
これはあらゆる産業に押し寄せたのであって家具産業も免れはしなかった。大手メーカーのそのほとんどが製造基盤を海外に移転することで、国内の製造拠点は櫛の歯が欠けるように廃業し、工房近くの家具団地も寂れる一方だ。当然にも職人はあぶれ、ハローワーク通いが日常になってしまった人は多い。
今の日本の労働者は正当な解雇撤回の運動すら組織できずに唇を噛みしめるだけ。こうした労使雇用環境も新自由主義の「成果」の1つなのだろう。
またメーカーの職人だけではなく、その傘下に納まって仕事の下請けをしていた数多くの職人も廃業、転業を余儀なくされ、そうでなくとも受注価格のたたき合いによる所得の低減にホゾを咬む。
市場には中国、東南アジアで生産された廉価で、ほどほどのデザインのものが席巻している。
「無印良品」のモダンで廉価な家具。「IKEA」の日本再進出。「ニトリ」の全国展開。
あるいはまた大メーカーが我々の得意とする分野へ参入してくるという傾向も看過できない事態だ。
いわゆる無垢板のナチュラルエッジ(=皮付き)の天板を特徴としたテーブルなどに典型的に見られる。
メーカーも必至になってそれまでの旧弊を脱し、新たな顧客獲得、新たなイメージ戦略を打ち出してきている。
いよいよ「工房家具」と云われる家具製造販売スタイルも、ただそれだけでは存在し得ない新たな時代へと足を踏み入れていることだけは確かだろう。
さて前回(8)の最後に記したようにボクのような凡庸な職業木工家にとっての存在様式を考えねばならないのだが、そこで指摘した2つの方向性とは異なる何か特段に触れねばならないような手法があるようにも思えない。結局はこうした生き方、存在様式へ向け志向するプロセスの様々な段階にあるというのが多くの木工家の姿だろう。
ただ以前にも指摘したことであるが、木工家具というものが生活調度品に関わるカテゴリーであるために、とりあえずは低い水準の段階にあっても一定の市場性は認められ、これが売買され、それによりまた一定の充足された“やりがい”というものも獲得できるという問題がある。
何故「問題」なのかというと、純粋アートであれば、水準の低いものであれば決して市場性は得られることはなく、糊口するにも事欠くことに陥ることは必至。
願いを成就させるためには抜きんでた才能とともに人一倍の努力と研鑽の日々が求められるが、ある程度の水準のものであれば市場性が評価されるという木工家具の世界では、それ程までの才能も、努力も必要とされる以前に低水準の段階で充足され、停滞してしまうという陥穽が待ち受けているうことに自覚的でなければならないのではないだろうか。
そうした自覚を前提に上述の2つの方向への志向を限りなく追求するという姿勢があれば、市場からの評価も望めるだろうし、また充足の度合いもより高い水準へと持っていけるだろう。
さてでは具体的な課題となるとどのようなことがあるだろうか。
既に今回の一連の記述の中でいくつか言及してきたことでもあるが、これまであまり触れなかったこと、およびこれはボクの希望ということになってしまうが、木工家具を営む諸兄との協同的な展開についても触れておきたいと思う。
無名性からの脱却
いわゆる無名性での木工家具の展開は困難になってきたと言えるのではないだろうか。
かつてはどの町にも大抵は家具職人がいて、その町の家具需要に応えていたという時代があった。しかしこうした牧歌的な環境は今はない。
極端な話、居ながらにしてコンピューターの前に座り、ネット接続すればいつでもそこそこの好きなデザイン、懐具合に合わせた家具のネット販売をボチッすれば数日後には入手できる時代だ。
町に職人などいなくても困りはしない。
あえて無名性を求めるならば、そうしたネット販売の下請けをすればよいかもしれないが、その要求に応えるだけの設備投資と低コストの労働単価を整備することなくしては無理だろう。
したがってネット販売のようなものではない、他の何ものか、を提案し製作販売する道しか残されていない。
顕名性、つまり作家、あるいは作家的スタンスを持つ職人が作る木工家具、という位置づけでないと困難であろう。
それには
- 高品質な木工家具を製作するための製作環境を整備する(技量、製造設備、素材の準備 etc)
- オリジナルなデザインを創造する力を養う
- 顧客へのプレゼンテーション能力が問われる
- メディアの活用の能力
- Web構築は必須(21C以降のモノヅクリでは必須のアイテム)
- 同業他者との情報共有能力
総じて、いわばその職人の総合的人間力というものが問われるということであり、それまでのある種の「職人」的閉鎖性(時空、あるいは精神性における)を打破しなければ存在は困難だろう。
流通の獲得と「アソシエーション」
良い品質の物を制作する環境と能力があっても、顧客へと繋げる流通に載らなければ制作システムも成立しない。
新自由主義的経済システムはそれまでの流通の在り方をズタズタにしてしまった。
一般に家具という商品は問屋制度という複雑な流通システムの中に囲われていたが、こうしたところへの影響はすさまじいものがあったと考えられる。
一方木工家具というスタイルでの商品は、こうした問屋制度とは少し異なるシンプルな流通で売買されていたと思われるので、いささか事情は異なるだろう。
しかしこの混乱した市場経済にあって、良質な木工家具を顧客へと届けるための流通システムをぜひ制作者側に取り戻すように努力すべきだろうと考える。
未だ木工家具の制作ー流通を見ればあまりにも流通側にコストが流れすぎている。
「価格破壊」の世相への対抗上も極力流通経費を削減されねばならないと考えるが、制作者側に支払われる制作単価はまだまだ良質な家具制作を維持発展させるだけの見返りには乏しいと思わざるを得ない。
こうした問題の解決は決して容易いものではない。個人の努力では如何ともしがたいものがある。
抜本的な道筋を切り開いてゆかなければならない課題だ。
「求める顧客に適正な価格で木工家具を販売する」という至極シンプルな命題には、やはり新たな経済システムが求められるのだろうと思う。
この課題を解決する経済システムとは何だろう。
「新自由主義経済」の囲いから抜け出て、独自のオルターナティヴな流通を構築していくしかないのではないかと思う。
その具体的道筋をここで呈示できるものがあるわけではない。
1つの試案を呈示するならば、「アソシエーション」(=協同組合的社会)の編成と構築ではないかと考えている。
ご存じの方も多いと思われるが「アソシエーション」はかつて19Cにおいて多くの社会主義者が提案、試行していたものだった。しかし資本主義が世界的支配の経済的社会システムとなって以来、現在のハイパー資本主義〜新自由主義経済の時代まで、議論はされても十分に実践されてはこなかった。
現在、経済システムの膠着、地域経済の崩壊、など様々なところで新自由主義経済の弊害が露呈しはじめてきている。
一方で近年NPO、NGOなど、ゆるやかでいわゆるオルターナティヴな機構というものが社会的認知を獲得し、大きな成果を挙げつつある。
これらは社会システムにがんじがらめに囚われた旧弊の在り方を根底から切り崩し、生産者、消費者、民衆自身という草の根レヴェルでの日常的事業において社会を変革してしまおうという、自立、自律した個人の自由で対等な緩やかなネットワークのアソシエーションというものの可能性を指し示していると考えたい。
この論考では詳述できないが、この「アソシエーション」の構築において流通を取り戻し、消費者との結合を果たし、生産者達のネットワークを作ることで、崩壊しつつあるかに見える社会の再生とモノヅクリの復権を果たしていきたいと考える。
これは当然にも木工家具の分野のみならず、様々な分野との協同的な事業であって初めて可能であろうから、事は単純ではないがそれ以外に残された道はないのではないかとさえ思えるのだ。
次回は「家具工房」という生き方について考えてみたい。
サワノ
2006-5-31(水) 22:48
「ガイアの夜明け」を見ました。
IKEAの「ライバルはディズニーランド」という
日本の家具業界を全く相手にしていない姿勢に、
一瞬 ぽかーん・・・として
あとは苦笑するしかなかったのは私だけではないはず。
秋には横浜店がオープンするそうですね。
脅威的です。
営業の在り方についても 考えさせられる番組でした。
お客様にストレスを感じさせず、喜んで買って頂く為に
例えわずかな事であっても
「他にはない もう一歩」の心使いが必要なのだと思いました。
artisan
2006-6-1(木) 22:18
サワノさん コメント感謝です。
>「ガイアの夜明け」
(TV TOKYOですね)知りませんでした。
IKEA特集だったようですね。
録画ありますか?無い、また詳細を聞かせてください。