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コロナ禍と私たち(この世界をどう生き延びるか)2

06/21に投稿した記事があまりに長いため、後段を新たなページとして再構成し、また新たに「コロナ禍の時代における国家と市民の関係性」に関する増強など、加筆しています(06/24)

日本国内での新型コロナ対応を振り返る

4月7日に発出された「緊急事態宣言」は5月25日に解除され、その後出された「東京アラート」発令も先週11日に解除。今、日本社会は徐々に長い眠りから目覚め、再起動しつつあるかのよう。

しかしこれは果たして公衆衛生学的な価値判断、疫学的な知見から判断されたものなのだろうか。

いや、決してそんな科学的なものでは無いことは、日々公開される感染者数の推移、その時点での感染の脅威を表す「実効再生産数」等のグラフを見れば一目瞭然。

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図は〈東京新聞〉(06/16朝刊掲載)の感染者数のグラフ、および、〈東洋経済新聞社〉が公開している「新型コロナウイルス国内感染の状況」のページに掲載しているものだ。

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日本の「緊急事態宣言」は言われるところの「ロックダウン」(都市封鎖)的な法的強制力を持たず、政府、および自治体からの「要請」にもとづく「自主」的な規制でしか無いという特徴を持つものだが、しかし日本人の心性、および地域共同体の特異な「ムラ」意識という特徴から読み解けば「自主」とはいえ、極めて強いとされる「同調圧力」が効果を発揮し、過剰な抑制が効くと言えるもののようだ。

同時にそれは国家的規制であれば「規制」とセットとなった「補償」が前提となるところ、「要請」に基づくという妙から、そこには「補償」は前提にされないというエクスキューズが内在する。

「要請」による営業「自粛」であることで、当初は何らの補償Planも提示されず、恐々と暖簾を下ろし、営業取りやめに追いやられ、あまりの長期の休業となることで経済的逼迫の余りにやむなく廃業の判断に追いやられる人もいたようだし、途中から補助金や助成金、融資などの支援制度が起ち上がってきたものの、申請しても待てど暮らせど届かないという叫び声があちこちから聞こえてくる始末。

ベルリン在住の日本人の演奏家の事例がニュースになっていた。彼女は申請書を送り届けた数日後には20万円が口座に入っており、暫くは毎月入金されると笑顔で話していた。

およそ、日本政府の場合、コロナ対策の担当大臣は西村康稔という経済担当閣僚の兼任であることに象徴されるように、疫学などとは全く無縁の、いや真逆のイケイケドンドンの大臣がやってるわけで、「人の命より経済!」というのが基本姿勢であることが透けて見える。この不誠実でやる気の無さというのは、そもそもの安倍政権のコロナ対策への腰の引けた戦略から当然なのかもしれない。

また一方、疫学専門家の少なく無い方々から、この「緊急事態宣言」の発出は発するには遅きに過ぎたとの反省も多いのだそうだ。(前回記事冒頭のグラフ参照)つまり「緊急事態宣言」を4月7日より1週間、2週間ほど早く、例えば3月24日、2020東京五輪の1年ほどの延期発表直後の感染者数の著しい増大の頃に発せられていれば、感染拡大に至ることなく推移していたのでは無いかという疑念だ。(朝日「緊急事態宣言「もっと早めなら…」 専門家会議の舘田氏」

つまり「緊急事態宣言」発出は残念ながら感染拡大のピークを過ぎつつある頃になってしまったということ。
したがって「自粛要請」は必ずしも有効な時期に的を射て為されたと言うよりは、的を外して課されてしまってたという含意がある。

例えば・・・『大阪府独自の専門家会議で議論』

そして、5月25日の「緊急事態宣言解除」、あるいは東京都の「東京アラート」解除もグラフの通り、解除後は日々感染者数が増加傾向という実態との整合関係をどう説明するのか、という問題がある。

ただ、Covid-19の場合、PCR検査で抽出される感染者数の把握というのは、感染後1〜2週間後という特徴があることから、暫くこの推移を見守らねば確たるところは評価できないことは知っておきたい。

ここで言えることは、こうした「緊急事態」や「東京アラート」といった社会的強制というものも、実は疫学的な基準に基づいたものというより、極めて政治的色彩の強いものだったと言うことである。

いくつかの事例を上げてみよう。

■ 安倍首相による「全国の小中高一斉休校要請」(02/27)

安倍首相はこの2月27日の記者会見の翌週から春休みいっぱい、休校を要請した。
この唐突な要請は子供たちの教育現場に衝撃的な波紋をもたらした。
それまで何ら有為な感染症対策が為されなかったことから、政府への不信が高まる一方、この時期は「黒川検事長の定年延長」や、春先からの「桜を見る会」をめぐる安倍首相への抗議が高まり、防戦一方の時期でもあり、いわばコロナ禍対策への「やってる感」を醸すために発せられたものであり、しかも専門家の意見も排し(安倍首相側近と言われる萩生田光一文科大臣の反対を押し切ってのものとされている)、一方的で唐突な、実に安易なものであったようだ(米山隆一「新型コロナウイルス対策で臨時休校を要請した安倍首相の支離滅裂」

世界的な規模でのデータを見たとき、このCovid-19感染の特徴として、若年齢層での罹患事例はとても少なく、罹患の事例をみても、学校現場での接触感染はほとんど無く、むしろ家庭内での親子間の感染が多いいうエビデンスがあるようだ。

また、この小中高一斉休校は子供たちの家庭への影響は著しいものがあり、どちらかの親が仕事の休業を迫られるなど、地域、家族の生活を大きく棄損させ、地域から、全国から、お父さん、お母さんの悲鳴が上がっていたのは言うまでも無い。

しかもこれら生徒のその間の教育を受ける権利というものが剥奪されるという大きな問題がある。
それは今も、今後においても、学びの遅れとして、あるいは子供たちの心身の衰え、ダメージとして将来にわたる影響を及ぼすものとして結果することも明らかで、それはコロナ禍によるダメージを超えるものだったかも知れず、どこまでそうした悪影響を想定したのかさえ疑念があり、疫学的な判断と言うことでは無く、むしろとても劣性で政治的に過ぎるものだったとの疑念は大きい(日経メディカル:「休校によるCOVID-19予防効果にエビデンスなし」

■日本政府と東京都知事の2020東京五輪延期決定発表(03/24)

IOCは日本政府、東京都知事との協議を経て〈2020東京五輪〉の「1年程度」延期を決定した。

3月24日までは、日本政府も、主催都市の小池東京都知事も「2020東京五輪は延期も中止もあり得ない」と嘯いていたものの、延期が決まるやいなや、憑き物が落ちたかのように翌日からの都内の感染者数が跳ね上がるという、唐突なまでの感染拡大発表に驚かれた方は多いと思う。

3月24日までの東京都におけるPCR検査数は2桁で推移したいたものの、この延期決定を機に、3桁の数字となり、これは当然にも感染者数の激増の見える化となって現れた。
東京都による関連データ(検査実施件数等)

図は山中伸也教授「山中伸弥による新型コロナウイルス情報発信」から拝借。

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それ以前は、小池都知事はほとんどと言って良いほど、このコロナ禍対応の記者会見も行わず、都庁奥深くに潜んでいたのが、〈2020東京五輪〉の延期発表以降、積極的にテレビカメラの前に出ることとなり、東京都知事選告示に至る今日まで耳目を集める中心人物となっていくのはご承知の通り。

2020東京五輪延期が決定された以上、開催への障害以外の何ものでもない感染拡大の情報開示を抑える必要性が無くなり、これまで極限的に抑え込んできたPCR検査へのアクセスを少しづつ緩和させ、その結果、多くの感染確認が露わになってきたというのが真相だろう。

■「東京アラート」の発令と解除

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東京都は6月2日に〈東京アラート〉なるものを発令。
これも東京の感染拡大をめぐる、東京都独自の規制であるが、以下の7つの項目を基準として発令されるという。(画像:東京新聞)

  • 「新規陽性者数」
  • 「新規陽性者における接触不明率」
  • 「週単位の陽性者増加比」
  • 「重症患者数」
  • 「入院患者数」
  • 「PCR検査の陽性者数」
  • 「受診相談窓口における相談件数」

この〈東京アラート〉は発令から9日目の11日に解除される。翌12日は小池都知事が都知事選への出馬表明の日となった(告示日は1週間後の18日)。

メディアはこの〈東京アラート〉とは一体何だったのか、その目安の分からなさと共に、都知事自身の都知事選への日程に見事に重なるところから、余りに政治的なところで都民は振り回されたと訝る声を拾っている。(東京06/13「「何の意味があったのか」都民に困惑、第2波不安 東京アラート終了」

この間のタイムテーブルは以下のようだ。
6月2日  東京アラート発動
6月11日 東京アラート解除
6月12日 都知事選に出馬表明、ステップ3に移行
6月18日 都知事選告示
6月19日 休業要請の全面解除
6月中  モニタリング指標、検査体制、医療体制などの第2波対策の方針まとめ
7月5日  都知事選投開票

そして、〈東京アラート〉解除後、都内では本日6月21日に至るまで連日30名を超える感染者数をカウントしているというのが実態。

基準とはいうものの、科学的根拠に基づくものというよりは、その主たるON、OFFの基準には政治的スケジュール、思惑というものが見事に反映していると見るのが素直な見立てだろう。

さて、こうしてコロナ禍への防護というものは、政治的な文脈から司られるという実態を垣間見てきたところだが、これは疫学という特異な分野にあってはその性格上、致し方無い側面を認めざるを得ず、ここから免れるのは至難であり、動かしがたい事実であることに、私など「国家」概念に疑念を持つ者としては途方に暮れるしか無い。

問題はしたがって、人々の動態を全的に把握し、統括し、監視する。この国家プロジェクトをどう市民の側から監視し、透明化させ、公正であるかのチェックを入れるのか、とても難しいのは当然で、市民社会と国家の関係性を鋭く、深く問うものであり、安易に答えなど出しようも無い。

ただ現時点で考えれば、昨年来の〈森友学園の国有財産の叩き売り〉、さらには〈加計学園をめぐる獣医学科新設における非常に特異な認可に見られる便宜供与〉(日経:「いまさら聞けない 森友・加計問題とは」)「

そして〈花見の会〉での国税私物化等々、この間の安倍政権における政治の私物化、データ隠し、データ改竄、のり弁書類が当たり前という恐るべき政治腐敗の極地を堂々と進めてきた安倍政権。
こうした実態を目の当たりにした時、この国に疫学における個人データを委ねることの危険性、馬鹿らしさに気付き、いよいよ困惑は深まっていくばかりだ。

そして、この間のコロナ禍に対する、我らが政府の新自由主義的な医療体制の脆弱化(ここでは詳論できないが、小泉政権後、医療体制は実におぞましい状況へと変貌していて、今回のコロナ禍ではあちこちの中核病院での逼迫が伝えられていた)、医療機器、防護資材等の備蓄のおぞましさはまさに心胆を寒からしめるもので、医療従事者の命懸けの検査、診療に思いを馳せるならば、その医療後進国の実態を見せつけられ、怒りを超えて泣けてくるばかりだ。

以下は10万人当たりのICU病床数
■ アメリカ:34.7
■ ドイツ:29.2
■ イタリア:12.5
■ 韓国:10.6
■ 日本:7.3(2013年:2,889床、2019年:2,445床)
(出典:National Center for Biotechnology intensive Care Medicine)
日本国内の病床数:1993年から2018年までの25年間で305,000床削減
保健所の数:1992年:852ヶ所 2020年:469ヶ所

コロナ時代の国家統治とは

国家の統制が効果的に貫徹されることで感染症からの防護は適切に行われるだろうことは明らかなようだが、吉本隆明の《共同幻想としての国家》という視点からすれば、問題はより複雑で困難な問いであろう。

中国の場合

何よりも私個人の感覚からすれば、例え中国が感染症対策における範を示したからと言って、彼の国のような体制などまっぴら御免。
例え全く信頼のおけない政府を持つ日本のようなダメダメな国であっても、一党独裁国家で強権支配する国よりはまだましと言う感覚は大事にしたいと思う。

彼の国の人々がスマホを駆使してのIT/AIによるビックデータに喜々として縛られることを由とするのは、血まみれになっての植民地解放闘争に見事に勝利し、自らの国家を起ち上げ、今や米国に次ぐGDP第二位の巨大経済国家に成り上がってきたという大いなる自負を背景とはするものの、ただ残念ながら共産主義を掲げながらもいびつな資本主義経済を奔放に展開する国であるにも関わらず、近代国家としての体を為さず、個人の自由という何物にも代えがたい権利を行使した例しがないという、極めて特異な事例である事は隠しようも無い。

したがって我々が中国のようなシステムを範とすることはできないのは当然。ただ感染症対策という疫学的な調査研究に関わる知見は大いに参照すべきことであるのは国家体制への評価とは別に論ずるべき事柄であろうと思う。

韓国の場合

一方、韓国のような自由主義経済の国家はまた異なる視座から見ていくべきだろう。
もっと言えば、日本の植民地から解放されて後、同じ民族同士の壮絶な朝鮮戦争をはさみ、その後軍事独裁国家で大変な苦労を経、その後、市民の軍事独裁国家を打ち破る闘争を弛みなく続けた結果、民主主義国家を打ち立て、サムソンを初めとする強力な経済力を背景に国力を増強し、このCovid-19感染拡大では初期段階で新興宗教の礼拝の場で、巨大なクラスター感染を経験するなどの困難を経て、これを克服しつつあることは大変心強く思う。

その意味では中国の感染症対策への評価とも違い、自由主義国家における市民と国家間の関係性から、疫学的対策の知見を得ることは有為な試みだろうと思われる。

日本社会の嫌韓とか、中国嫌いは広範に深く定着した感もあるものの、だからと言ってこの人命に関わる疫学の経験知を学ぶ機会を自ら放棄するほど愚かな事は無い。

日本国政府の場合

また日本政府は、このコロナ禍を巡り欧米諸国と較べても感染者数、死者数の桁違いの少なさを保持したことへの強い自負もあるのだろうと思う(麻生大臣の〈民度の違い〉発言は「恥を知れ!」と指弾されるべき妄言であり、ここでは対象外にすべきなのは言うまでも無い)。
しかし国内外からの評価は相変わらず低く、これへの不満は大きいものと思うが、政府への支持率が30%台にまで著しく低下した今、国家的な信頼が今こそ求められている時期にもかかわらず、なぜ信頼されていないのか、自負では無く、大いに反省すべき材料として考えてもらわないと困る。

政治不信が蔓延する社会にあっては、疫学的対策は困難であり、ましてやIT/AIを駆使したビックデータの活用による感染症対策は国家的統制への市民による積極的参加無くしてはあり得ず、市民一人一人がどんな社会を求め、どんな国家像を描くのかが、かつてなく問われてきていると言えるのだろう。

今後さらに強毒化して現れるかも知れないCovid-19の第二波に、どう対応すれば良いのか、課題は多く、それも始まったばかりだ。

日々を数え、知恵の心を得よう。この大きな苦しみが無意味に過ぎ去ることを許してはいけない

(パオロ・ジョルダーノ:イタリアを代表する小説家であり、物理学博士によるエッセー『コロナの時代の僕ら』の結語から)

補記(2020/06/24)

本日(2020年6月24日)、西村経済再生担当大臣は新型コロナウイルス対策を話し合う政府の専門家会議を廃止し、新たに政府内に「新型コロナウイルス感染症対策分科会」として改めて設置する考えを明らかにした(NHK

また、この専門家会議の主要メンバーの記者会見では政府の対策本部と専門家会議の関係の在り方への自己批判的な内容とともに、暗に政府批判とも取れる物言いもあり、その間の辛苦と科学者としての立場の苦悩が滲み出ていた。(NHK

この日は都内で55人、小樽で9人のの感染者を数え、またいつ来るとも知れぬ第二波の襲来を前に、日本の感染症対策は大きな曲がり角に来ていることを指し示す報道でもあり、より一層の緊張感を持って注視していきたい。

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