ガジェットへの欲望と、IT社会の困惑
昨日予測した通り、梅雨が明けた。九州北部から関東甲信まで一気。
一方、カリフォルニア,クパチーノ(Apple社キャンパスの地域)に覆い被さっていた分厚い雨雲の方は、果たして同日未明に開かれた記者会見により取り去られたのだろうか。
iPhone 4に関わる受信障害問題のことであるが、個人的にも近々現有機種 iPhone G3 から更新の予定でもあるので、少し検証してみたい。
〈iPhone 4 受信感度をめぐるApple社の振る舞い〉
今日未明、Apple社はiPhone4の受信トラブルをめぐる問題に関する記者会見を行っている。
記者会見に現れたいつものジーンズとTシャツ姿のスティーブ・ジョブズ氏はこの問題の所在をApple社としては初めて公式に認め、ユーザーに謝罪。(NHKニュースサイト[ビデオ])
問題回避策として、同社が製造販売するバンパーを無償で提供するとのこと。
同時にこの問題は多くの携帯電話共通の問題であり、「アンテナスキャンダル」は大げさに過ぎると反論も忘れていない。(CNET、Appleサイト、記者会見ビデオ)
ボクはiPhone G3ユーザー。2年前の日本上陸のその日にMNP(携帯電話番号ポータビリティ)を伴う契約購入をした口であるが、割賦販売の縛り、24ヶ月も経過しようとしているので、このiPhone 4に機種変する予定。既に2週間ほど前に予約手続き済み(供給力が無く、なかなか手元には来ないのだが)。
既に受信感度問題が報じられて以降の機種変更決断だったが、さほどの懸念を持つものではなかった。
確かに不具合の存在を認めざるを得ないとしても、本件問題に関する様々な情報を分析した結果、元よりボクはiWoodというケースを使う積もりであり、これで問題は回避できると踏んでいたからだ。
(iWoodはまだiPhone4対応のものは発売されていない。miniotサイト。作られることだけは間違いないのだが)
こうした問題への企業側の対応において無視できない権威ある製品評価機関、米消費者団体専門誌「Consumer Reports」においても、今月12日、「購入を推奨しない」と発表したものの、その翌日には「同社が販売する専用ケースを使用すれば問題が解消されることを確認した」とされたことで、意を強くしている。
本日未明のApple社の“当面する”対応策も、この「Consumer Reports」の解析発表を受けての最善のものと見て良いだろう。
無論、アンテナ技術としての最善の改善策では無いとしても、という留保付きではあるのだが。
しかし、こうした問題の発生をあらかじめ防ぐことができなかったことはやはりその責めを負うべきかも知れない。
ジョブズ氏が語るように、100歩譲ってアンテナ内蔵という構造上の問題から、この受信不良問題が避けられないとしても、あるいは受信感度を上げるために、またスタイリッシュな外形デザインとともに、より構造的強化を図るための構造デザインとして、このようなデザインを採用されたことは理解できるとしても、なお、2種のアンテナ機能を持たせた外部ステンレスの境界を手で触れることでの受信障害という問題はいただけないと思う。
携帯電話に求められるいくつもの要請へのAppleらしい回答がiPhone4というものだったわけだが、本質的なところでこけてしまったことは否定できない。
残念だ。
さて、この秋にはさらなるハード、ソフト面での改善策がとられる可能性は残る。
アンテナ部分に特殊なコーティングを施す、などでの改善策は大いに考えられると思っている。
「Consumer Reports」誌でも、この境界部分にテープを貼るだけで解決するじゃん、と言っているほどだから、そんなにもハード設計上で困難な改善策ではないように思うのだが。(こちら)
ところで余談だが、ボクはアンテナを駆体に内蔵させることには異論を持っている。
他でもない、携帯の送受信の高周波電波が人間の脳に与える電磁波による悪影響に関する懸念からのもの。
アンテナを外部に出すことで、これを少しでも避けたいという人は少なくないのではと思うのだが。
今回のこのiPhone4では、内蔵させるべきところを、スタイリッシュな形で外部に露出させた。
これはバッテリー容量を増強させるためにアンテナの内蔵を止めることで空間を確保し、なおかつボデーの構造的強度を高める目的をも併せ持つハードステンレスの縁取りにアンテナ機能を持たせるという、構造的、かつスタイリッシュなデザイン処理の解決策として決断したのだろう。
その結果、残念ながら携帯電話における必須の要請である受信感度を阻害させるリスクを負わせてしまった。
何という皮肉だろう。
完璧とも思えたガジェットの完成は、市場に出されると同時に、歓呼の声をかき消すかのようなユーザーの一部からのトラブル愁訴と、集団訴訟沙汰となってApple社を包囲しはじめることとなってしまった。
この度のApple社の企業姿勢についてあらためて少し考えて見たい。
今回の受信不具合問題とそれへの対応は、Appe社にとって鬼門だった。
ジョブズ氏がApple社に復帰して以降、iMac、iPod、iPhone、iPadとIT社会を大きく塗り替えるマシンを世に問い、それらの全てにおいて最も優れたものとして高い評価を勝ち取り、MSの株価を凌駕するところまで経営基盤も安定し、今や世界的大企業とのし上がってしまっている。
したがって、世界のマーケットからはそれにふさわしい振る舞いを求められ、常に最善の企業姿勢を示していかねばならない立場に置かれていた。
今回の問題は、そうした世界的注目の中での手痛い失態であったわけだが、当初は問題を認めないような姿勢を通したため、おごりを指摘されるのも必然な流れであり、またリコールまでも取りざたされる中、今回の記者会見で発表された対応策はベストとは言えないまでも、Appleファンを裏切ることのない、良識的でApple社らしい対応策だったろうと考えている。
何よりも「Consumer Reports」誌も認めるように、本件アンテナ問題を除けば、スマートフォンの中でもナンバーワンの評価であることは否定しがたいもので、その魅力を減じるものではない。
むしろ、「われわれは完璧ではない。携帯電話というものも完璧ではあり得ない。それでも、われわれはユーザーをハッピーにしたいと考えている。それがアップルだ。今日はどうやってユーザーをハッピーにするかを説明したいと思う」とする今日の記者会見における冒頭の言葉は、Appleの企業姿勢を表すにふさわしいジョブズらしさだろうと思うし、今後の開発姿勢への期待も高まるというものだ。
〈iPad操作のキモさ ── 宮崎駿監督発言〉
ところで、この iPhone 4 発売に先んじて、iPadというタブレット型のガジェットが大きな反響を呼び、爆発的に売れていることは周知の通り。
これをアニメ映像作家の宮崎駿監督に見せたところ「iPad使う手つきは自慰行為のよう」と発言したらしい。
今後その影響力からしてこの発言は海外のメディアでも取りざたされるものになっていくのだろうと思う。
「iPad使う手つきは自慰行為のよう」という宮崎駿監督の物言いは、彼らしいエッジの効いた発言ではある。
詳しくはスタジオジブリが発行している「熱風」7月号を読んでいただくとして、一部、こちらが引用している(佐々木康彦氏のBlog)
その発言の主旨は鉛筆と紙があれば十分だという確信に基づいたものであり、こうした立場に立つ人は一般にはもちろん、彼のように国際的に活躍するクリエイターにも少なくないのかも知れない。
これは大変重要な指摘であると思う。
つまり次から次へと新たなガジェットが生まれ出て、これらは生活スタイルに留まらない、産業基盤の在り様から、文化的営為の在り様、ひいては人々の思考スタイル、手法にまでおよぶ、既存の枠組みを変えてしまう衝撃力を持つものという意味合いがあるからだ。
iPadはそれほどまでに大きな変革をもたらすものになっていく予感がする。
宮崎駿氏が言う「新製品にとびついて、手に入れると得意になるただの消費者にすぎません。
あなたは消費者になってはいけない。生産する者になりなさい。」とは、そのままボクのような者への叱責であるわけだが、しかしこうした守旧派にはいくらでも反論は可能ではあるだろう。
確かにセル画を一枚一枚、膨大な時間を掛けたアナログ手法で作り上げていく彼のような作家にとっては、全編CGアニメで短時間で制作し終えてしまう現在普及している当たり前の制作スタイルへは生理的な嫌悪感すら覚えるのかも知れない。
だがしかし、若手のアニメ映像作家にとっては、宮崎駿監督のようなアナログ手法が許されるほどには自身の周りに有能なスタッフと、資金を集めて作ることのできる環境など絶対的に望めるわけもなく、シコシコとMacに向かうしか無いだろう。
つまり宮崎駿氏はそうした若手同業者を取り巻く制作環境へ、どれだけの想像力が働くのか。あるいは宮崎駿氏のアニメ作品がiPadに取り込まれ、世界の子供達へと届けられるという、そのマーケットについて、媒体についての関心の程は如何なものなのか。
あるいは、彼の作品の米国における取り扱い会社は、Apple社と深い関係にあることへの認識が全くないのか、といったことに視点を移すと、あまりに独善的ではないのか、という反論も可能だろう。
そうした独善性の臭いを発するリスキーな発言ではあるが、しかしその背景に潜む現代文明論、コンピューター環境における人間の脳の働きと影響、といった領域においては、やはり老人の戯言として一蹴するわけにもいかない問題の所在を自覚する必要もあると思う。
ボクのように70年代後半に始まったインベーダーゲームへはある種の抵抗感を持ち、防御できる世代はまだ良い。
生まれながらにしてのデジタル世代は、自身の生活スタイル、思考スタイルへコンピューターテクノロジーが浸透してきていることへの客観視が難しい。
人々とのコミュニケーションの取り方におけるデジタル世代固有の難しさは、本人たちが自覚できないほどまでに内在化されてしまっているからね。
以前、中高生をめぐるケータイの所有に絡む犯罪の問題で、「一切中学生には持たせるべきではない」とした藤原新也氏の朝日新聞コラムには強く同意したのだったが、その規制のあり方には今も変わらない。
電車の中で、自転車の上で、デート中も、目線はケータイ画面に釘付け。
一両の電車の中で、どれだけの人が鞄から本を出し読んでいるか。皆無に近いと言うのが実態だろう。
これで頭脳、感性、知識が鍛えられるとはとても思えない。
(お前だって、その知性はろくなもんじゃぁない、というのはとりあえず置いておいて‥‥)
ケータイを取り上げ、友とのリアルな語らい、読書に耽溺する時間を与える方が、よほど本人のため、社会の基盤作りにも良いに決まっている。
携帯電話を含め、世界のIT製造会社は、人間をどんどん劣化させ、人との関係性を希薄化させ、馬鹿ばかり再生産しているというう側面が全くないとは言えないだろう。
しかし問題は、IT社会から逃れることはもはやとても困難なことであり、忌避しようと決断することは、社会との関わりを遮断するに等しいというところにある。
これを紙と鉛筆も文明の一発展史であり、コンピューターに取って代わられただけ、と見るのか、いやいやそうではない、人類の歴史始まって以来の革命的なテクノロジーなのか、という文明史的な視座での思考が問われているのは間違いのないことなのであろう。
宮崎駿氏には多くの反論も寄せられるだろうが、凹まず、持論を押し通す勇気を持ってもらいたい。
ただあなたのような才能を持つ人ばかりであれば良いのだが、社会は多様で、iPadの力を借りて能力を発揮する人がいることも事実だのだから、そう簡単な問題ではないのだね。
yutakarlson
2010-7-19(月) 11:29
宮崎駿「iPadは自慰行為そのもの」 「iナントカじゃ大切なものは手に入らない」―日本解体を頑なに信じる妄想老人の仲間か?
ブログ名:「Funny Restaurant 犬とレストランとイタリア料理」
こんにちは。宮崎さんのiPadに対する発言まったくいただけませんね。宮崎さんの年代の人たちにはもう少数派になりましたが、ある一定の共通したメンタリティーがあるようです。宮崎さん、どうせ、社会一般には疎いでしょうから、妄想癖をポジティブなほうに使い、漫画の世界で頑張ってください。余計なことに口を出して、自らを貶めるような行為は慎むべきと思います。このような、メンタリティーの妄想老人には、妄想をやめて現実に立ち返れないというのなら、後進に道を譲り政界からも、漫画の世界からも早く消え去っていただきいと思います。そのほうが世の中のためです。ここでは、書き足りません、詳細は是非私のブログを御覧になってください。
artisan
2010-7-19(月) 13:07
コメント内容からしますと私のBlog記述へのコメントというより、あなたご自身のご意見の披露といった感じですね。
そうした主旨でリンクを希望するのであれば、トラックバックという機能がありますので、そちらをご利用ください。
したがってここでは必要最小限のレスに留めます。
私の立場はBlog記述の通りです。 つまり
・「消費者になってはいけない、生産する者になりなさい」
・iPadへの「嫌悪感」、
といった指摘は、単なる「老人の妄想」として切り捨てることで済まされるものではない、ITガジェットへの1つの本質的な指摘と考えます。
そうした懸念を受容する感受性を持ち、“含羞”、“衒い”を感じつつ、自覚的にiPhone、iPadを選択し、使うということで、よりよく活用できるものと考えます。
「妄想癖」「消え去れ」という物言いで、シャットアウトするところからは何も学べないのではないでしょうか。
うずまき
2010-7-19(月) 23:44
こんばんは。
宮崎氏について推測されている、
幾つかの内容に触れている回だと思うのですが。
(承知だったらすいません)
http://podcasts.tfm.co.jp/podcasts/tokyo/rg/suzuki_vol66.mp3
artisan
2010-7-20(火) 12:40
うずまきさん、宮崎駿監督の作品背景、および現代文明論におよぶ持論が記者会見を通して聴き取れますね。
ポッドキャスト「鈴木敏男のジブリ汗まみれ」(東京FM)からですか。
iPadへの論調も、そうしたバックグラウンドを所与のものとして語られるべきところ、エキセントリックな発言だけを取り出して俎上にされるというのは不幸なことです。
ネット(具体的にはtwitter)コミュニケーションならではの危うい盛り上がりという側面もあるので、困ったものです。
話は変わりますが、この人、カナダのアニメ作家、Frederic Back(フレデリック・バック)との交流もあったのではと推測するのですが、何かソースがあれば教えてください。
たいすけ
2010-7-21(水) 09:34
宮崎駿監督の発言、爆笑しました、お年寄りがプンプン怒るのは何だか可愛らしいですねぇ。
道具に使われてしまっては本当に「消費するだけのひと」ですね、僕自身が使う色々な道具について取捨を問う時、過程ではなく必ず目的を考えます。目的が過程の場合、ちょっと困ったことになりますね。
文章をやりとりしていて、相手の知識に、明らかに「これは、今さっきググッたな、、」と判ってしまう時、何だか寂しいような、想いの無さを感じることが最近頻繁にあります。宮崎さんが仰っているのはそういうことではないでしょうか。
これは「調べる」という「目的への過程」が、単なる知ったかぶりで終わってしまって、目的たる相手に伝わるものが空虚になってしまっている顕著な例ですね。
ipadに関するこの議論とおなじようなことを、「手書き図面かCAD図面かどちらがいいか?」という議論にも感じました。これは真剣に図面を描いて制作をする人にとっては設問自体がナンセンスですね。
たかだか道具、それも誰でもが均一なスペックを持てるような道具をこきおろされただけで、怒ってしまうひと(たかだか道具に振り回されるひと)は、その道具への依存度が高いのでしょう、好きなら何をいわれても好き、でいいと思うのですが、、、。
artisan
2010-7-21(水) 13:04
たいすけさん、丁寧なコメントありがとうございます。
いくつかの興味深い指摘がありますが、情報化社会(IT社会)に生きる私たちの知の概念が大きく揺さぶられつつあることを感じさせられるものですね。
さらにコンピューターから小型の移動型端末(スマートフォン、タブレットデバイス)へと道具が進化した結果、いつでもどこでもドラエモンポケットの如くに(知の体系)にアクセスすることができる利便性と、その裏返しの危うさ故の問題ですね。(“知の体系”とは言ってもカッコ付きのそれでしかないというところがミソ)
単なる知ったかぶりの知識、そして血肉化された教養、さらにはその人の人格を形成するバックグラウンドに深く広く染み渡った文化的資質、それぞれは決してスムースで連続した道筋ではあり得ず、段階的なステップが必要とされるものでしょうね。
さらにはネット上に氾濫する「知」は全てをフラット化させ、ヒエラルキーを無化させる効用とともに、「知」本来が持つ深淵を歪め、薄っぺらなものに組み替えてしまう怖さもあるでしょうね。
結局はツールはあくまでもツールでしかなく、そこから得られるものを「空虚」で薄っぺらなものに止めるか、そうではなく「知の体系」へとアクセスする梃子(てこ)として有効活用させられるか、という自覚の有無が分かれ道ということになるでしょうか。
私はFrederic Backのフェルトペン、マーカー、パステル、色鉛筆による手描きならではの味わいに魅了されますが、時代が変われば、やはりCGで描かれた方に魅了される者が主流になるのも止めようもなく、美意識、感性も時代に規定されざるを得ないでしょう。
宮崎駿監督の主張も、したがって様々に論評されるのも必定。
これをどのように捉えるかは、それぞれの「知」、「美意識」への関わりの在り様如何ですね。
(ただ老人の戯言、妄言、などと叩く手法というのはあまりにもおぞましく思います)
たいすけ
2010-7-21(水) 23:40
知の体系という言葉にブルっとしました。
いつも、自分の考えを的確な言葉で整理整頓して頂いているような気分です。
宮崎さんはipadで本を読んでいる人にはどう言うんでしょうね。電子出版は避けて通れないような気がしますが、、、。
artisan
2010-7-22(木) 12:46
たいすけさん、いつの時代にも「教養主義への批判」はありました。
日本において、太平洋戦争前までは「知」にアクセスできるのは、ごく一部の人々しか進学できなかった大学生以上のエリートに限られていました。
そうした「知」は私たち庶民にとっては現実世界から遊離した抽象的な観念でしかなく、反駁されるべき対象でしかなったわけですね。
つまりフーテンの寅さんの方に人生訓などを託すというわけです。
今日では、大学も大衆化し、その結果当然にも「教養主義」も薄っぺらいものになってしまい、「教養主義」などアホらしいものでしかなくなっていったわけですが、
しかし「教養主義」の否定というものは現実肯定に堕することも明らかです。
この現実を突破して、新たな思考のパラダイム、あるいは実業において新たな産業の育成に立ち向かうには、むしろ現実から遊離した「思想」「知の体系」から汲み上げる立場に立たないと無理です。
今の日本、あるいは世界の混迷を考える時、あらためてそうしたことが問われていてきているとも言えるでしょう。
何も教養主義の復活を望むわけではありませんし、TVモニターの向こうから説かれる訳知りの「教養人」のご託宣ほど空疎なものはないことはバレバレです。
そうした者への批評的立場を確保し、現実の困難に立ち向かうためには、我々大衆の側も「正史」「聖典」(古代ギリシャ哲学以降の「知の体系」)へのアクセスを行い、思考を鍛える必要もでてくるというものです。
ネット上の情報アクセスが自由となった現在、広く「知の体系」への接近も可能となっていると思います(Googleの世界戦略も含め)。無論、ゴミだらけの情報の氾濫の中から、「知」を掬い取るには、それなりのリテラシーが求められるのは当然としても、iPadもそうした簡便な窓口になり得るだろうことも明らかだと思います。
私などはiPadはむしろこれまでコンピューターにう触ったことも無い、ネット情報には縁の無かった高齢者、あるいは社会的弱者にとって朗報となり得るガジェットなのかなと考えていますがね。
国内出版会社も今、積極的に電子出版へと踏み出そうとしていますが、経営判断とともに、新たな需要喚起への期待があるからだと思います。
もちろん紙、印刷媒体も無くなっては困りますし、棲み分けも上手くいくのではと、楽観視していますが、さてどうでしょう。