工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

無念と感謝がない交ぜになった2024年も終わる

9.11 WTC

2024年も間もなく幕を閉じようとしている。
新聞・TVなどは、来る2025年を「戦後80年」「昭和100年」などと、その結節点の到来に喧しいけれど、それを言うならば、個人的には四半世紀前を想起してしまう。
2001年、9.11米国WTCへの連続テロのことだ。

2001.09.11 WTC

当時、私などは新世紀を迎え、民主主義への新たな時代相を期待を持って待ち望んだ口だが、そんな無根拠で軽薄な考えなど、一瞬で吹き飛ばされるほどの凄まじいばかりの衝撃を受けたものだった。


まぁ、いかに自分自身がオポチュニズムに過ぎたのか、という証しでしかないわけなのだが…、

9.11WTCテロはアラブ世界からの戦後支配秩序への猛烈な異議申し立て、という見立ては、たぶん大きくは間違っていないと思う。

国際的に違法であった2003年からのイラクへの軍事侵攻も、失墜したアメリカの権威を糊塗するかのような焦りに駆られた無法な暴力でしかなかったことはその結果からも明らかだし(大量破壊兵器の存在ゆえのイラク侵攻であったが、それらの現認はされることなく、膨大な犠牲と、取り消しのつかない秩序破壊だけが遺された。日本の自衛隊侵攻もまた、一切の総括が為されぬママだ)、

ウクライナ戦争にしたって、ブッシュ父による強引なまでのNATOの東方戦略がプーチンを追い詰め、3度目の冬を迎えるウクライナ軍事侵攻は、両軍ともに先が読めない状況下、墓標だけが増大の一途。
いかに強がり言っても、米国の世界支配は歴史的に終焉を迎えていることは明らかで、
今は、次なる世界秩序の台頭への踊り場の状況なんだろうと思う。

ヨルダン川西岸地区とガザへのイスラエルと、アメリカなど同盟諸国によるジェノサイドは、ホモサピエンス・ヒトとは、ここまで残虐になれるのか、という実験場の様相を呈しており、いつ果てるとも知らず継続したまま、2025年を迎えようとしている。

今日もキーウでは空襲警報が鳴り止まない中での年越しだそうだ。
一方のガザでは、病院へのミサイル攻撃が止まず惨憺たる状況下で2025年を迎えることになるようだ。


米国ではかりそめにも民主主義を標榜していると多くの人々が信じていたのを嘲笑うかのように、“マタトラ”、トランプ2.0 による政権が1月20日に発足するという。

あるいは国内に目を向ければ、兵庫県知事選の結果に象徴されるように、法的正義などまったく無価値であるかのようなポピュリズム的選挙結果が相次いでいる。

自治体の公務における問題があれば、その情報と公益通報者こそ護らねばならないのは、イロハのイだが、それをネグレクトさせ、通報者のプライバシー情報を暴き立てる一方、この公益通報を無きものにするという猛然たる反動に県民が支持を与えるという選挙結果。

SNSの暴走だとか、いろいろと検証されているようだが、つまりは有権者一人一人が選択しているわけであって、その選択は重く、その結果こそ、兵庫の民主主義の現在地点であるという冷厳なる事実から逃げるわけにはいかないだろう。
その結果がもたらす、自治体運営の歪みは有権者が負うしか無い。

このように日米に限っただけでも、何か世界は根底的とも言える地殻変動が起きているのではと思わされ、背中にスーッと冷たい水を落とされたかのような不気味な悪寒を覚える。

1月20日になってみないと分からないとは言うものの、「ウクライナ戦争は24時間以内に終わらせる」と公言しているトランプの力技はとくと拝見したいところだが、
一番懸念されるのは、戦後世界の経済発展を約束してきた「自由貿易」というものを、根底から突き崩す「保護貿易」へと転換すると公言しているトランプによる脅威だ。

私は国産材はもちろんのこと、米材である、ブラックウォールナットやブラックチェリーなどを好み、よく使っている。

これらは今も円安の効果から、メッチャ高額での取引を強いられているが、「保護貿易」ともなれば、もはや、私の懐具合では手を出せない価格に高騰することは目に見えている。

米材の高騰に限らず、食糧自給率が38%ほどしかない日本にあって、これが「保護貿易」下になれば、下手すりゃ、既に深く傷ついている日本の社会福祉のおぞましい状況を考えれば、日本のあちこちで餓死者が続出する事態にすらなりかねず、ウォールナットが高くて買えない、などといった嘆きなど、アホか、と言われかねないほどに社会経済は疲弊し、混乱した社会へと一足飛びだ。

トランプが統治するアメリカ社会の多くの人々は、他国の状況など関心が無く、自国が豊かでありさえすれば良いというひとたちだ。
トランプと、その支持者ががなり立てるMAGA(Make America Great Again)とはそういうこと。

だが、これも簡単な話で、「保護貿易」で自国産業を優先したとて、競争力の無い米国産業を保護しても、人々は高い買い物を強いられ、職場は保護されても、物価高騰と他国からの怨嗟の眼に晒され、やがてはトランプの噓っぱちポピュリズム戦略の底の浅さに気づくのは、24時間とは言わないまでも、24ヶ月待たずに答えが出るだろう。

大統領就任の2年目にもなれば、2期目の無いトランプは力を失い、妬けノヤンパチで、世界情勢はますます混沌とし、世界秩序の根底的な地殻変動を促していくのでは無いだろうか。

木工に勤しむことと その素材としての“木”

さて、木工は材が無いことにははじまらない。
木工芸とは、木という素材を通し、作り手の教養、歴史観、美意識というものを表現するものであることは概ね了解して頂けるものと思うが、如何だろうか。

ミズメ(一枚板)のベンチ・座

経済的観念からすれば、マーケティング云々という話しになるのだろうが、私などはそんなものクソ食らえである。
自身の美意識を封印し、裏切り、市場の要求のママに手を汚し…、
なんの木工なの?と問いたい。

話しが逸れがちで申し訳無いが、ともかくも…、つまりは材が無い事にははじまらないのである。

個人的なことで恐縮だが、私は若い頃は遊びは一切せず、猛然と仕事をし、収入のほとんどは材木購入に投下し、今は40坪ほどの倉庫に多様な材種を在庫している。

保護貿易で高騰化するであろう材木をあえて買うことも無く、これら在庫を使い回し、凌いでいくことができる。

先日、ある教会から私のWebサイトにある教会の講壇を検索で訪れ、大変気に入ったので、少し規模の小さなもので良いから欲しい、との連絡。
これもマホガニー材(うちの場合、真正マホガニー)を多少在庫していることから可能となる受注だ。

たぶん、多くの若い木工家、木工職人は、注文を請けるごとに市場から必要な材をスポット買いするというスタイルを取っていることと思う。
仕事の単価に余裕があればそれでも構わないだろうが、多くの場合、そうでは無いことの方が多いのでは。

今後は余力のある時に、国内外問わず、材木を確保しておくことは、持続可能な木工に遅しむのであれば、必須の命題になっていくと思う。

あるいはまた、なんでもかんでも無垢材というのではなく、天然杢を練ったランバーコア材を導入するとか、制作スタイルの幅を拡げていくことも考えていく必要もあるのでは無いだろうか。

あらにはまた、制作スタイルとして、今まで以上に付加価値を高める方向へと踏み切ることも真剣に考えた方が良いのかもしれない。

制作する木工家具の品質を高めること、
ニトリが作るような家具を作って、果たして大資本の企業に勝てるはずも無く、自身のブランド力を高める方向でしか生き残れないことを真剣に考えた方が良いのかもしれない。


木工の場合、そうした高度化を図るためには、しっかりと技能を高めておくことも必須。
木工は他の工芸分野とはやや異なり、自身の美意識をストレートに投入することの難しい分野だ。
構築的というのか、有機自然物である木を素材とすることからの、基本的なセオリーを自らのものとした上での、創作である。

日々、自身の木工への愛を裏切ること無く精進を積めば、やがてはそれらの技法も自家薬籠中のものとなっていくであろうし、そこは心配には及ばぬと思うが、まずはマーケティング云々に気を取られる前に、良い木工を日々積み重ねていけば、それをキャッチし、その表現と、その背後にある技法を評価してくれる人は必ずや現れ出ると信ずること。

そしてそうした木工を可能ならしむるためにも、材を整えていくことだろうね。

2025年、希望を感得させるものなど、ほとんど何も無いかも知れない。
それでも人間社会において、古代からいつも身の回りにあった背後の森と、そこから木工職人が生み出す木工品は欠くことのできないものであったわけで、それは今後も変わることはない。

日々、良い仕事をし、良い日常を送る勇気と賢明さがあれば、苦しい時代も生きていける。
世界に目を遣れば、日本はまだまだ恵まれており、その資産を大切に、先人への感謝を心に秘め、良い仕事をしていくこと。

これらは全て、自身への戒めでもある。

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