工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

友との語らい、そして市民社会とは。

友人との酒席から戻ってきたところ。
こうしてMacを起動して、何が記述できるか。
記述すべきことがなければ、そのまま酒席アフターのほろ酔い気分のまま床につけば良いだろう。読者に迷惑な記述は避けるべきだろうから。
1つだけ話させてもらいたい。
帰路のJR車中、酔客に混じり、大学生と思しき女性と隣り合わせ。
数駅過ぎるあたりから睡魔に襲われたのか、参考書を片手に、もう片手にノートを取っていたのが握力を失い、ノートとペンを床に落下。
その身体ははボクの肩へと預ける形に。
落下したノートを拾い上げ、快眠への誘いに抗しがたいその女性の肩を叩き、笑顔を交えて、ノートを手にさせる。
驚いたように、あるいは済まなそうに受け取る。
ボクは今の日本社会というものに、かなりの違和感、あるいは危惧を持つ。
昨年末にも記述したばかりだが、中間的なコミュニティーが壊れてしまっていることへの危惧だ。


例えば、上述のようなケースの場合、たまたま隣り合わせた人との当たり前のコミュニケーションが取りずらい、ということが屡々。
街中で肩がふれあうだけで怒りの表情を向ける。
あるいは信号のない横断歩道を通過しようとしても、95%の車は停車することがないというのが実態だが、ボクはそれを諫めるために横断歩道であることをドライバーにジェスチャーで知らせるのだが、まず95%はしかめっ面を向ける。
これ以上に事例をあげる必要もなく、事ほど左様にコミュニケーションが取りづらい社会の相貌である。
宮台真司などが言うところの「田吾作」という抜けがたい心性が障害になっていると理解するしかないのだが、農村社会における閉鎖的な、あるいは他者を排除するという社会性というものは、いかに近代を経て現代社会の日本に生きるものではあるものの、いわゆる都市に在住する「市民」という概念が全く成立していないがために、本来あるべき中間的なコミュニティーとしての市民社会というものが、日本においては幻に過ぎないと言うことを常に思い知らされる。
ラーメン屋でラーメンを注文するというシチュエーションを考えてみよう。
ボクは時給750円で雇われているその店員とまともなコミュニケーションを取りたいと思う。
例え、マニュアル通りの接客マナーであるとはいえ、食を提供してくれる人への感謝の思いを伝えたいと思う。
「美味しいね、スープも飲み干したいほどの旨さだが、メタボになりたくないので遠慮させてもらうけど・・」などとくだらないけれども、一言を掛ける。
しかし65%ほどの人は、運ばれてくる店員に一瞥もくれず、ただ黙して箸を取るだけだろう。
どうしてこんな社会になってしまったのか。
ボクは一杯のラーメンにも感謝を示したいと思うし、若く苦労しながら社会へと参入してくる人へ大人社会への信頼、この社会も捨てたものではないよ、とのメッセージを授けたいと思う。
恐らくはこうしたことは残念ながら日本社会に根付くのはなかなか難しいことなのだろうな、との思いは強い。
日本における近代史の困難から抜け出ることが果たしてできるのか、というところに帰着してしまうからだ。
このことはまた別の卑近なところでも経験することがあり、その思いを強くしている。
とあるコミュニティーにおいて、なかなか理念が共有できないということに、宮台真司などが言うところの「田吾作」の思いを感受させられた。
論理的、倫理的な思考がほとんど「うざったい」ものとして受け入れられることはなく、ただただ情緒的な領域での関係性しか結ばれることがなく、事あるごとに大きな声の者から排除の論理を突きつけられてしまう。
ボクはへこたれはしない強さを持っているので構わないが、若く感受性の強い真摯に生きようという者にとっては、とても辛い思いにさせられてしまうのだろう。
こうしたことは、実はネット社会という今日的時代状況にとって、より促進させられているというのが残念ながら偽らざるを得ない実態であるようだ。
ま、ボクもネットの片隅でぐだぐだとしゃべくっているわけで、そうしたリスクから免れるものではないが、一方少しでも開けた未来、生きるに値する社会として、来る若者へと継いでいければ良いのだが、と考えながら今日も友と呑み語ったのだが。
民主党も政権交代したものの、その政権運営には苦労しているようだ。
無論様々に法的指摘を受けざるを得ない脇の甘さはあるものの、ボクが思うに、結局は市民一人一人が、相も変わらず「お上」意識から抜け出ることがなく、自分たちが作り上げた新しい政権という思いにはほど遠い、ということが最大の障害になっているのだろうと思わざるを得ない。
上述の隣り合わせた女学生が、自分の周りの大人も少しは信頼に足る、と少しでも思い至ることがあれば、少しはペシミスティックな気分も解消できるだろう。
(次回はしらふでちゃんと記述しますので。お許しを)

《関連すると思われる記事》

                   
    
  • NHKの9時のニュースの中で、「無縁社会」と題して特集が組まれています。
    他人事ではないので気になっているのですが
    先日、山田洋次監督がゲストで話していました。
    すぐに処方箋がでるような簡単な問題ではないのですが、その話の中で駅の切符の話がありました。
    昔は窓口で駅員から買っていた切符が自動券売機になり、改札で駅員に切ってもらっていた切符が自動改札になり、人と接することなく生活できる状態になりつつある、ということです。
    私は決して得意な方ではないですが、話かけてみる所から始まるかもしれませんね。
    時と場所を選んで(笑)

  • acanthogobiusさん、酔っぱらいの戯言を受け止めていただけたようで恐縮であります。
    >人と接することなく生活できる状態になりつつある
    なるほど、ですね。
    せめてコンビニのレジ精算の際にでも「今日は少し暖かいですね〜」などと声かけすることも、接客マニュアルを超えた異化作用をもたらし、意味があるかも。
    NHK夜のニュースは見ていませんが、確かにチェックしますと、仰る内容でのシリーズが放映されているようです。因みに今日は……、
    ▽無縁社会(5)引きこもる働き盛り 急増の背景は 
    http://www.nhk.or.jp/nw9/

  • 日本社会の人どうしの疎外感は、海外から戻ると、しばらくは逆カルチャーショックのように強烈です。
    帰国子女のある音楽家は、「いったいどうなっているのかと、信じられないほど、日本人は他人に冷たく、社会に無頓着」と嘆いていました。
    私はこの原因を、人どうしが精神的に共有し、よりどころとなる物、たとえばキリスト教のようなものがこの国に無いせいかと思ったりします。
    もしそうだとしたら、この問題の解決は、聡明なる知性にゆだねるしかないでしょう。それは日本人にとって得意な分野かどうか。ともあれ、達成するには相当な努力と時間が掛ると思われます。
    逆に、封建的、全体主義的な価値観が復活し、「よりどころ」としれ社会を支配するかも知れません。
    いずれにせよ、「志ある者」にとって、やるべきことは、近くにも遠くにも、山のように有るということは、間違いないようです。

  • マルタケさん、どうも、コメントありがとうございます。
    仰るように「キリスト教のようなものがこの国に無いせい」といった、このところの日本人の精神の寄る辺のなさに関しては、梅原猛氏(国際日本文化研究センター名誉教授)も明治の「廃仏毀釈」の問題が日本人の精神形成に大きく影響を与えてしまったことを指摘していますね。
    また日本における高度成長期のコミュニティーは「会社」と「家族」に依存するだけで、中間的なコミュニティーを作ってこれませんでした。この中間的なコミュニティーが希薄なままに、いきなり「国家」と繋がってしまうということから、マルタケさんが危惧する「封建的、全体主義的な価値観が復活」への懸念も出てきてしまうと言う訳ですね。
    日本にも間違いなくあった「農村型コミュニティー」(非言語的で情緒的な血縁、地縁などの紐帯)も封建的遺制として全て捨て去るのではなく、アジア特有の精神文化として受け入れながら、地域の伝統文化、教育の場所などとしてお寺なども重要な位置がなされるべきだろうと思います(葬式仏教からの脱却も求められることになりますがね)。
    より問題なのは「都市型コミュニティー」の方ですね。独立した個人と個人の繋がりというものは、ご指摘の「聡明なる知性」、つまり同質性を前提とした「農村型コミュニティー」とは異なり、異質性を前提とせざるを得ず、したがって言語を通した共通の規範、ルールといったものを共有することが必要でしょうね。
    このところ良く言われる「KY」、つまり「空気を読め」というのは集団の内部にあっては過剰なまでに周りに気を遣い同調せよ、ということを意味しますが、まさに「田吾作」であれと強制させられているようなものです。
    ご紹介の帰国子女のお話にもあるように、先進諸国にあって、突出して日本は「市民社会」(自立、自律した個人の確立を前提とし、他者の包摂、寛容性に包まれるコミュニティー)の形成が果たされていないということになるのでしょう。
    ただ私は必ずしもペシミスティックに考える者ではなく、最近では地域に社会的に繋がる様々なNPOが数多く活動し、またケアの領域でも多くの成果が上がってもいるようです。
    私はカント的な普遍的倫理に希望を託したいと思うのですが、記事で述べたような地域での生活レベルから「生きづらい」世の中に小さな風穴を開けていくところからもやっていきたいと思っているわけですね。
    マルタケさん、本年もどうぞよろしくお願いします。

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