工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

木工と身体性

昨日取り上げた1,300φほどの円卓の甲板を削ることは決して容易なものではない。
機械設備の充実したところでは、手鉋などに依らず、サンディングマシーンで削っちゃうかもしれない。
一方“手作り○○”と称する機械設備の無いところでは、やはり鉋などに依らずにポータブルサンダーで削っちゃうかもしれない。
過去何度か記述してきたように、恐らくはそうしたサンディングでの仕上げでは、本来の無垢板ならではの木理を引き立てる良質な質感を獲得することにはならない 。
サンディングでは、ひどいときには、春材、晩材の材質の堅さの違いからうねうねとしてしまい、本来の平滑性は得られないだろうことも容易に想像できる。
結論的に言えば、やはり木材繊維をシャープにカットする良質な工具鋼の刃を持ち、平滑に削ることのできる台鉋に依ることが最も望ましいことは、例え時代が変わろうが、その本質において他に代替できるものが無い以上、やはり今日的にも優れた方法であるということに違いはない。
そうした当たり前のことを愚直に理解し、必要であれば鉋掛けにともなう肉体的な負荷にも耐えられる身体を持ちたいと願う。
ボクは人生の半ばを過ぎようとする頃にこの世界に入った。
今考えれば遅きに過ぎたとも言えなくはないが、その後の自身の十分とは言えない木工人生に、そのことを方便としたくはない。
ただやはり松本で木工所の門を叩いた後、暫くの間はその苦しさに音を上げ、自身の選択には誤りがあったのではと、何度か悔いたことも確か。
鉋を持つのも初めて、やっと抱えることが出来るようなミズメの大きな厚
板を振り回すのも容易ではなく、身体は連日悲鳴を上げた。
夜中、床に着くと手のしびれが止まず、寝付けなかったことも多く、整形外科通いも始まっていた。
しかし今にして思えば、若くもない今日、大きな甲板を喜々として削ることの出来る技と胆力というものが残っているのは、やはりそうした修業時代の苦しい鍛錬の日々があったればこそだろうと考えるし、そうした機会を経ることなくしては木工の本質を追求するなどということも口先だけの浮薄なものに堕してしまう。
例え山頂まで岩を持ち上げることが徒労と見做されるシジフォスの苦行であっても、これを繰り返すごとに鍛え上げられる彼の肉体と精神はボクにはやはり神々しく思える。
俗人であればとてもそのような不条理に耐えられはしないが、しかし木工の苦しい修行などはしっかりと自身の鍛錬に繋がり、実利としての見返りさえ届けられるのだから。
シジフォスの上腕の筋肉のきしみほどでなくとも、仕事に打ち込むことで鍛えられるものはその者にとって偽りのない普遍的な価値の1つでもある。
拝金主義に貶められた現代社会にあって、職人という存在様式は少しは真っ当な生き方であるかもしれず、そのための必要な鍛錬は求めてすべきことだ。
親方などの話しに耳を傾ければ、職人が肩で風を切って闊歩していたシアワセな時代は確かにあったかもしれない。
現代は職能も職域もバラバラになったり(デザイナー × 職人、販売業者 × 職人 etc )、グローバル社会の到来などで職人の生き方も困難なものになっている。
それだけに職人として生育していくだけの社会的余力にも欠け、時間的余裕も奪われている。
そうした状況をどのように打破していくのかは我々の存在の在り方そのものを問う課題でもある。
しかし社会環境の変容へ恨みを募らすことよりも、何よりもボクたちひとり一人の意識の有り様と、それに裏付けされた高い職能を持って良い仕事を残すことから始めねばならないことだけは自明だ。
(今回のエントリはユマニテさんの記事にインスパイアされ促されたたものです)
鉋掛け

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  • 人間は誰でも自分の人生の中に自信なりプライドのような物を
    見つけ出して、それを拠り所にして生きて行くものなのでしょうね。

  • acanthogobius さん、もっともなお話しですね。
    「自信なりプライドのような物」の存在が、決して良いことばかりではない日々の生活を何とか安寧に過ごし、明日への希望に繋がるのでしょう。
    新聞紙面を賑わす昨今の痛ましい事件の背景には、この「自信なりプライドのような物」を奪われてしまっていることからの犯行もあるでしょうね。
    ボクたちのもの作りというところにおいては、作るものに、この「自信なりプライドのような物」が投影されることもあるでしょう。

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