工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

今なお先の見えない放射能汚染被害(3.11からひと月)

今朝早く車検のためディーラーまで往復する。
片道18Kmほどの道筋、眼に飛び込むのはそこかしこに咲き誇る満開を迎えたソメイヨシノ。
大小の河川、用水路の土手のほとんどに老木から若木まで精力的に植栽され、この時季を待ちかねたように我が世の春を咲き誇っている。

握るハンドルもおぼつかなくなるほどのその魅力は,明らかに他の花々と分かつものがある。
魔性とでも言い表したくなるほどに、である。

この魔性のせいか、ある想念がうすらボケになりつつあった頭脳に水を浴びせかけた。
これまでのこの花の時季には無かった、2011年の春ならではの、あるいはひょっとすれば今後長きにわたって強く支配されてしまうかも知れない事象への怖れである。

恐らくは原発関係者を除けば誰一人として愛でる者もいないだろう福島第一原発周囲の桜だが、今年は花芽を付けたとしても、果たして高濃度の放射能を浴びせ続けられてしまった来年はどうなのだろうか、10年後は、50年後は、と嫌な想像を巡らせてしまう。

放射能汚染は、自然界のあらゆるものに均しく見舞われる。
死の灰とは全ての命を拒否する反人類、反自然、反世界のエネルギーを持ち、しかしそれらは巧妙に封印されるはずのものと信じ込んできたボクたちに、露わな姿を持って今、迫り来ている。

ディーラーでもてなされた珈琲をすすりながら、ふと統一地方選での民主党大敗を告げる日経新聞の最後のページの歌人岡井隆のエッセーに眼をやった。
苦渋の文章とでも形容できればまだしも、そこには彼の若き頃の前衛歌人と評された面影を探すことはいっさい徒労に終わるだろう、苦々しい記述で埋め尽くされていた。
「原発は被害者である」という論調であった。
曰く「原発は、人為的な事故をおこしたわけではなく、天災によって破壊されのたうちまわっているのである。原発事故などといって、まるで誰かの故みたいに魔女扱いするのは止めるべきではないか。」と。

大震災によるツナミに襲われた結果、冷却系統を全て失い、暴走を止められなかったのは「想定外」のことであり、原発には何も落ち度はなく、被害者なのだと言い切る。

今もなお極東全域の大気にまき散らされる放射能の汚染源を眼前に置き、なお設置、および運用当事者である東電を擁護し、原発推進論者を鼓舞するものとしての力学をもたらすエッセーである。

もちろん日経新聞であれば、そのような論調でなければ採用されるはずもないものであるとしても、しかしいつの頃からか、歌会始選者となり、既得権益者の側に、あるいは言ってしまえば権力の僕となってしまった人の面目躍如といったところか。

福島原発から逃れ、落ち着く先の定まらないままに避難所をたらいまわしされる人々の前で、ぜひご自身がこのエッセーを声高く、朗読してくれたまえ。

たまたま見やった新聞紙面の1つのエセーでしかないが、こうした非専門的な「文化人」であれば、よくある底の浅いエセ文化人の戯言として横目で見やれば良いが、一方、この度の大事故を前にしてTV画面の向こうで解説する多くの専門家と呼ばれる原子力工学学者にはほとほと辟易とさせられる。
時間あたりの放射線量と、そこに継続的にいることで浴びる線量の蓄積を同列に論じ、ただちに危険とはいえない値でしかない、などとボクたちを煙に巻く。

しかしそうした低級なごまかしではもはや通用しなくなりつつあるようで、安全神話を振り巻いてきたNHKでさえ、数日前からやっと「最悪のシナリオ」なるものを示し始めてきている。

科学者、専門家、文化人、こうした人々の物言い、振る舞いをしっかりと峻別し、今、何が起き、どのような経緯を辿ろうとしているのかは、自身で分析しなければならないというのが、どうも今の日本における市民に課された一人ひとりの責務なのかも知れない。

以前、このBlogに寄せられたコメント、批判するのではなく専門家に任せよう、という姿勢がもたらしたのが、このような取り返しの付かない事故を引き起こした原発の設置そのものであり、あるいはツナミに無防備な設備であったり、事故後の様々な不手際ではなかったのか。

物理学者の武谷三男、彼が唱えた原子力平和利用の三原則としての「自主・公開・民主」は、果たして貫かれていたのか、そうした視点からボクはこの問題を見据えていきたいと考えている。
したがって「原発は被害者」などという非科学的で真理探究を封ずるが如くの物言いは、とても受け入れることはできない。

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  • 長期的に見れば確実に癌の発生率は上昇するでしょうね。ただ人類は
    まだそれを検証するだけの確かな知識を持ち合わせていないだけで。

    日本は法治国家だと思っていたけれど、政府や役人が自分たちの都合の
    良いように法律を作り変えてきました。
    道路にしても、ダムにしても、空港にしても、そして原発にしても。
    自分たちの利益のために作ることを決めてしまうと、反対する者は
    法律を作り変えても排斥しようとして来たのでしょう。
    結果、今の状態に至っています。

    しかし、悲しいのはやはり学者さんですね。
    原子力の専門家と称する多くの学者さん達が毎日登場しますが
    彼らも原子力行政の片棒を担いで来たのではないでしょうか。
    「こんなことになって申し訳ない」と言う学者を見たことが無い
    ですね。
    中には、そういう人もいるのかもしれませんが、教授にはなれないん
    でしょうね、きっと。
    被害者はいつも一般の庶民ですね。

    • acanthogobiusさん、
      >癌の発生率は上昇‥
      >ただ人類はまだそれを検証するだけの確かな知識を持ち合わせていない
      確かに因果関係を立証することの難しさがありますね。

      仰るように、政・官・学・業、四味一体の強固な既得権益者による政治経済社会の支配は腐臭紛々としていますね。

      昔、公害問題が盛んな頃、東大に宇井純という見識のある優れた学者がいましたが、最後まで助手というポストしか与えられずにいました。
      今回の原発問題では京大の小出裕章さんも異端の研究者として警鐘を鳴らす立場から積極的に発言されていまして、傾聴しています。
      彼は長く助手のポストで、現在は助教という肩書き。

      この度のフクシマ問題は、日本社会の様々な裏面を炙り出しているように思えますね。

      失礼ながらacanthogobiusさんとしては、かなり踏み込んだコメントで、ありがたく思います。

  • 現実を見失った偉大な歌人

     私も4月11日、日経新聞の岡井隆氏のエッセイに愕然としました。
    天上界から人間のさまを見下ろしているかのような冷ややかな視点。狂気をおもわせるまでの原発への賛美。長らく歌壇に君臨し続け、自らを魔王とでも錯誤してしまわれたのでしょうか。
    このたびの事故は、科学の力を、原発を過信し過ぎた、想定の甘さによる人災であることは自明の理です。一歌人がどう言おうと異論の余地はないでしょう。岡井氏はかつて

     原子炉の灯ともしごろに魔女ひとり膝に抑えてたのしむわれは 『鵞卵亭』

    と歌いました。有名な歌です。この度のエッセイには載せていませんが、この歌が念頭にあるのは明らかです。この歌を読者に思い出させたかったのではないでしょうか。それとも、この歌が「つまらなく思え」てきて、原発は被害者であり魔女ではないと否定したくなったのでしょうか。いずれにせよ、岡井氏には東電や国、原発推進論者を擁護しようなどという意図よりも、むしろ自分の歌が第一であるように見えます。そして、無意識にそれが、権力者の意図に沿うようになっているという。意識せずにそうできる自然に備わった能力をお持ちなのです。
    おそらく、この度のエッセイもこの歌も、突っ込まれれば「レトリックだよ、きみ」とでもおっしゃるのでしょう。遠い安全な都より東北の民を見下ろす貴族ように。

    それにしても、現実を見据えていない理想論者がトップに立ち、使命感に燃えた生真面目なまっとうな人々が犠牲になるという図式。
    戦争の頃から日本は変わっていないのではと思えます。戦艦ヤマトを浮沈と信じて、3000人近くを海に沈めてしまった、愛国心に燃える若者を、非科学的な精神論で特攻にかりたてた、この構造はそのまま福島原発事故にもあてはまる。全然進歩していない日本。
    反省しない国、日本。
    物理の理論だけでなく、理系にもしっかり歴史を学ばせてほしいです。

    • heliotropeさん、検索から来られた方かもしれませんが、こんな記事に目を停めていただき、また詳細な解読までいただき、感謝しています。

      >東電や国、原発推進論者を擁護しようなどという意図よりも、むしろ自分の歌が第一であるように見えます

      なるほど、あえて自身の歌を置かずしても、日経読者であればご紹介いただいた歌は背景にあるとの見立て、ですね。

      heliotropeさんご紹介の歌を典型として、この歌人、原子力(核)には異様なまでの思い入れがあるようで、中には日本の核武装をも夢想するかのようなものもあり、その思いの丈は尋常な水準ではなさそうです。
      それは単なる修辞を超え、核への憧憬とでも言わねばならないほどの何ものか、ですね。

       亡ぶなら核のもとにてわれ死なむ人智はそこに暗くこごれば 『蒼芎の蜜』?
       白鳥のねむれる沼を抱きながら夜もすがら濃くなりゆくウラン 『ウランと白鳥』
       日本が核兵器もて立つ時の近からむとして遠からむとす 『αの星』

      最初のものなどはフクシマ修復に奔走する作業員をかきわけて、我こそは、とばかりに進み出る覚悟がおありなのかもしれません。

      heliotropeさんのコメントのおかげでいろいろと視野も広がりました。
      また科学者(岡井隆は内科医)としての視座(核への距離の取り方)というのも様々なのだと教えられました。

      あらためて申し上げれば、日経の記事においても「核への憧憬」が明確に示されているようで、ちょっとこの種のインテリは本当に質(たち)が悪いな、とあらためて思いましたね。

      heliotropeさん、投稿の際、Submitボタンを押しましても表示されないことで、何度か試みられたようで、恐縮です。
      このWordPressというブログツールの仕様で、最初の投稿時のみ「承認」が必要とされるためです。今後は承認手続き不要で、ただちに表示されます。

  • 「大規模な天災や内乱による事故」に相当するので原子力損害賠償法にしたがって東電が賠償責任を免責されるのは「当然」である、という米倉弘昌氏の恫喝のような威圧的な発言をまったく問題視しない日本のマスメディアは本当に異様と言うしかありません。東京新聞の独自記事のいくつかや「政策の大転換を図れ」という毎日の社説などは評価できますが、朝日は東電本社前でのデモや抗議行動を東電とその社員に対する「嫌がらせ」についての記事のなかでしか言及しないなど、東電や電事連に買収されているようにしかみえませんし、経団連の意向には決して逆らわないのもいつも通りです。しかし、たとえば赤川次郎氏は(オペラや演劇の演出についての考えは恐ろしく保守的な筆者でありますが)経営と編集が事実上未分離のままであるかのような日本の大手メディアの方針に迎合して信条をまげたりせず、朝日での自分の連載のなかで、電力会社や歴代政権だけでなく、巨大広告主に忠実なマスメディアの姿勢も遠慮なく批判しています。この意味で、彼は大手メディアの外部寄稿者として、こちらで話題になっている岡井隆氏と対照的といえるかも知れません。
    小出裕章氏が原発の原理を説明するさいに、しばしばそれを蒸気機関と比較していることが私には興味深く思えます。石炭を燃やすかわりに核分裂反応を利用する「蒸気機関」とは、なんというばかげた「進歩」なのでしょう。それはまさにベンヤミンが見抜いていた「カタストロフとしての進歩(Fortschritt als Katastrophe)」に他ならないと思います。冷戦期に大気圏核実験に怒りながらも核エネルギーの「平和利用」は無邪気に礼賛していた「進歩主義者たち」もまた、そうとは気づかずにカタストロフに加担していたのです。「原発は、資本と国家の狂気の産物なのだ」と小倉利丸氏は断言しています。
    「理系にもしっかり歴史を学ばせてほしい」とコメントされているかたに同意しますが、どの分野にも、クレーの天使と同じように顔を過去に向けて目を大きく見開いている、真摯な学者は存在するのではないでしょうか?私たちが原発震災という用語を負っている石橋克彦氏は、柏崎刈羽原発の事故を「大自然から発せられたポツダム宣言」に喩えつつ、この最後通牒を無視したことによってフクシマのカタストロフを惹起させた電力会社、政府そして御用学者をきびしく告発し、「日本がアジア太平洋戦争を引きおこして敗戦に突き進んでいった過程が、現在の日本の「原発と地震」の問題にあまりにも似ていることに驚かされる」と書いています(『世界』五月号)。

    • Tosiさん、いろいろと示唆を与えていただきありがたく思います。

      前段の経団連会長の東電全面擁護の言ですが、衒いのかけほどもない、あまりのストレートさに笑っちゃいます。
      マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の「精神」』などというのは、日本の経済人のエートスの中に見いだすのは、とんでもない勘違いというわけですね。

      経済人に限らず、原発村の学者、あるいは既製メディアのほとんどが批評精神を持たず、その精神的退廃は眼に余るものがあります。

      赤川次郎さんについて触れられていますが、所得番付の上位にランキングされていた20年ほど昔はあまり好印象は持たなかった(単なるビンボー人のひがみ?)のですが、彼の社会批評は傾聴に値するものが多いと感じています。
      知的活動をされる方の本来の姿を見る思いです。

      >「原発は、資本と国家の狂気の産物なのだ」と小倉利丸氏
      私も同意します。

      >クレーの天使と同じように
      クレーの画業は、ナチスとの熾烈な闘いの中で決して批評精神を失わず、弛まず描き、生き抜いてきたところに深く敬意を抱いています。

      なお、これだけは申し上げておきたいのですが、この原発メルトダウンを巡る言論を、何か政治的であるとか、イデオロギーであるとかの物言いも散見されるわけですが、日本における原発導入の原点、そしてその後54基にまで推進してきた経緯の方こそ、実は第1級の政治的意志によるものであったということを勘違いしないで欲しいということです。〈正力松太郎(読売)ー中曽根康広〉

      Tosiさんのように冷静かつ客観的な視座を持ち得る人は決して多くは無いかも知れませんが、この度の東電および原子力村のあまりの拙劣さを見せつけられ、これを機に覚醒される人が多く出てきているように思います。ネット社会という新たな時代背景も手伝って。

      私も思うのですが、こうした多くの市民を巻き込んでいる事象と言論というのも、結局は日本と、そこに生きる市民のエートスによってその方向性も決まるんだろうな、ということです。

      したがって楽観視はできず、困難になることは明らかですが、しかし希望を失うことなく、避難されている人々の苦しみに寄り添い、生きていきたいものです。

      Tosiさんのいくつもの詳細な紹介にいろいろと考えさせていただくことができ、ありがたく思います。

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