工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

東日本大震災・災害ボランティア活動日録(1)

プロローグ 1

2011年3月11日14:46:地震発生

三陸沖、深さ約24km地点、国内観測史上最大規模、マグニチュード9.0(暫定値)の地震発生。
この時間、工房での作業中だったが、ラジオからの緊急地震速報を聴き、慌てて居間に駆け込みTVを付けた。
数秒後、立ちくらみかと思わされるようなゆっくりとした横揺れがあり、これが三陸沖を震源とする地震による揺れだと自覚するには数秒のタイムラグがあった。

その後TVでは続々と各地域での震度などが報じられていったが、数日前(3月9日)の三陸沖地震で緊張していたこともあり(気仙沼在住の顧客と連絡を取り合っていた)、深刻な事態であることへの想像が働く。

*福島第一原発では稼働中の1・2・3号機が自動停止。
大地震・大津波により非常用発電機、制御盤などが損傷(全電源喪失)1・2号機は非常用炉心冷却装置注水不能。
半径3km圏内の住民に対する避難指示
半径10km圏内の住民に対する屋内退避指示

3月12日(地震発生から1日経過)

03/12朝刊・夕刊

03/12朝刊・夕刊

朝刊には地震、津波による被害実態を知らせる、タブロイド紙並の最大ポイント活字が踊っている。

気仙沼在住の顧客には連絡取れず。
盛岡市のギャラリーオーナーとは連絡が付き、無事の確認が取れる。

多賀城市内で暮らす従兄弟3家族のことが気がかりで、電話をするも全く繋がらず。
そのうち二人の職場(仙台市内の大学研究施設など)も同様に繋がらない


この日あたりから、現地災害ボランティアへの決起を考え始める。
(うちに来ているHくんとの会話の中から、この震災への関わり方の1つとして、有用で効果的な方途を模索しはじめた、というところ)

仕事終了後、主にネットから現地の情報収集をスタートさせる。
「宮城県社会福祉協議会・ボランティアセンター」の書き込みを確認。
被災翌日ということの制約上、まだ有用な情報は掴めず。
他県を含め、未だボランティアに関わる情報は起ち上がっていない。

いずれにしろ、ほぼ現地へと赴く決意は固まりつつあったので、それを可能にするためのいくつかの問題解決にあたる。
主要には10日後に控えていたとても大きなボリュームでの納品設置作業に関する問題。
ただこの顧客も被災地の1つ、盛岡市内であったが、幸いにも新築住宅内外の被災は無く、無理をすれば納品できなくもなかったが、相手もこのような状態での受け入れは遠慮したいとのことで、延期することに。

他にもいくつかの業務上の懸案事項を俎上にし、1つ1つクリアさせていく。

業務上、クリアできない問題は残るものの、ともかくも現地ボランティア活動のプランを立ててていくことにする。
現地活動期間:往復の行程を含め1週間
        具体的には10日後の連休明けの22日あたりからとする
活動拠点:車両でアクセス可能な地域を前提としながらも、甚大な被災地(三陸沿岸部)
派遣人員:工房 悠から2名、これに数名の増強をねらって隊員を募る
支援要請:支援物資の調達とともに、義援金を募る

*福島第一原発:1号機ベント(格納容器の圧力が異常となり、弁開放)、
1号機建屋水素爆発。
原子炉に海水注入。
半径20km圏内の住民に対する避難を指示

3月13日(地震発生から2日経過)

03/13,15日朝刊

03/13,15日朝刊

日曜日だったが、精力的に宮城県下被災地のボランティアセンターの設置状況の情報収集と、連絡が取れるところ全てに電話アタック。

この日の収穫は思ったほど無かったが、とりあえず、宮城県ボランティアセンターのスタッフAさんと連絡調整をし、当方の基本的な立場(自己完結型での支援態勢をもって臨む)を理解してもらい、登録する。

メディアではこの段階でのボランティアは現地が混乱し迷惑を掛けるだけなので遠慮すべき、との情報が流され、拡大するばかりだったが、宮城県B.CのAさんとの調整過程を見る限り、迷惑どころか、とてもありがたく、喜んで迎えたいとの印象。

Googleマップなどで、宮城県下にアクセスするためのコースを検討。
予断を許さない福島原発の事故も考慮し、上越回りでのアクセスを基本とする。
被災地域の寸断を含む道路事情はネットを駆使して情報収集。

現地活動における必要資材の洗い出し、リスト化。

*福島第一原発:3号機、冷却装置注水不能、ベント。真水→海水注入。
2号機ベント。

[自己完結型]のボランティアとは
・往復の車両運行に必要とされる燃料を含む自力運行が可能であること
・食材、調理機材、睡眠、排便など諸々の生活基盤の自力更生が可能であること
・隊員は健康で、有能な資質を有し、有用な活動が可能であること

3月14日(地震発生から3日経過)

終日業務に専念するものの、断続的に情報収集と現地B.Cとの連絡調整を進める。

Blog更新。福島第一原発を巡る状況、あるいは収束への見通しどころか、次から次へと新たな深刻な事態が繰り広げられることへの懸念を記述するも、批判はすべきではなく、専門家に任せてけ、とのコメントもあり、「原発問題のタブー視」「安全神話」なるものの強固さをあらためて思い知らされる。

*福島第一原発:3号機の建屋で水素爆発。
2号機:燃料全体が露出、海水の注入。ベント

3月15日(地震発生から4日経過)

午前中は業務に就くものの、断続的に情報収集と現地B.Cとの連絡調整を進める。
宮城県下のいくつかの地域でB.Cが設置されはじめる。
それぞれと連絡を取り合い、マッチングを試みる。

午後はレンタカー情報収集、資材調達などで慌ただしく行動開始。
レンタカーも引越時期と重なり、またこの度の震災関連で供給力がさらに減少の様子で、なかなか適切なものが見つからない。
大手のレンタカー T社では契約書を取り交わすも、最後に行き先を東北と告げると、いきなり断られてしまう。

Blog更新:「緊急 エスペランサ・木工隊結成へ向け(ご賛同と協力を求めて)」
いくつかのコメントが付いたが、多くが賛同と、支援の約束を語るもの。

*福島第一原発:2号機、爆発音。4号機でも建屋、爆発、火災、破損
オフサイトセンターに対し退避命令発出、福島県庁へ退避

3月16日(地震発生から5日経過)

午前中は業務に就きつつも断続的に情報収集活動。
義援金のための口座開設。
団体名での口座開設はハードルが高かったが、事情を説得し、キャリア女性行員の計らいでクリア。

午後から県の工業試験場での研究会出席。
同会場で災害ボランティアへの訴えをするが反応鈍し。

一方、さっそく昨夜の「 エスペランサ・木工隊結成」に応え、遠方の見知らぬ人からお米提供を約束するメールが届く。
涙するほどにありがたい。

Blogへの反響も悪くない。
被災地への支援を代行する「 エスペランサ・木工隊」に、多くの読者が希望を託してくれている。
コメントの一方、メールでもいくつもの支援の約束が入ってくる。
これら一つ一つに励まされ、またその責任の重さを感じ取る。

*福島第一原発:4号機で火災、3号機より白い煙

「東日本大震災」への災害ボランティアには多くの励ましとご支援を受けてきたが、支援者のお一人の方から、ぜひ日録での報告が欲しい旨の依頼があり、やや時間経過もあるものの、簡単な日誌を元に記憶が鮮やかなうちに記述していこうと思った。
数回に分けてupしていきたい。

薄緑色の段落:福島第一原発事故の概略経過
   ボランティア活動中も常にこの福島第一原発事故の推移が気掛かりであったので、並行して記述することとした。
薄青緑色の段落:個人的な関心領域

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