工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

東日本大震災・災害ボランティア活動日録(4)

被災地・災害復興支援活動

3月23日(地震発生から12日経過)天気:晴れ、その2

被災地Map

被災地支援対象地域Map



自衛隊車両の車列には理由があった。
石巻災害ボランティアセンターが設置されている石巻専修大学へのアクセスの途上、石巻市総合運動公園の広大な敷地には自衛隊の災害支援部隊の駐屯地が置かれているからだった。

カーキ色、あるいは濃緑色に塗り潰された大小の軍用車、ヘリコプター、そして様々な重機、大型のテントなど、かなりの部隊展開を想像させる規模に見えた(道路から少し土盛りされた地形の広大な敷地に展開しているので分からなかった)。

そこを抜ければ間もなく到着地、石巻専修大学キャンパスだ。

石巻専修大学キャンパスはJR仙石線、石巻駅から北西2.5Kmの旧北上川東岸に位置し、430,000㎡を超える敷地を有する広大なところ。
石巻市社会福祉協議会の下の機関、「石巻災害ボランティアセンター」は、ここ「石巻専修大学 5号館」に設置されている。

本館などの建築棟の南に大きな駐車スペースを挟み、広大なグランドが広がっている。
既に芝生のグランド部分には大小のテントが張られ、ボランティア活動も精力的に行われている様子だ。

駐車場の一角に車を停め、さっそく「石巻災害ボランティアセンター」と大書された臨時の受付カウンターに出向き、待ち受けているスタッフから説明を受けながら、ボランティア活動員としての登録を行う。

石巻災害ボランティアセンタースタッフは石巻市社会福祉協議会のスタッフ、およびボランティアのNPOなどだろう。

それぞれの個人情報、さらには有する資格、特技などを書き込み、当方の能力と態勢を確認する。
続いて白いガムテープに自身の名前を書き込み、上着上腕部にベタリと貼り付ける。

いったん小さなプレハブ小屋で待機したが、間もなく呼び込まれ、さっそくこの日の活動内容を指示される。

石巻市内在住の被災当事者からの救援依頼は、いくつかのルートを通しつつも、全てここに集約され、スタッフがこれを分析し、ボランティアの態勢、能力、要員などを差配しつつ、適切なマッチングを試みる、ということであるようだ。

こちらは意気揚々と、何でもやらせてもらおう ! という姿勢で臨んでいるのであり、当然にも提案された支援対象を引き受けることに。

しかしこうして事前登録もなく、テキパキと支援対象被災者とのマッチングをしてくれるという能力と態勢にはいささか驚きに近いものがあった。

この執筆時点では、ほぼ止んでいると思われるが、この頃は「民間のボランティアは、まだ被災地に入るべきでない」「慌て者は迷惑を掛けるだけだ」「プロに任せよう」などといったメッセージがあちこちから聞こえてきたり、ボクたちの起ち上がりへも様々な陰口もあったようだ。

しかし現場における実態とは、このように実にスムースに受け入れ態勢が整い、的確にマッチングが行われていることに示されるように、そうした過度の抑制メッセージは被災者との距離をより遠ざけ、悲しみに塩を塗り込むようなものでしかないのでは。

さらには、被災者からは連日多くの支援依頼が殺到していて、呆れるほどに広大で、またそれぞれが甚大な被災実態を持つ被災地のことを考えれば、まだまだ民間ボランティア要員は、絶対的に不足しているというのが実情という他はない。
こうした実態と、一方からの抑制メッセージ、あるいは起ち上がろうとする心あるボランティア志向の方々への嘲笑、あるいはまた悪意を含んだ言説との非対称を一体どのように考えれば良いのか ?

こうしたクライシスの中でこそ、おのおのの立ち居振る舞い、思考の鼎というものが問われると言っても良いだろう。
殊にメディアでのそれ、専門家と言われる方々の本質が問われるのだろう。

四の五の言う前に、被災地、被災者への哀しみを共にし、彼らの受難のほんの一部でも担おうといういう個人レベルのボランティアにおいておや、十分なまでに人間的豊かさ、思考の高みを見いだすことができるのではないだろうか。

支援依頼があった対象地区は石巻市の中心街で、JR石巻駅近くの店舗兼住宅の2軒(実際には、現場でさらに数件増えたのだが)。

さっそく渡された住宅地図を頼りに現場に向かう。
石巻専修大学へのアクセスは内陸部からであったということもあるが、市内中心部に近づくに従って、地震、津波の被害の一端を示す光景が拡がっていた。
日中であったので最初は分からなかったが、ほとんど全ての交通信号が消え、市街は停電であることを教えていたし、道路を含め全ての地面が墨を撒いたような色で染められたヘドロ様のもので敷き詰められていた。

またあちこちで車が転倒し、あるいは逆さまの状態で折り重なり、様々な生活物資が掃き出され、濡れそぼり、朽ち果てている。
道路脇の多くに汚く濡れた畳がうず高く積まれ、壊れたタンス、家具が無秩序に吐き出されて置かれている。

今では世界中のあらゆる事象がTV受像機を通して目の当たりにできる時代だが、こうした光景と言うものは全く初めての事で、ただただ悲しみを超え、言葉を失い、若い頃に拾い読みした怖ろしいほど遠い過去の随筆、鴨長明の「方丈記」に記述されることの再現のように思えた。
文化、文明の何とはかないことか。

間もなく石巻駅を左に見て、支援対象の被災者宅に到着。

ここのご主人は外で迎えてくれ、まず被災見舞いを申し上げ、さっそく依頼された作業に取り掛かる。
1階部分は全て津波に洗われ、破損し、倒壊している。足の踏み場もないほどまでに無秩序に散乱した状態。

恐らくはこの被災者も着の身着のまま逃げ、そのまま避難生活を送り、そして自宅に戻り生活復旧へと歩み出したのが、10数日経ての今日だったのだろうと思われる状態だ。
もちろん水が引くにもかなりの日数を要したものと思われるし、またそれ以上に、信じたくもない非道な自然の仕打ちにうち沈む中から、生活再建へ向けての決意を固めるまでに要した時間でもあったのだろう。

救援依頼内容は主要な生活資材を数100m離れた借家まで運ぶこと、であった。
水没したものの、何とか使えそうなタンス、あるいは冷蔵庫などを、一輪車、あるいは人力で運ぶのだが、これが思うほど楽ではなく、途中何度か休憩しながらの搬送作業だった。

被災者宅内

散乱する家財

ボクたちは家具屋でもあるので、こうした作業は比較的手慣れたもので、それぞれが要所を押さえ、テキパキと進めることができたのだったが、それにしても水没したものものの重いこと、ったらありゃしない。
畳など普通でも軽くはないものだが、じっとりと濡れたままで数倍の重さになった畳を持ち運ぶというのは、あまり経験したくもない難儀な作業ではある。

依頼内容を終了し、挨拶もそこそこに、数件先の依頼者宅へ移動。
ここは角地の花屋さん宅。

小さな商いであったと思われるが、店舗の商品棚は散乱し、花を入れるバケットも散乱、足の踏み場もないほど。
続いて住居でも全ての家財が転倒し、濡れそぼり、ヘドロに洗われたせいか、異臭を放っている。

とりあえず転倒した家財を正立させ、抽斗が使えるように(中のものが出せるように)し、廃棄処分するものを外に出し、昨年夫を亡くされたばかりという独居老婦人が再起するまでの必要最低限の支援作業を行うという内容だった。

支援者側のボクたちが留意したのは、悲しみに沈む被災者に寄り添い、お手伝いさせてくださいという姿勢を持ちつつも、できれば抑制的ながらも明るく振る舞い、淡々と、しかし力強く、依頼作業を滞りなく完遂させること、である。

その後、近隣の住宅で支援活動をしていた二人の若い学生のボランティア活動員(Hさん、Sさん)と合流し、共に活動を進め、終了後は我々の車両に同乗してもらい、帰路に就いた。

その後数日間を、野営を含め、同行することになったメンバーたちだ。

石巻市街は地震と大津波による甚大な被害を受けていて、その範囲はとても広汎にわたるのだが、ここ「石巻専修大学」も電気・通信の途絶などに見舞われたものの、津波被害には遭わなかったようで、また建造物も外見からはその損傷は見られないという状況。

そうしたことから、石巻市も広大な敷地を持つ、この大学キャンパスに災害ボランティアセンターを設置している。
また石巻赤十字病院も一部の機能がここに置かれているようだ。

Top画像は国土地理院が大震災翌日の3月12日に撮影した衛星写真を下に作成した。
Baseのほとんど全てが黒くなっていることが分かるが、これはヘドロのためである。
因みに、Googleマップの最近の衛星写真を見てもらえば分かるように、現在はかなり白っぽく埃にまみれた状態で、その地域環境の変容が見て取れる。(Gマップ

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