工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

日本社会の再生が懸かっている(大震災後のボクたち)

ボランティアについて少し考えてみたい。

ボクはかつて、これといったボランティアに従事したことはない。
あるいは、街頭で見かける募金にも必ずしも積極的に応じるという方でもない。

どちらたかと言えば、むしろ懐疑的な見方、いわば誤解を恐れず言ってしまえば偽善の香りに身を引いてしまう、という方である。
問題は政治社会、経済政策の貧困さにあるだろう、支配システムにこそ問題があるだろうとし、それを自覚するのであれば、募金に応ずる前に自身こそがなぜ行動を起こさないのか、という自戒があり、募金に応ずる側の偽善性に赤面しちゃうという風だった。

ただ一方では、人間存在の意味、現代社会に生きる者として次の世代に何を残すべきなのか、ということへの強い関心を持つという気風であったことは確か。

日本社会を覆っている閉塞感(オウム真理教事件から9.11へ)

ところで近年、ボクが最も哀しみを覚えたのは身内の不幸でもなければ、業務上の失態などからの自己嫌悪でもなく、ブッシュジュニアによるイラク先制攻撃の時代のあるできごと。
日本人のボランティア活動員などの人質事件と、それをめぐる国内の言説から受けた強い衝撃だった。
この時ばかりは例え身内の不幸の席でも泣き言も言わない自分も、人生観、社会観を木っ端微塵に打ち砕かれる思いで、嗚咽と共に泣き崩れたものだった。

戦場のイラクに単独でボランティアなどにいくなどとんでもない、
日本政府に迷惑を掛ける奴など許せない、
などといった誹謗中傷の嵐が吹き荒れ、解放後の関西空港でのありとあらゆる罵倒と嘲笑に迎えられた高遠菜穂子さん、郡山総一郎さん、今井紀明さんら3名の人質。

あの映像とその後の国のありとあらゆる汚物をまき散らしたかのような、おぞましい言説には、こんな酷たらしく怖ろしい日本の市民の一人として、身震いが止まらず、悔しくて悔しくて、苦しくて苦しくて、泣けて泣けて、たまらなかった。
世界の全てが敵に見えてきたものだった。

この日本社会の冷酷さ、人間社会として許されざる仕打ちを平然と行い、「自己責任」なる言辞の一人歩きのおぞましさに、ホントに胸が潰される思いだった。

「空気を読め」に見えるコミュニティの不在

こうしたちょっと信じがたい集団ヒステリーが起きてしまうというのは、とても尋常ではないわけだが、これは一体何に起因するかと考えた時、やはり社会のコミュニティの不在という日本社会特有の問題に思い至ることができる。

つまり日本においては成熟した社会とは言うもののコミュニティ、公共空間というものがあまり育っておらず、むしろ戦後営々として築き上げてきたと信じられていた平和と民主主義なるものが、大文字としては理解されてはいても、地域という単位での小さなコミュニティの在りようを見るかぎり、地域ボス支配があり、お上意識が拭えず、いわゆる参加型の民主主義は根付いていないというのが実態であるように、実はほとんど幻想でしかなかったという表象として、こうした信じがたい「ムラ社会的」事象で国全体が席巻されてしまうのだろう。

日々の満たされない気分が、ある事を通して1つのターゲットを吊し上げ、一気に爆発的に燃え上がってしまう。

あるいは日常生活レヴェルにおいても、「空気を読め ! 」という「ムラ社会的行動規範」が、この21世紀の日本において、当たり前の振る舞いとして強制されているというこの不思議さ。

しかもそうしたことが国家的抑圧装置の一員として機能してしまうことを、どこまで自覚しているのか知らないが、中間共同体がガラガラと崩されてしまっているために、個人 → 国家へと一気にジャンプしてしまい、集団ヒステリーの一員として振る舞うことにアイデンティティを覚えるという、倒錯した思考が蔓延してしまっている。
思考がとても平板で、ゆとりが無く、単線的。
多様な価値観がより集まって、豊かな社会を構成できているはずの、近代社会というものの特性が、まったくと言って失われてしまっている。

このような日本社会に見られる公共空間の薄ら寒さというものがいったいどのようなところにその素因を求めればよいのかは、とても複雑で難しくも思うのだが、1つには日本社会の近代化というものが、欧米社会とは明らかに異なる歴史的社会背景を持ち、跛行しつつ、アジア的遺制を残しながら“成熟”してしまったことに、求めることができるのではないかと常々考えている。

つまり誇るべき近代社会であるはずの日本だが、実はいわばムラ社会を一方で残しつつ、高度消費社会、ハイパー資本主義の経済社会を迎えてしまっているという特異な歴史的経緯と現状に焦点を合わせれば、意外にも胸にストンと落ちてくる。

こうしたことを自覚しつつ、また一方での近代という概念への懐疑(9.11に見られる近代への異議申し立て、あるいは金融資本主義による世界的席巻とその崩壊)も明らかになった21世紀に生きるボクたちは、今あらためてこれからの未来を構想させていかねばならないところに立たされていると思っている。

未来の〈救済〉への兆しはある

しかし、そうした閉塞的な社会へとずるずると引きずられつつある中、希望の兆しはあちこちにみえてきていることも紹介しておかねばならない。
これはあくまでも個人的なフィルタリングに過ぎず、他にもいくつもあるはずだ。

その希望の兆しとは、全身に悪罵を受け、嘲笑され、結果、大きな心の傷を負いながらもなおイラクへの支援活動を弛まなく継続している高遠さん、そしてアフガンで医療ボランティアとともに井戸を掘り続けている「ペシャワール会」の中村哲さん、さらに松本サリン事件で奥様が大変な障害を受け、また本人も犯人視される扱いを受けながらも、冷静に事件を見据え、オウム真理教信徒との交流を続けている河野義之さんらのことだ。

ここではこの文章の主要なテーマでもなく、彼らの活動を詳しく紹介するほどの紙幅はないのだが、いずれも個人の立場から、いわゆる時の政府の政策、あるいは一般社会のエートスに逆行するものではあったとしても、己の信念に従い、静かな中にも熱い心を持ち、人間社会への信頼を担保として、勇気を持ってリベラルな社会の一員として、その劈頭に立っている人たちである。

重要なのは、こうした方々は決して大きな組織を背景とした活動に従事しているわけではなく、あくまでも個人レヴェルの営為として淡々と行われている、ということを考えていきたいと思う。

「自己責任」なる無責任な言説、オウム信者との交流を継続する河野さんへの故無き悪罵、日米同盟の下でのアフガン戦争への積極的な荷担への反逆者でありつづける真の勇者たち。
ありとあらゆるおぞましい輩とは、その信念の強さときっぱりとした潔さ、明晰なる社会観に裏付けられた個人の強さにおいて、対極的なまでに異なる、高い人間性と倫理観の人たちである。

大震災・原発事故をめぐる言説から

ここでは福島第一原発事故を巡る言説は取り上げないようにしたいが(稿を改めて論じたいとは思うが)、原発タブーというものが明らかに存在し、これが事故を巡る言説にも大きなブレーキとなっていることも見ての通りであるように、真っ当な公共空間、真っ当な言説空間がなかなか育たないどころか、オウム事件、あるいは9.11以降、より劣化のスピードを速めているとさえ思えてならない。

しかし今般の福島第一原発事故が、直接的に人命に関わる問題であり、あるいは一部とは言え、国土が蹂躙されてしまうというその甚大さゆえ、全ての市民の注視する事象であるために、これらを巡る問題を通し、これまで覆い隠されてきたタブーが明るみに晒され、真に大切であることはいったい何なのか、ということが、全ての人々の前に突きつけられ、態度表明を迫られていることも見ての通りである。

あるいは大震災の後、ボランティアへの決起がかつてなかった規模で澎湃として巻き起こっている(「エスペランサ木工隊」もその類か)ことに見られるのも、実は以前もこのBlogで語ったように「新しい公共空間」への萌芽形態の1つといって間違いではないだろうと思っている。

さらには、国家的規模でのクライシスを眼前にし、人々は類としての本能に従うままに、日本社会を覆ってきた何かヘン、といったようなわかりにくさ、生きにくさを、明示的に、やっぱりヘンだよな、こんな世の中、といった異議申し立てとしての行動に駆り立てているのが、福島第一原発事故で避難を余儀なくされている方々の政府への、東電への、専門家と称する教授連への怒りではないか。

日本は今、試されている(新たな社会の再生へ向かって)

日本は今、本当に試されているのだと思う。

かつてないほどの被害を受けながらも、人々は笑顔を取り戻しつつ起ち上がりつつある。
既にあちこちの被災地で産業復興の槌音も響いてきているようだ。

それらの背景にはまだまだ明確ではないのかも知れないが、これまではなかった新たなコミュニティの勃興、新たな公共空間の模索もあるのだろうと思いたい。
そうしたことを支えとして人々は希望を見いだし、新たな一歩を踏み出していく勇気が湧いてくるのだろうと思う。

つまりは上述したような、これまでごく一部の希望の兆しというものが、この度の一大クライシスの衝撃とともに、類としての生存本能の赴くままに、軌道修正しつつ、持続可能性を模索しつつ、あり得べき社会のあり方に向かって歩みを始めているのではないのかなと考えている。
またそうでなければこのような1945年敗戦期に匹敵するほどの、あるいはそれ以上とも言われる危機に立ち向かっていくことはできないのではないか。

「がんばろう ニッポン ! 」「ニッポンは強い国」などの連呼の気色悪い、浮薄なキャッチコピーではない、危機の中からしか産み出されることのない、真に新たな社会の再生へ向かって行くことが求められているのだろう。

そうでなければ30,000人に近いと言われる犠牲者、行方不明者の犠牲に応える道はないのではないだろうか。

受難を引き受けるものとしての〈ボランティア〉

おっと、ボランティアの話だった。
ちょっと冒頭の約束とは異なる展開になってしまったが、要するに、ボランティア活動というものも、実は新たなコミュニティ生成への先駆的形態であるということだね。

国家に任せておけ、プロに任せておけ、といった社会構成における拙劣な思考を超えて、人々自身が、市民の一人ひとりが、被災地の受難の一部を引き受け、人の社会の本来の在り様を見いだすためのものでもあるのではないか。

社会において、人というのは決して一人で何事かを為し得るものでは無く、人とともにあること、社会の成員の一人として、しかし自律している個人であってはじめて、生きることの確信と、生命への賛歌をも感受することができるものであるはずだ。

いわば生きるということは倫理観に基づいた行動規範があってはじめて、清々とした生を生きることができる。

あるいはこの度の福島第一原発事故による放射能汚染でもっとも懸念されるのが、小さな命、子供達への健康不安であるわけだが、これはまさしく、類として、何を次の世代に残せるのかということへの本能的な危機意識に基づくものなのだろうと思う。
次の世代へ向けての無償の愛こそ、今を生きるボクたちに課せられた最大の命題ではないのだろうか。

本来、生命体とはこうして次の世代にDNAを伝え、渡してやっていくことがあらゆる行動規範を貫く原則であるわけだが、ホモサピエンス・ヒトは壊れてしまった本能を持つ故に、近代以降、人類は愚かなことばかしを重ねてきている。
原子力とはまさにそうした愚かな選択の1つであったことが、この度の事故によって明かされてしまった。

こうした状況であるにもかかわらず、相変わらず事の本質を見失い、事故への批判はやめろ、専門家に任せておけ、などという訳知りの言説もはびこっているのだが、もはやかつては許されたであろう、そうした既得権益者を喜ばす装置は意味を為さなくなってしまっているではないか。
事ここにいたって、何を今さら自己保身に逃げるのか。

まぁ、いろんな立場性、置かれた環境、様々な浮き世における軛(くびき)などもあろうから、それに縛られての不自由な物言いも理解できないわけではない。

しかもこの度のボクのボランティアの訴えには想定を超えた支援が寄せられたという事実もあり、満足すべきものとして総括されねば罰が当たる。

見知らぬある人からは手塩に掛けた貴重な農作物を送っていただき、ある女性は春のドレスに充てる予定の金品を惜しげもなく振り込み、送り届けてくれ、ある人は大勢の仲間に呼びかけ集金、集荷してくれ、それぞれに尊い贈与が集まり、ボクたちのわがままを積極的に支えてくれた。
これ以上望むことはないのかもしれない。

時代は変わりつつあるのだ。
例えそれが自然災害を機に突きつけられてしまったという特異な経緯ではあったとしても、逆説的にいえば、これを好機として捉えることで、再生へと歩み始めることの可能性をそこに見いだしたいと思う。

ボランティアの問題から派生し、軌道がままならない脱線の連続になってしまったが、実はボクの思いと、ほぼ通底する事柄を書いてくれている、「エスペランサ 木工隊」の一員、服部さんのWebページをLinkして、お詫びとさせていただきたい。

稿を改めて整理した形でいずれ書き直そう _(_^_)_

木工房ろくたる:民間ボランティアの意味

私たちは試されている。
これから逃げることは、恐らくはできないだろう。

《関連すると思われる記事》

                   
    
  • 気分的には震災ネタは少し食傷ぎみで、すみません、artisanさんの最近の記事も全てを読むことができずにいます。
    最近のニュースなどを見ていても、被災地の悲惨な状況と、今後の日本のあり方の議論が私の頭の中でゴッチャになってしまって、震災ネタから少し距離を置きたい気分になっているのかもしれません。

    今朝の新聞で、例のサンデル教授の意見を読むと、議論の大切さを感じることができます。
    彼の話は原発の今後についてのものですが、日本の政治家が良い仕事をしないのは市民がそれを要求していないからだとして、建設的で開かれた議論ができるかどうか、日本の民主主義が試されていると言っています。

    マスコミなどで連日流れている議論を他人事とするのではなく、自分の意見も
    まとめて見る、というのも必要かと思いつつあります。

    • acanthogobiusさん、こんなテーマにコメントいただき、ありがとうございます。
      木工関連記事も上げねばならないのですが、暫くお待ちください。

      さて、マイケル・サンデル氏のハーバード大での学生主催によるシンポに関する記事でしたね。
      ここでは仰るように原発の賛否をめぐる議論について ──
      「思慮深く、丁寧な議論をすること。絶対に議論を避けてはならない。社会が直面する最も困難な課題について、賛否両派が相互に敬意を持って、公然と討議できれば、民主主義は深まる‥‥」
      ほとんど同意しますね。その通りだと思います。

      この東日本大震災を機に「世界市民」への意識が生まれるかどうか、ということが1つのテーマになったようですが、私もこれについてはここ数年来、強い関心を持ってきたことです。
      数年前に刊行された、 『世界共和国へ』(柄谷行人)という著書では21世紀におけるこれからの社会構想が描かれていまして、これへの関心なのですが、このマイケル・サンデル氏の関心はこれと通底するものがあると考えられます。

      福島第一原子力発電事故については高濃度の放射能の国境を越えた大気汚染、海洋汚染は日本への信頼を著しく損なっているわけですし、そうした直接的な問題に留まらず、この事故を機にドイツでは既に〈原発ルネサンス → 脱原発 → 自然エネルギーへの強い傾斜〉へと大きくシフトチェンジがされたように世界各国のエネルギー戦略へ強い問題提起となっていますので、まさに世界的な課題となってしまっているわけですね。
      これらは狭い領域でのエネルギー戦略ということに留まらない、現代文明への懐疑、持続可能な生存様式をも展望する壮大な命題にいきつくことになりわけですが、まさにそれが問われているということになるのだと思います。

      これは各国の政治リーダー、あるいはエネルギー戦略の専門家、科学技術者らに留まらず、市民的レベルでの強い関心領域といって良いでしょう。

      そうした状況の中にあって、私たち市民一人ひとりが、この問題から逃げずに、日々生起する事態の、その核心というものをメディアでまくりの専門家と称する「原子力村」の方々の一面的なメッセージではなく、暴かれつつある真実を捉える、賢い市民の眼のレベルで掴みたいものだと思います。

      恐らくこの機会を逃せば、これまでの「安全神話」に基づいた原発推進の力学は変化しないでしょうし(つまり日本では永久に変化しないことになってしまう)、これを教訓とした民主主義の深化もあり得ないでしょうね。

      やはり私たちは試されているのです。世界の眼が向けられているのです。

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