工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

3.11以後の日本社会を生きるということ

初盆を迎える被災地

東日本大震災と呼称される3月11日の大災害から早くもく5ヶ月が経過し、犠牲者、遺族にとってのこの夏は初盆でもある。
その初盆を迎えるべき我が家も今は流出し、流浪の民として生きる遺族も少なくない。

また今年のお盆の帰省は例年とは異なり、被災者らだけに留まるものでもなく、多くの人々がそれぞれの係累の絆をあらためて確かめ、傷ついた心身を癒やすものとなっているのではないだろうか。

一方、日々に疎しという言葉通りに、あるいは人の噂も七十五日といった風な移ろいやすい気分というのも確かにあり、震災から遠く離れた地域、身の回りに被災者を持たない人々にあっては、何事も無かったかの如くに淡々と日常が執り行われていたりもするのだろう。

ひとはそんなに強くも無く、いつも困難ばかりを背中に貼り付けて生きていけるものでも無いから‥‥。

しかし被災地ではほぼ整備されてきたと言われる仮設住宅への移転も、様々な事情からままならず、未だ避難施設暮らしを強いられている人も少なくなく、また福島県内からさらには首都圏に至るまで、多くの人々が沖縄を含む関西以西、あるいは北海道へと疎開しつつあり、そしてまたこの夏休みを機に、様々なところからの一時疎開の受け入れプロジェクトに参加すべく旅立った子供たちも多いといったように、3.11から止むことの無い緊張を強いられ、明日の我が身の想定すら困難な人々がいる。
この両者を分かつ絶対的とも言える非対称はより鮮明になっていくばかりだ。

3.11福島第一原子力発電所事故と日本社会

そうした諸々の厳しい現実を前にして、被災地外の人々にとっても3.11以後というものをどのように生きるべきなのか、思い悩む人も少なくないはず。

これらの人々に連なるボクにしても、自らの来し方、行く末というものに定かならぬものを抱えているわけだが、しかし被災地、被災者にストレートに該当するものでもない気安さも手伝ってのことなのかも知れないが(実際には低線量の被曝を受けていることは間違いないところなのだが)、少し不埒ながらも、これを奇貨として日本の再生へ向け歩み出せるのでは、との“淡い”期待があることも確かなのだ。

このあたりは安易に語ることなど許されない重さもあるのだが、しかし3.11大震災、あるいは福島第一原子力発電の壊滅的な事故後の事業者(東電)、許認可の所轄官庁(経産省、保安院など)、そして原発ムラに棲息する専門家どもの傲慢さ、嘘っぱち、無責任態勢のあからさまな露呈を前にして、この問題からの克服は、つまりは原子力発電が抱える問題に留まらず、戦後日本社会にはびこってきた様々な旧弊、産・官・学・業の腐敗した馴れ合い、利益共同体というものからの、根底的な脱却の、恐らくは戦後長きにわたって為し得なかった最後のチャンスがボクたち市民の前に巡ってきているという認識に立つことができるように思うのだ。

あるいは逆に、そうした日本社会の成熟の果ての腐朽、制度疲労というものの1つの表れとしての福島第一原子力発電所の大事故と、その後のいらつくばかりの関係機関の体たらくといった捉え方もできるだろう。
事故の克服と、新たな再生というものは、結局は世直しへと踏み出すしか、為し得ない事柄なのだろうと思っている。

そうした日本社会、日本の政治における転換点に立つ問題であればこそ、既得権益者からの猛然たる反撃であったり、遅々として進まないエネルギー転換へ向けての社会経済界での整備、新エネルギー産業への政策的転換の見えなさ、といった現象として表れているのでは無いだろうか。

何をよすがに考えれば良いのか


先にこのBlogでもこの原子力発電に関する自分の不明を恥じたばかりだが、あまりにも遅きに失したとはいえ、ボチボチと関連する書物に目を通しつつ胆力を鍛えているところ。

とはいえ、なかなか確固とした定見を備えるとまではいかないので、今もなお日々識見のある科学者、専門家、批評家などの見解、評論、展望などに頼る毎日だ。

そうした対象の中にあり、福島第一原子力発電所の惨状を知り、そしてこれとどのように向かい合えば良いのかという疑問に答えてくれる書を上げよと問われれば、迷うこと無く差し出したいと思うのが小出裕章氏のいくつかの文献だ。

大手メディアからはともかくも、ネット上では彼の言説が聞こえてこない日は無いし、彼の近刊は書店でも恐らくは最も目立つところに平積みになっているはずなので、購入するまでいかずとも、目にした人は多いと思う。
最近立て続けに新刊が上梓されており、その1つは20万部を超える売れ行きだといわれている。(3.11後の発刊:『原発のウソ 』(扶桑社新書)

彼自身は、この市場での受けいられ方にとても困惑を覚えているようなのだが、これについては「The Washington Post 紙」に優れたルポと評論があるので、ぜひ参照していただきたい。(逐次翻訳してくれ公開されている記事がこちら

そこでも取り上げられていた『放射能汚染の現実を超えて』という書こそ、まずもって多くの方々に読んでもらいたいと切に願う。

チェルノブイリ事故後の1991年に執筆された書物だが、この度、復刻再刊されたものである。
当初はわずかに3.000部しか売れなかったと、このWP紙は報じているが、それは読むに値せずとして無視されたわけではなく、当時の多くの日本人が原発安全神話に凝り固まっていたことの反証であり、今は遅ればせながらも真実に迫りたいという大勢の読者に支持され、その十倍、二十倍〜の数で読まれている。

小出裕章という生き方

彼は原子核物理学、原子力学、環境動態解析、原子力安全、放射性物質の環境動態などを専門とする科学者で、京都大学原子炉実験所に勤めている。
ここで助教という肩書きで日々原子力工学、安全学について研究しているわけだが、この助教というヒエラルキーにいみじくも表されているように、ずっと大学内のポジションとしては冷や飯を食わされ続けてきた人であるようだ。(これを知り、最初に口走ってしまったのは東大の助手であり続けた環境学、公害問題の専門家、宇井純氏の名前だった)

3.11後、事態の真相を知りたいと全国の多くの人々から講演に招かれる小出さんだが、開口1番、まず次のように涙ながらに語り始める人である。
「長年原子力にたずさわって来た者として、今回の事故を止められなかった事を謝罪します」と。

普通は「それ見たことか、だから普段から言っていたじゃない、原発はあぶないと‥‥」と言ったような言い方でそれまでのルサンチマンを濯ぎ、勝ち誇るといった風な人が多いと思う(事実、幾人かの反原発の識者からそのような話しを聞いているし、少し後述したいと思うが香山リカ氏もまたこうした諸氏やネット言説をくさしている)。

彼のように、まずは自己批判から始めるという姿勢というものは、ほとんどの専門家の口からはついぞ聞いたことのない小出氏固有の振る舞いだが、ここにこそ彼の専門家としての本質の一端が表れているように思う。
ボクが彼に信頼を寄せ、またこうした人がいてくれたことに、科学、原子力学への一縷の望みを託すことの幸いを覚えたのも、彼のそうした独自の、揺るぎ無い、誠実な魂をそこに感じたからである。

原子力を専門とする科学者として真摯に研究に取り組み、であればこそ、人類と相容れることのできない原子力工学の危険性を訴え、しかし3.11福島第一原子力発電所のカタストロフ的事故という現実を前にして敗北感に苛まれながら、謝罪の言葉からはじめるしかなかったという、その姿勢こそが科学者である前に一人の誠実な人間としての覚悟と勇気を持つ人の真骨頂というべきだろう。

いや、だからといって決して私情に流されるような人ではなく、科学的論証をこそ厳しく自身に課し、いわゆる原子力ムラといわれるメインストリームから完全に排除阻害されながらも、片隅で連綿として原子力という困難な科学技術の研究者として留まるという、やはりどこまでも真に科学者として生きる1つの典型を彼に見ることができるように思う。

この福島第一原子力発電所の事故を巡り、推進派、反原発派、それぞれの専門家がメディアの前で識見を披瀝してくれていて、今やそれは食傷気味でさえある。
ただ個人的な見方で言うならば、その中にあって少なくない専門家が3.11を結節点として、推進派、あるいはそこまでいかずとも容認派と目される人がとつぜん脱原発の論陣を張るという苦々しい現実があることも確か。

(あまりの)断定口調の分かりやすい解説、TVに出まくりの反原発学者、こうした人は気をつけるに越したことはない。
いつ何時、世の中の動きを先読みし、持論を撤回して、新たな装いを身に纏ってボクたちの前に姿を現すというのがこの手の専門家だ。

よくよくその人の背骨に貫かれる本質というものを見抜かねば、おかしなところに連れて行かれてしまいかねない。
今はネット検索でいくらでも過去の論調を見ることができるので、安易な転換は難しくなっているが、ネットなどにアクセスしない人もまだまだ多いので、一定の影響力を持ってしまうことにはネット以前と変わるものではない。

小出氏はそうした人々と明確に一線を画し、一貫して原子力の危険性を訴え、様々な地域での反原発の運動に真摯に参加、協力してきた人だが、こうした科学者、専門家が今ボクたちの3.11後の混迷を少しでも払拭する導きの使徒としてあることに奇縁というものを感じる。
世の中、捨てたものでは無い。

この3月に東大を退官された女性学のパイオニア・上野千鶴子さんの退官記念講義をネットから聴講したのだが、彼女もそうした変節を経た反原発派への不信を語っていた。
同じペンで糊口する専門家として、その厳しい振る舞いこそ、真の研究者、学者の在り様だと教えられたものだ。(Women’s Action Network・上野千鶴子震災支援特別講演「生き延びるための思想」


今回は小出さんの名前に触れるだけで、既にBlog的紙幅を満たしてしまっているので、具体的な紹介は次回に回したいと思う。

精神医学者・香山リカという生き方

最後に記事中で触れた香山リカという精神医学の分野の著名人の小出氏と彼の言説を評価する人々への批判について少し触れておこう。
問題のエッセーがこちら(「小出裕章氏が反原発のヒーローとなったもう一つの理由」
ここでは精神医学における手法を使った分析による社会時評的な内容が展開されているわけだが、閉鎖的な研究所内の楽屋話として溜飲を下げるものとしてはおもしろいかも知れない。
しかし、いわばこの専門バカとしか言いようのない分析は、ほとんど自分の足でフィールドワークすることのない、うすぼけた頭脳の中でそれまで培ってきたスキルを用い完結するだけの解析結果でしかない。

曰く

ネットの世界を中心に、原発事故にのめり込んでいる中心層は、一般社会にうまく適応できなかった引きこもりやニートである。
彼らとっては、長く学内で冷遇されてきた京都大学の小出裕章氏が反原発のヒーローであり、小出氏によって自分たちが抱えてきたルサンチマンが一気に晴らされたという感覚があるのかもしれない。

仮に彼らが精神科を訪れて、病名をつけなければならないとしたら、現実社会にうまく適応できないということで「適応障害」と診断することになるでしょうか。あるいは、世の中に対して恨みごとを言い連ねるタイプの人には「パーソナリティー障害」という病名を伝えるかもしれません。

小出氏はこれをどのように聞いただろうか。
彼にとってはこれまで数十年に渡って、口汚く悪し様に取り扱われてきただけに、ただ彼女もそうした系譜の中に棲息する非科学的で非誠実な一人であるに過ぎないと見做すだけだろう。

3.11福島第一原子力発電所事故による放射線汚染から逃れるように流浪する人々を前にして、果たして彼女の精神医学はどれだけ説得力を持つのだろうか。
今、この時点において問われているのは、現在進行形の福島第一原子力発電所の惨状がどうなっていて、これとどのように向かい合えば良いのかという、藁をもすがる思いに応える専門的な知見であり、具体的な対策なのであり、これに真摯に対応しようとする専門家・小出氏と、彼の言説を受け止め、また広く知ってもらうべく非力を省みず闘っている多くの人々を精神分析の対象とし、これを冷笑し、くさすことの社会的意味というのは自ずと明らかだろう。

さらにはネット上でいかに小出氏の言説を評価したとしても、社会を変える力にはなり得ない、とばかりに結論づけてもいる

彼らが原発問題に熱狂して、彼らが何かを変えられるとしても、ネットの中の一つの小さなトレンドに過ぎません。現実に動いている体制には、大きな影響を与えることはできないのです。

この記事にはさすがに多くの批判が殺到したらしく、次の投稿では「お詫びと補足」を上げているのだが、しかしほとんど内容の無い自己擁護の弁に終始。

このコラム集のタイトルは『香山リカの「こころの復興」で大切なこと 震災で負った傷をいかに癒やすか』とあるが、彼女の意志とは逆にその実態は「‥‥震災で負った傷にいかに塩を塗り込むか‥‥」と変えた方が適切ではないか。
こうして日本社会における知識人と言われる人々も、3.11以後、鋭くその本性が峻別されてきているというのも特徴的な事の1つだ。


*参照
小出裕章 (京大助教) 非公式まとめ(日々更新)
迫害され続けた京都大学の原発研究者(熊取6人組)たち(現代ビジネス)
・‪オランダメディアの福島取材:小出裕章氏へのインタビューも‬‏(YouTube
【イベント】シンポジウム 脱原発社会は可能だ(小出裕章氏パネラー)
福島原発事故緊急会議 情報共同デスク


土曜なので、久々にYouTubeを貼り付けてみる。
今日は武満徹の『三月のうた』を、
詞は谷川俊太郎 (未刊詩集『祈らなくていいのか』収録)
映画「最後の審判」(堀川弘通監督)の挿入歌
メゾソプラノ:波多野睦美、リュート:つのだたかし

[youtube]http://www.youtube.com/watch?v=xeCaFy_khD8[/youtube]

『三月のうた』

私は花を捨てて行く
ものみな芽吹く三月に
私は道を捨てて行く
子等のかけだす三月に
私は愛だけを抱いて行く
よろこびとおそれとおまえ
おまえの笑う三月に

3月の石巻に思いを馳せながら聞き入ってしまった。
また東北に出掛けてみたいと思う。

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  • よい曲ですね。染み入るような感じです。波多野さんのまっすぐな声がいいです。

    • 小品ですが良い曲ですよね。
      武満さんならではの独特の曲調(コード進行)を、ノンビブラートの波多野さんが詩情豊かに歌い上げていますね。
      彼女の声でこうした日本の歌曲をどんどん収録して欲しいです。

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