工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

日本語がちょっとやばい(例えばTVメディアの場合)

スミレ
新茶の季節になって、産地静岡でもこれに関する報道が増えている。
3月末の異常な寒波でハシリの一番茶が大きな被害を受けていることは先に触れたところだが、今日の正午のNHKローカルニュース枠内で「新茶祭り」を伝えていて、おぉ、無事に摘み取られていたんだね、と胸を撫で下ろしたまでは良かったのだが、若い女性アナウンサーの「テーブルに広げられた赤い絨毯の上には新茶が‥‥」には、思わずずっこけてしまった。
その映像には深紅の緋毛氈が鮮やかに敷かれているのだった。
「赤い絨毯」でも決して間違いとは言わないまでも、「緋毛氈」(ひもうせん)という古来から伝えられてきている立派な名称に代えて「赤い絨毯」は無いだろうと思った。
1、取材し、原稿を書いた記者、
2、これをチェックするデスク(ディレクター ?)
3、下読みするアナウンサー
取材から放送まで最低でもこの3者のフィルターがあるだろうと察せられるが、いずれにおいてもスルーされ、報道されてしまっていたというわけだね。
さしたるニュースでもないし、どこかに影響を及ぼすものでもないので、目くじらたてるほどのものではない。
所詮彼らにとってはルーティンワークの1つでしかない、というわけだ。
またここ数年、TVメディアにおいてもほとんど社会的に許容されているかのように使われている「“ら”抜き言葉」には大きな抵抗感を持つ。
美しくなく、はすっぱな感じを受ける。
若いアナウンサーのほとんどが「“ら”抜き言葉」を乱発し、誰もそれを指摘しない。
それと、これはどうなのだろう。
「なので‥‥」といきなりはじまる言い方。
この[and]、[so]、にあたるこの接続詞は本来は「したがって」が本来の用法のはず。
いつ頃から使われているのかは分からないが、ボクには強い違和感がある。
ボクは昨冬、“積ん読”に任せていた?村薫の小説を通読したのだが、彼女が事あるごとに口を酸っぱくして語るのが、日本語を正しく伝えていくことの重要性について。
時代の経過とともに人の口に上る言葉が変容していくというのは、ある種避けがたいものであることを了解しつつも、日本文化の深層を豊かに形作り、また美しく彩ってきている“ことのは”というものは次の世代へと正しく伝えていく“その時代に生きる人々の義務”というものがあるようにも思う。
ま、しかしボクもこのようなBlogを書き綴って来ているわけで、それ自身かなり怪しい日本語であることも自覚しなければならないと思っている。
Blogというスタイルからして、必ずしも推敲を重ねての記述というわけにはいかないという言い訳もできるが、可能な限りに間違いは避けなければね。
通常夜半に記事をUPしているが、翌朝あらためて読み直し、記述の間違いに気づくことも少なくない。
漢字変換の誤り、テニオハの誤り、文体の不具合 etc。
読者の方も間違いに気づいたら指摘していただけると嬉しく思う。
さて今日のYouTubeハはエリック・サティー、『ジュ・トゥ・ヴー』(Je te veux)を。
実は先ほどNHK FM、音楽番組でレギュラー司会者のピアニストが最後にこれを弾いていた。
ただ演奏がとってもヘン。
この曲はサティーの曲の中では最もよく知られたワルツだが、このピアニストの演奏は全然ワルツらしからぬ演奏だった。要するにノリが悪く、踊れない曲想だということ。
どうしてなのかと良く聴けば、三拍子をただ均等に割り振ったリズムだったから。
これでは本来のワルツではない。
ワルツというのは、指揮で言えば均等にトライアングルを振るのではなく、
一拍子で振るというのが本来。・・・どう説明すれば良いかな‥‥。
勾玉の形があるよね。あんな形で振る。内側にえぐられた方が一拍目で、強く振り下ろし、二拍目はやや遅れて、しかも遅めに流れ、三拍目は残り少ない与えられた時間までに急いで振り上げる、と言った感じかな。
あらためて言えば、一拍目を強く振り下ろし、次の二拍目、三拍目はやや遅れ気味に、付け加えるといった不均等な拍子で振る、弾くのが本来のワルツ。
これであってはじめて躍動感の出るリズムとなるんだね。
YouTubeでまともなものを探したが、高橋アキさんのものは皆無だし、お兄さんのものも無い。
仕方がないので本場フランスからと思われる、プロバンス風の庭の映像が美しいものが見つかった。このピアノ演奏の方はワルツになっているよね。微妙なリズムの乱れが美しい。
『Je te veux』は「お前が欲しい」とか翻訳されるらしいが、よく知られたシャンソンだ。

サティーの曲に続く話としては、少し不似合いだが、明日25日、午後3時から沖縄、読谷村運動広場で、「米軍普天間飛行場の国外・県外移設を求める県民大会」が開かれる。
10万人という空前にして絶後の規模になりそう。
おれたちヤマトンチュウは関係ねぇや、と言い切れる問題であるはずもなく、鳩山民主党政権の帰趨を占う大きなな基地反対運動となりそうだ。
(参照「沖縄タイムス」)
Top画像は工房前の庭のあちこちに咲いているスミレ。
小さきもの、汝は美しい

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  • はじめまして、いつも木工関連の記事を楽しく読ませていただいております。
    ところで、本記事の日本語の乱れについてですが、ごもっともな論であると思います。しかし、過去に「腰パンにドレッドヘアと鼻ピアス」を肯定する記事を書かれた方が上記の論を展開することは、日本語の乱れならぬ、論理の乱れではないでしょうか?違和感を感じてしまいます。

  • 如泥さん、ようこそ、コメント感謝です。
    ご指摘の件、痛い ところを !!
    よく読んでいただいている読者のようでありがたく思います。
    まず感謝せねばいけませんね。
    ご指摘の件ですが、確かに矛盾した物言いのように受け取られるのもごもっともだろうと思います。
    つまり言語用法の乱れと、若者の服装などの乱れに共通の社会状況を見る、ということを対象とする記事ですので、そうした位相からは仰るように矛盾した記事とも取れるものですね。
    ただ私が擁護した国母選手の記事は、国内でのこの問題をめぐる言説、およびメディアスクラムの様相も加え、あまりにも一面的、かつ同調圧力のニュアンスの強いことへの警鐘の意味を含むものとして挙げたことはご理解いただけるものと思います。(ああいうパッシングというのはまずいですよ、悲しすぎます)
    このコメント欄においては詳述できませんが、スケボーというスポーツが五輪種目として取り込まれた歴史的経緯、アメリカのサブカル的な要素を強くする特異なジャンルのスポーツであることなどへの言及がメディアなどではあまりにも少なく、あのような記事内容になったということもあります。
    無論、そうした若者にも「言語用法の乱れ」というものがあるだろうことは察して余りあるわけですが、それとこれとを同列に論じるというのは私の思考スタイルではイエローカードになります。
    今回の言葉の乱れの問題は、言葉の簡便化を対象としたに過ぎませんが、語彙を劣化させるということは、つまりは思考を単純化させるということに繋がってしまうことはご理解いただけますでしょうか。
    難しい言葉で言えば言語とは単なる記号ではなくシニフィエ(意味内容)という能動的な概念を持つものですね。
    言葉を操ることで、人は始めて人として生き、かつ死ぬのです。
    生の喜びを言語で表すことでより豊かなものとなり、死への哀しみも言葉によって伝えられ、そうして人々の歴史は刻まれていくのです。
    日本語はこれまで数千年、数万年の歴史の中から洗練され、今に伝えられてきているものですが、これが猛烈な勢いで単純化、変容していくのは困ったものだというのが主旨です。
    それを促しているのがTVの中のアナウンサー、役者であるというのははなはだ困ったものです。
    ただこのように「違和感」を提示してただき、議論の機会を与えてくれたことには、如泥さんには感謝しますね。ありがとうございます。
    私ももっと深く考えていきたいと思います。
    今後もお気づきのことがありましたら、コメントください。

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