工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

木工屋のBlog運営とは(続)

昨年末ころ、信州木工会の方々が来られて交流させていただいた際に、定形のアンケートに答えてくれ、との依頼があり、断るようなことでもないので正直に応えておいたのだが、この中に「この仕事を選んで幸せですか?」という設問があった。
はて、どう答えたものかと少し戸惑いがあったが、結局次のような回答になった。
「仕事は人生の全てではありませんし、壊れちまった日本社会ではシアワセを感じるのは難しい。そうした留保付きですが、悪い選択ではなかったという自負はあります。」
なんか、とても中途ハンパな回答だな、と自分でもあきれてしまう。
この中途半端さ加減がどこから来るのか考えてみることから筆を進めてみたいと思う。
木工という産業は古来から連綿として継続発展してきたものだと思うが、しかしこれを担った職人達を巡る社会的環境というものは大きく変貌してきたことは他の産業と同様だろう。
これは職人の仕事も結局は時の社会的諸関係に規定されたものだいうことを示している。つまり職人が置かれている社会的関係、経済的基盤はその時代における諸関係に規定されざるを得ないと言うことだ。
しかしそうした時代的制約の中にあっても、モノ造りという分野固有の特徴は変わることなく連綿とし引き継がれてきていると考えても良いだろう。
モノを作るというのはホモサピエンス、ヒトという生物に与えられた固有の特性だ。確かに他の動物でも道具を使うというものたちがいるが、これを作り、使いこなす、というのはヒト固有の特権だろう。
こうしたモノ造りを職能として体得し、専業としているのが木工家、木工職人ということになろう。
このモノ造りというものは上述したように人間本来の固有の特性を存分に発揮できるものであるということにおいて他の職業にはない充実感とともに誇り高いものを感じ取ることができることは、多くの人が体得しているところだろう。
したがって「この仕事を選んで幸せですか?」という問いに“不幸せです”という回答は本来矛盾したものであるわけだ。
しかし付帯条件を付けることなく無条件に“シアワセです”とは、なかなか言えるものではない。
しかも昨今の新自由主義的経済環境下で、このモノ造りというものが置かれている環境は大きく激変しつつあり、経済的与件からしてどのような運営をしていくべきか悩むというのは共通するところ。
シアワセな職業であるけれど、しかし現代社会でのシアワセの定義には欠かせない経済的条件を叶えることの困難性から逃れることは出来ない。
こうした要因がボクの曖昧な回答となって表れるくる。
ところで、このシアワセな人生をもたらすモノ造りについてもう少し敷衍してみよう。
働いた結果として生み出されるモノ(木工家具)ができた喜び、達成感というものはもちろんだが、実はもっと普遍的な人間的喜びというものに支えられたものがあるように思うのだ。
地球がもたらした環境の一部である木材という有機植物を素材として、木取りし、加工していく。これらの全ての過程で素材との深い次元での対話が繰り返され、この対話の中からモノへの透徹した認識が生まれてくる。人間にとってこれほどまでの文化的営為があるだろうか。
樹木の特性を存分に知り、その木に内在する木目、細胞の配列を読み取り、これを加工するための道具を知り、そして道具を自ら作り、木が訴えてくる仕上がりの姿というものを体現させていくという相互作用。
こうした素材と職人との対話に裏付けられたモノ造りであってはじめて顧客を満足させる木工家具として、あるいは木工芸品としての品格が与えられるのではないだろうか。
「木工屋のBlog運営とは」というタイトルとはほど遠いところに来てしまったではないか、と訝る向きは多いと思うが、話を戻そう。
今述べたようなシアワセな仕事であるために、多くの木工家、木工職人は木との関係性において自己完結してしまうことにもなる。いやむしろそうした自己完結できる仕事であることでシアワセを感じると言えるのかも知れない。
恐らくはそれで十分なのだろうと思う。自己と仕事との間に交わされるこのシアワセな関係性に何ものも介入などできはしない。
前回述べた「Blog運営における自省」とはこうした充足しているはずの仕事を1つの基準として考えたとき、手業ではなく言葉を弄び書き連ねるということには、どこかやはりいささか不純なものでしかないのだろうという後ろめたさから自由にはなれない。
手業を言葉に置きかえ、道具の仕立てをWeb構築に置き換えたとき、やはり何かウソっぽく軽々しいものに陥ってしまうということへの強い危惧があるのだ。
少し見方を変えて見ようか。
例えば、メディアがボクらの仕事を語るとき、かなり深く取材され、彼らとの良いコミュニケーションが取れた下での記事であっても、やはりどうしても隔靴掻痒の感が拭い去れない、ということは誰しも経験しているところだろう。
つまりボクらのモノ造りの仕事の深いところは、それに身をもって従事するものでしか感じることのできない深淵というものが必ずあり、これは如何に優秀な取材者によっても感得できるものではないというのは残念ながら1つの真理だろう。
しかし一方、逆にこの木工家、木工職人自身が道具を持つ手からペンを持つ(キーボードを叩く)手に替えてテキストを書こうとしたとき、メディアの取材者が果たせない深淵への到達とは違う意味で(表現力の至らなさも加え)、その木工家、木工職人が作るモノの品格には遠く及ばないものしか書くことができない、と言うことももう1つの真実だ。
モノ造りを1つの表現行為として見た場合、明らかに書き記す営為とは異なる行為であれば致し方ない限界なのだ。
前回述べた先輩からの警句とはこうしたことを指すのだと受け止めている。
モノを造るという素晴らしい仕事も、ハンパな関わりではとても良いものが造れないのと同じように、テキストを書き記し、これを公開するということも、やはりハンパな関わりでやっていいものか、という疑念は残念ながら本来正当なものだ。
Blogなどというお気軽なツールで書き散らすことができる社会の到来は、明らかにメディアの革新であると同時に、サーバーのHDDに残される膨大な記録の多くがジャンクなものであるのは必然なのだ。
ボクの友人のひとりでもある、営業を得意としない、ある木工家は言う。
「ボクは職人だから、創るモノを見てもらえば分かってくれるはず。だから積極的にアピールなどするつもりはない」と。
この木工家の在り方が本来の姿なのだろう。彼は素晴らしい木工をする人だ。
さて、ここまで書いてきたが、こうした営為そのものが、やはり木工家としてはふさわしくない所業と考えてしまうから、自己分裂しちゃっているのだよ。
もちろん、この世界にはすばらしい書き手がいる。わずかに数人だが日本を代表するような木工家でもあり、とても品格のある文章をモノにする。
“天、二物を与えず”と言うが、そんな物言いは愚者への慰めでしかない。
ここには優れた作家性というものは、ある到達点を越えたとき、縷々述べてきたような限界など軽々と越え出て行くのだな、と感じ入るばかりだ。
愚者としては一度機会があればこうした自己分裂についてどう考えればよいのか尋ねてみたいと思う。
* 関連記事
木工屋のBlog運営とは

《関連すると思われる記事》

                   
    
  • お久しぶりです。ほとんどコメントをさぼっています。すみません…。
    ご指摘のように、木工仕事をしながら、文章でそれを表現するというのは、とても中途半端な気がするものです。
    しかしそれは、当人が自らの真摯さ故に感じることであり、他人から見れば、そのようなことは大した問題では無いことが多いように思います。読者にもいろいろな人がいますからね。
    私は、木工家が作品だけでなく、文章によっても自分の仕事を表現することが好ましいと考えています。書き手にとっては悩ましいことでしょうが、そのような行為が木工文化を支えていく裏方になるのではないでしょうか。
    とはいえ、誰でもできることではないので、Artisanさんに、引き続き期待します。

  • 木工について文章を読んだだけで全てできるようになれば
    こんな簡単なことはないですよね。
    でも、誰もそんなことは考えていません。
    しかし文章の説得力も捨てた物じゃないなと思うことがありました。
    最近、齋田さんの工房日誌を拝見していて感じたことが
    二つあります。
    一つは、齋田さんが独学であり、一時期は「手づくり木工事典」が先生だったと述べている点です。
    もちろん、ご本人の努力があって現在の地位を築いている
    ことは当たり前の事ですがここでは文章が大きな役割を
    果たしていると感じました。
    二つ目は齋田さんのHPを熟読し齋田さんの仕事を気に入ったお客様が訪問されるなり注文して下さったという話です。
    文章だけで全てが伝わるとは思いませんが木工という現場に
    おいても、それは重要なツールとして存在し得ると
    思っています。
    artisanさんのブログに対するアクセス数の多さがそれを
    事実として物語っているのではないでしょうか。
    齋田さん。勝手に引用させていただきすみません。
    私の間違いなどありましたら訂正お願いします。

  • otake.oさん、救いの手を、感謝します。
    あなたは書くということの何たるかを良くご存じの方と思います。
    またご自身でも良いエッセーをされています。
    普段いただけないコメント(読んでいただいているようであれば、それだけで感謝しています)も、こうして投稿をいざなう結果になったとすれば、このエントリも少しは意味があったのかもしれませんね。
    どうぞ今後とも手厳しい読者のひとりであって欲しいと願っておきます。
    acanthogobiusさん、事例を参照することで、木工家の語りも意味のあることだと仰っていただくのはありがたいところです。
    このエントリの主旨は、あくまでもボク自身のモノ造りと、語りの相関性を自省しようというものでして、Blogを含む木工コミュニティーに波風を起こそうという意図はありません。
    自身の「木工の語り」が実践の現場に有為なものとして作用すれば良いのですが、ただ技法のひけらかしのようなものであってはならないという戒めです。
    ボクは語り部ではなく、あくまでも良い木工を、と日々苦闘する若い魂を持った木工家の方を選択したいのです。
    どうも噛み合わないコメントで恐縮です。いつかまた整序された語り口で書ける時がくれば良いのですが‥‥。

  • artisan さん、こんにちは。
    信州木工会でお訪ねした時には大変お世話になりました。
    さて今回、その時の信州木工会のアンケートに触れられていたので、コメントしてみました。
    このblogをご覧の方達も、アンケートの内容に関心もお有りかと思いますので、信州木工会のサイトを紹介いたします。
    http://www.mokkou.org/koubou.html
    工房探訪の中の、#11 の記事の中に「作り手に聞く39の質問」というアンケートがあります。
    項目が多いので、丁寧にお答えいただくと、時間を要しますが、毎回興味深い答がでてきます。
    #12の名古屋の宮本さん、#13の蒲郡の井崎さんにも工房を見学させていただきながら、アンケートにもお答えいただきました。
    工房探訪の記事はそのまま信州木工会の研修旅行の報告書になっていますが、実際の報告書にはこの他の美術館やギャラリーの記事もありますので、いずれお送りいたします。
    これまでの研修旅行の報告書などは信州木工会のサイトの会員専用ページにあります。
    井崎さんのところでの、宮本さんや皆さんとの交流会の様子は、参加された半田の齋田さんが早速ご自分のblogに紹介して下さいました。
    昨年は名古屋丸善で展覧会の時に、artisan さんにもお出ましいただいて、交流会が盛り上がりましたが、今年も5月31日から名古屋丸善で同様に開催予定ですから、交流会もまたできるといいですね。
    記事の内容とはあまり関係がなくて失礼しました。

  • 谷さん 丁寧なコメントありがとうございます。
    「信州木工会サイト」Linkを失念していましたね。
    アンケートについては、その後皆さんのものを楽しく拝見させていただきましたが、
    自身のものについてはあまりに愚直に過ぎたかなと反省しています。>_< ;
    名古屋丸善、またお会いできれば良いと思います。

  •  いくつかの疑問など。コメントすべきかどうか迷ったのですが、同じように感じている人もきっといると思うので、あえてコメントします。
     1)自分の物作りについて、文章で表現するしないは各人の自由で、そうしたいと思う人はすればいいし、そうでない人はしなければいい。どちらが正しくてどちらが正しくないなどと言い立てる必要はないでしょう。実作でしか表現できないことがあるのと同様、言葉(文章)でしか表現できないことがあります。
     2)木工の分野に限らず、世間的に有名な人が1人いるとすれば、その人と同じくらいの実力がありながらそれほど有名ではない人、もしくはまったく無名といっていい人が、すくなくとも私は10人はいると思っています。また巷の知名度と実力とは必ずしも比例するわけではありません。
     3)杉山さんほど力量のある方が自らを「愚者としては〜」と言われては、他の人は立つ瀬がありません。仕事は謙遜でもうぬぼれでもなく、できるだけ客観的に正確に把握し披瀝するべきで、いたずらな謙遜は逆にかえって嫌みかなと私は思います。

  • 大江さま コメントありがとうござます。
    「木工屋のBlog運営とは」で述べてきたことで基本的な問題意識は呈示してきたつもりです。したがってボクの新たなコメントは同義反復にしかならないでしょう。
    ご理解いただけないのは残念ですが仕方のない面もあると思っています。
    何よりも全編貫いているのは、自意識の在りようだからです。
    ・木工家というモノ造りに携わる者にとって書くことと、造ることの相関性。
      モノ造りを追求していこうという木工家にとって書くことの意味は?
    ・技法などの記述にはBlogならではの影響力を考慮した、正しい記述を心掛けたい、
    というところが主要な問題意識です。
    当然ながら(文章で表現するしないは各人の自由で、そうしたいと思う人はすればいいし、そうでない人はしなければいい)などということに対抗するような問題意識にはありませんので、そのような記述はしていないはずです。
    したがって(どちらが正しくてどちらが正しくない)などと言い立てたりはしていません。あくまでもボク個人の態度決定に関わる領域の問題であり、他の人のネット記述の当否を対象になどしていません。
    2)に関しては記事のどの部分を指して言及しているのかちょっと分かりません。
    3)に関しては仰るような問題意識は理解できますが、他人がどのように見ているのかに関係なく、ボク自身の自己評価は「愚者」でしかありません。これは謙遜でも何でもなく至極真っ当な評価です。
    ボクはプロの木工家として強い自覚を持ちたいと考えていますので、多くの素晴らしい先人木工家、現役木工家を射程に置いたとき、自身の木工の至らなさについて日々打ちのめされています。
    ただどうも文体、文章が粗野であるため、意に反する捉え方をされてしまったかも知れず、このことについては反省し、今後留意したいと考えます。
    コメントありがとうございました。

You can follow any responses to this entry through the RSS 2.0 feed.