工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

個展から学ぶこと(数寄者の思いから‥‥)

自身の履歴を参照しなければその年月も忘れてしまっている頃のことだが、いわゆる初めて「展示会」というものに出展した時の話しである。
名古屋市内で旺盛に現代美術工芸品の展示企画をされているギャラリーでのこと。
その前年か前々年か、松本で催されたWoodwork summitという会議(ワークショップ)に席を並べた、名古屋在住のT氏による斡旋、企画による木工家具グループ展示会だった。
当時、ボクは独立起業して数年といういわば駆け出しの修行徒であったが、その頃はあるイギリスアンティーク家具のショップから依頼され特注家具の制作にあたったり、ぽちぽちと増加しつつあった個人からの制作依頼に応えるという業務内容だった。
幸いにも引きも切らない受注のラッシュで、睡眠時間も十分に確保できないほどに目の廻る忙しさが続いたのだったが、この時期を定義するなら工房 悠のいわば“原始的蓄積の段階”の頃であったと言えるだろう。


この原始的蓄積という意味内容だが、確かに起業翌年には当初設置した木工加工機械のラインナップをさらに本格的に充実させたり、バンに替えてイスズのSUVを購入したりという経済的厚遇をもたらしもしたということも否定できない事実だが、むしろ重要なのは木工の制作技法、デザイン的咀嚼、工房運営のイロハなど、木工を生業とするにあたって必須のスキル修得に結果したということの意味が大きい。
無我夢中な中での木工漬けの日々がもたらしたものは、その後の木工人生にとり欠かすことのできない重要な基盤作りの日々であったと言える。
無我夢中というものは、何ごとにおいても1つのことを成し遂げるには、初期の一時期、必ずや求められる必須のスタイルであるのかもしれない。
またボクの場合、主業務のアンティークショップから求められるものは、イギリスから輸入されてくる洗練された家具の品質程度を叶えることは必須の条件でもあったり、またその対象も様々で、デザイン、仕口など多くのことを学ぶことができる環境であったことも幸いした。
起業前の修行の頃も横浜クラシック家具の系譜をたどる製造メーカーからの依頼の特注家具制作を親方の指導の下で任されるなど、まさに原始的蓄積段階としては恵まれた環境であったのかもしれない。
加えて、その頃近くにはストックホルム、カール・マルムステンを卒業してアトリエを構えているMさんとも親しく交流でき、その後の木工人生を歩むに当たって有用となる様々な示唆を受けることができたのも忘れてはならないことだろう。
今にして思えばそうした熱気を帯びた若い頃というのが、たまたまバブリーな経済社会であったことも無視することはできないのだが、ボクの木工家具などという小さな商いがさほどのものではなかったにしても好景気の時代に何某か浴していたであろうことも否定できない。
時代精神と言おうか、社会経済情勢の異様な熱気にはどこか覚めた見方で接していたので、その後のリセッションにも落ち込むことはなかったし、今もこうしてぼちぼちと継続していられるのも、バブルに踊ることもなく地に足を付けてやってこられたのも、木工のおかげなのかもしれないと思っている。
事実、ボクの周囲でも、会社組織として資金を募り、ショールームを併設し、スタッフを雇い、全国の大都市の家具屋に納入させ、無垢板のテーブルでござい、と広告を打ち、華々しく展開していた木工家もいたが、数年後には自己破産に追い込まれるという憂き目を目にすることもあった。
今は経済的にはとても厳しく、家具制作という業務もいわば斜陽産業としてカテゴライズされるような種目だろうから、若い木工を志す人々には上に述べたボクのような恵まれた環境を確保するのは困難であるかも知れない。
ただそれだけにまた何故木工を志すのかを自らに問いかけ、強い自負を持ち、意欲を掻き立てることなくては時代のフィルタリングから振り落とされてしまうだろうという意味では、より強く木工の基盤を打ち鍛える必要性に迫られるという環境にあるのではと、逆説的ではあるが言えるのではないだろうか。
あの頃は、カントリースタイルで人生を歩みたい、組織から離れて独立独歩の精神で生きていきたい、そうした願いを支える生業として木工という選択をする多くの方々がいたように思われる。
そうした在り様もやはり実は経済社会の熱気に支えられて初めて可能であったという側面もあるだろう。
しかし時代は大きく変転し、今はより本質的な資質が求められてきていると言えるのかも知れない。
さて前振りが冗長になってしまったが、原始的蓄積を歩んでいた頃にT氏から出展の話しがあった。
Woodwork Summitに関してはいずれまた別項として振り返りたいと考えているが、席を並べたT氏にはそれを機会にその後公私にわたり何かと世話になる関係になっていったのだが、特にこの時の出展依頼はボクの木工人生にとってエポックなものになった。
まだ必ずしも個展を展開できるほどの力量もなかった者にとって数点の家具を出展させていただき、名古屋の数寄者に批評を受ける機会が与えられるというのはその頃のボクにとっていろいろな意味において格好のチャンスであったという意味においてである。
今では出展したものを全て覚えているわけではないが、小さなテーブルと椅子、そしてローズウッドのあまり大きくもないセンターテーブルなどだったか。
古くからの木工ファンならご存じかもしれないが、当時出版業界が元気な頃に取材され、掲載された雑誌「手作り木工事典」に特集された中に紹介されている卓だ。
これが名古屋のいわゆる木工コレクターの目に止まったのだった。
実業家で資産家のこの御仁。たまたま在廊していたボクを前にしてしゃがれ声で言い放ったものだ。
「君はまだ若い。ボクはK、M,氏などの作品を含め、多くの名作をコレクションしているのだが、それらからすると君のものはまず一桁価格が違う」と、プライスカードを指さして言う。
まだ若いからだろうが、ただ作品としては気に入った。ちょっとおもしろいので買っておこうか、と。
ギャラリーオーナーに訊ねれば、その方は名古屋では著名な木工のコレクターで、木工作品を保管するためだけに自宅敷地内に専用の蔵を建造し、コレクションしているのだという。
ただ残念なことに、そのローズの卓はその後引き取られることにはならなかった。
今ではその細かないきさつなど忘却の彼方なのだが、ともかくも些細な行き違いがあったようで、その客の機嫌を損なうことになってしまったとのギャラリーからの連絡で落胆するとともに、こうした数寄者との接遇の難しさを痛く思い知らされたことは苦々しい記憶として刻印されることになってしまったのだった。
良い作品造りを叶えるということは、つまりはこうした繊細な神経と、強い美意識、コレクターとしての強い自負を持つ人、つまりある種の数寄者を相手にせざるをえないということを学習させられた最初の経験だった。
そしてこの初めての小さな展示会は、売り上げの多寡などよりも、モノ作りと、その商行為というものの1つの本質を教えられたということにおいて、その後の木工人生の新たな出発点になったのだった。
その後さまざまな顧客との交流を通して、多くのことを学ばせていただいてきたのだったが、そしてこの度の個展において、よもや同様の轍を踏むことになろうとは想定外のことだったが、例えそれが会場の特異性、過乾燥の過酷な環境によるものとはいえ、キャビネットの一部において、木部の収縮によるトラブルで数寄者の鑑識眼に晒され、強い購買意欲を阻害させてしまうとは、まだまだ自身の甘さを思い知らされることとなったのだった。
読者に関係者がいるかもしれないので断っておかねばならないが、今回の数寄者は先述の人とはまた別の人。
さて、個展は明日まで。
この顛末を乗り越え、有終の美を飾れるかどうかは明日1日の立ち会いに掛かっている?
名古屋栄で夜な夜な飲み歩く悪習を捨て、今夜はおとなしく過ごし、明日へと備えようか。

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  • こんばんわ^^
    先日も会場で色々と話をしていただきありがとうございました。
    なぜ木工をするのか?
    どんな物を作るのか?
    自分の中で練り上げて、形にし、語れるようになりたいと思います。
    キャビネットのトラブルは残念でしたね。
    無垢材を使う以上避けられない部分もあるでしょうから、それをリカバーする技術、発想力も身に付けないといけないのですよね?
    では、あと1日の立会いがんばってください^^ノシ

  • ぽーる さん、コメントありがとうございます。
    何か、余分なお話しで、失礼だったかも知れません。
    今回の個展では、読者と思しき多くの方々にご覧いただく機会ともなったようで、このBlogもより親しく感じていただける契機になったかもしれませんね。
    今後もよろしくお願いします。

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