工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

増殖するケータイ犯罪といじめ

10日ののNHK「クロースアップ現代」では荒涼とした現代の子供社会を見る思いがした。
「ケータイが生む 新たな”いじめ”」とタイトルされたもので、「全国webカウンセリング協議会理事」の安川さんというゲストを迎えての「ネットいじめ」の実態と対応に苦慮する現場の取材から問題を明かそうとするもの。
神戸市の私立高校生がケータイの掲示板で下半身画像を晒されたり、メールでの執拗な金銭要求されるという”いじめ”の結果、校舎からダイブ、というニュースは衝撃的。遺体のポケットからは、「金を要求されたが払えない。成績も下がり、死ぬしかない」とのメモ。
《恐喝未遂:高3自殺、容疑で同級生逮捕 メールで「金払え」》毎日jp
プロフというのをご存じだろうか。
プロフィールの略からのものだそうだが、いわゆるケータイ上でのBlogのようなもの。
個人が簡単に開設できる自己紹介のページだという。スタートしてわずか1年足らずで100万ものサイトがあるそうだ。
簡便に書き込むことができ、安易に実名、学校名、趣味などを書き込むことで、個人情報がネット上に垂れ流され、これが「なりすまし」でのいじめに繋がることも多いようだ。
同様に「学校裏サイト」という非公式な学校のサイトが起ちあげられ、この掲示板上で個人への誹謗中傷が横行しているとのこと。
「『学校裏サイト』、『プロフ』…子どもたちの闇社会」毎日放送


確かにいつの時代にも少年期特有のやや閉鎖的な仲間作りも社会的経験を積んでいく上で良いことであると思う。担当教員の悪口を言い合ったり、ワルを演ずることの屈折した密かな楽しみもオトナ社会へのある種の通過儀礼として経験しておくことも悪いことではないだろう。
しかし本来のこうした学校単位、学級単位でのコミュニケーションは、面と向かって、あるいは手から手へと相手の体温を感ずる距離感から発せられ、それを相手の表情とともに受け取るという、実に人間臭いやりとりで交わされたものであったはずのもの。
これがケータイという電子の玉手箱の中に押し込められ、相手の体温も感じなければ、表情なども絵文字に矮小化されたアイコンに代替させられてしまう。
子供達はこうした『学校裏サイト』、『プロフ』を使ったコミュニケーションの方がカッコ良く、Face to Face の交歓はダサイとされてしまっている。
うちには対象となるような子がいない、あるいは自身、ケータイは所持しているもののネットアクセスはほとんどしないので、現在のケータイサイトの実情を知る立場にない。
Macでのネットアクセスはかなりディープに行っているのだが、統計からもPCアクセスをしない若年齢層ほどケータイからのネットアクセスが多い傾向はあるようだ。(ケータイ音痴のボクとしてはちょっとホッとしたが、今回はその問題ではない)
例えば電車やバスでの乗車中、あるいは道路を走行中などで見かける中高生のほとんどは何かしらケータイを手にして操作していることが多い。
10数年前までは携帯のゲーム機だったかもしれない。
さらに10数年遡れば、連れだった友達との会話であったろうし、文庫本を鞄から取り出しての読書であったろうと思い起こされる。
中高生という年頃は思春期でもあるが、世界を知りたい(ここでいう世界とは地球儀の世界ということではなく、社会の成り立ちであったり、ヒトそのものへの関心だったり、人間の歴史への興味、科学への関心etcといった世界を構成するあらゆることを指す)欲望がふつふつと沸き起こる世代でもあるだろう。
ここで知り得た世界というものに自らの将来を仮託し、その成就へ向けて専門的な勉学に励むもの、あるいはアドベンチャーに挑むもの、スポーツに燃焼しようと肉体を鍛えるもの、と、決して長くはない人生においても最も勇躍チャレンジする意欲に駆られる年齢だろう。
知というものが、今の時代ほど貶められてきた時代はない。
確かに既に70年代から教養という“権威”への懐疑がはじまり、文化の領域でもサブカルが我が世の春を謳歌し、そして純文学は死んだと言われて既に久しい。
そうした留保を置いたとしても、なお人間がこの困難な世界を生きていく知恵と思考への道標は、古典と言われる文献を訪ねることで発見することもできるだろうし、そうした人類のリソースを活用されないのは実に残念なことだろう。
これらはやはり世界への関心を持ち始める思春期こそ最良の時期であり、ボクのような古ぼけた頭脳ではない、ヒトとして与えられた細胞の全てが活発に活動するこの時期は最も吸収しやすく咀嚼してくれるだろう。
残念だが、そうしたとても貴重な時間というものをケータイという利器が奪っていると考えることは的外れであろうか。
親が規制を掛け、また賢明な子供であれば、必要な知へのアクセスに積極的になるだろうが、そうした余力のある家庭は少ないのかも知れない。
多くの家庭の親は両親ともあまりにも忙しく、子供への関心は低く、とりあえず表層的に問題を起こさねば良いとし、子供の社会がどうなってしまっているのかの関心も低く、たとえあったとしても、ITに関わる領域のこととなれば子供のスキルにはついて行ける親は少ないのだろう。
子供達にその責任があると言うことではない。いやむしろ彼らは被害者だろう。
まず何よりも「キャリア」が子供達の欲望を際限なくはき出させるためのツールを埋め込み、アクセスさせようと謀り、ビジネスモデルなどという緩衝用語で、その実、最大限の利潤を追い求めようと日夜アイディアを絞り出す。
ここには子供社会に与える取り戻しの効かない悪影響などの関心などさらさら無いだろう。
次に製造メーカー。幸か不幸か、日本には世界大的な家電メーカーがひしめき、他社のケータイよりも、さらに進化したものの開発に鎬を削る。
それがもたらす子供社会への影響などは関心領域の埒外だ。
そして親たち。危ない世の中になったので、子供にケータイを持たせるのは当然と、子供の欲しがる機種を買ってやるのが親の責任とばかり、好き放題に買い与え、月々のパケット通信代の請求にも、「ちょっと遠慮しなさいよ」とその場限りの注意を与えるだけ。
そして何よりも政府・総務省。
様々な弊害がメディアを賑わし、下部機関から多くの事例が挙がってきて、その実態にはとうに通じているものの、全く実効ある対策など取ろうとすることはしない。絶対しない。
何よりもそんなことをすれば日本経済の底上げに欠かせないIT産業界への打撃になるだろうから。
総務省官僚など、今の子供達が日本を担ってくれる数10年後のことなどに関心など無い。自分のキャリアアップのための現在と数年先のことにしか関心はない。
こうした子供達を取り巻く環境の多くが欲にまみれたオトナ社会の価値基準で作られ、この餌食になってしまっているのが子供達だ。
さて、こうしたケータイの弊害から子供達を守るにはどうすればよいのか。
様々な機関が、あるいは様々な地域での取り組みでそれなりの効果を上げていると思うが、果たして抜本的な解決に繋がってるとは思えない。
ボクはあえて言ってしまうが、子供達からケータイを取り上げることしか、本質的な解決策は無いと思う。
エーッ、そんなの暴論だ、と反対するのがほとんどだろう。
ケータイの便利さ、コミュニケーションツールとしての優位性など、多くの価値を認めるのはやぶさかではないが、しかし明らかにケータイならではの弊害は、今や限界に達しようとしているのではないのだろうか。
多くの識者、ジャーナリストなどの報告でも明らかなことだが、ケータイなど持たない貧困な国々の子供達の目の輝きは日本の子供達も数10年前までは同質だったように思う。
無論、問題はケータイだけではないことは明らかだが、しかし本来の子供たちの目の輝きをこれ以上曇らせないためにはケータイから解放してやることは意味のある事だろうと思う。
*こうした社会問題を記述するBlogでは無いことを承知の上で、この年齢層の親にあたる方々の読者に少し考えていただければと、エントリしちゃった。
取り上げる前にいくつもの対策もあると思うが、これらは本質的な解決にはならないと思う。規制はかいくぐって破られるもの。
取り上げる方法は、法規制、学校単位、地域単位、国家単位での規制など、様々考えられるが、国民的議論になってもらいたいと願うばかりだ。
■ 参照
「つまんない」「暇」を検索入力・会員100万人は簡単――携帯ネットの意外な“常識”ITmediaNEWS

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