工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

普遍性を獲得する、ということ

前回、モノ作りにおける美意識と批評性ということについて少し考えて見たのだが、もう少し続けてみようと思う。

最近、優れた木工家具を作る気鋭の若い木工家と数回にわたってメール交換でのダイアローグを交わすということがあった。
このBlog記事への感想から始まるものではあったのだが、コメント欄に押し込められる分量でもなかったのでメールでのやり取りになったという経緯。

最初は家具のデザイン、造形、仕口などに関わる話しでしかなかったのだが、結局はモノ作りに従事する立場性と言ったような普遍的なものにも及ぶものになっていった。
このダイアローグではいくつかの事柄において微妙な認識の差異も認められたものの、貫かれている基本的な立場、認識においては共有できることが多く、若い世代にこうした木工家がいることに強い印象を受け、また安堵と言おうか、嬉しくもあった。

なにゆえに、今の社会にあってモノ作りをしていこうとするのか。
ただ木工が好きで、家具らしきものが作れたよ、という喜びはそれ自体確かに尊いものであるし、微笑ましいものだ。
木工という世界は、他の工芸同様、ピンからキリまで多様であり、その次元も様々。
日曜大工からはじまり美術工芸品にいたるまで、その間の距離は怖ろしいまでに絶望的で隔絶したものがある。

木工におけるこの多様な展開の中にあって、ボクたちはあえて自らの美意識を奮い立たせ、批評性に裏付けられた造形とディテールに向かっていく。
批評性とはつまり、まだまだ世界には見たことのない豊かな表現があるはずとばかりに、これへ向かって自らを奮い立たせ、デザインと造形への探求の旅路を歩んでいくことでもある。

単なる消費財としての物資(家具・木工品)を淡々と市場へと流していくのではなく、あるいは耽美的な世界で戯れるものでもなく、ある種の普遍性を付与されたモノを介しての社会との豊かな関係性が成立するような尊いモノ作りへの確信があるからだ。

そうした果てしない欲望と、世界を掴もうとする情熱に支えられて、明日もまた木ぼこりにまみれた工房に出掛けていく。
こうした営為はとても孤独な作業でしか為し得ないものなのだが、インディペンデンスとしての自負に支えられていくことのささやかな誇りがあれば、ともすれば拝金主義にまみれたこの現代世界の腐敗と精神的怠惰にも侵されることなく、自律した一人の木工家として厳しい向かい風にも立ち向かっていけるものではないだろうか。

周囲のくだらん市場に踊らされることなく、少しストイックであるかもしれないが、それ故の同業者からの悪罵、妬みなどにピュアな意識を奪われるのではなく、すっくと立って向かっていけば良い。

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  •  おはようございます。 「批評性」、「普遍性」、キーワードですね。
     過日、群馬に展覧会を見に行きましたが、電車に揺られる頭で同じようなことを考えてきました。

  • たいすけさん、遠方の群馬まで出掛けたくなるほどに魅了する展覧会ですか。ワォ !
    ‥‥当地にも関わりのある“先代”のお師匠さん?
    美の鑑賞というのは閲覧者によってもその目的は様々ですが、私などはその作家の手から産み落とされた作品世界に耽溺することで、その作家を知る手がかりにしようという欲望があります。
    その作家の世界観、あるいはその背景にある時代精神を読み取りたいと思うわけですが、これはつまり批評精神を通した普遍性をつかみとる行為ということになりますでしょうか。

  •  ご想像の通りです。ご招待頂いていたのと、久しぶりに彼の人の批評性の強い世界に身を置いてみたくなりました(笑)。
     身を置いてみますと、「言うからには(批評するからには)、それだけの努力・成果を」という責任の方についつい自分を持って行きがちなのですが、それを追求する過程にも普遍性への憧れのようなものは大きく関わってくるのでしょうね。 
      今の時代はそんな作業にとって、いい時代なのだろうか、とふと考えました。

  • たいすけさん、昔、私は新宿OZONEの書籍コーナーで氏の作品集(大冊)を拝見しましたが、薄っぺらなモダニズムに背を向け、日本的なるものを見据えながらモノの本質を追究する姿勢は見事なものがあったようです。まさに普遍的造形への憧れであったとも言えるでしょうね。
    年明けには都心にも巡回してきますので、ぜひ拝見したいですね。
    今の日本社会の閉塞状況は経済的低迷も大きな要因であることに違いはありませんが、若者の精神的怠惰と言いますか、若年寄というのか、自己保身で小さく固まってしまっている嫌いがあるように伺えます。どちらが先か、という議論はあまり意味はなく、相補的なわけですよね。
    いやいや、世代論ということでもなく、私のような世代の責任も大きいです。
    やはり氏のように自由な精神で普遍性を探究するような姿勢を持ちたいです。

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