工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

職業としての家具作りについて(6)

前回は[家具作家に準ずる木工家]という項が途中だった。
引き続き[家具作家に準ずる木工家]の抱える問題とその打開の道筋について考えていく。

前回も述べたようにこのカテゴリーにおいては従事する人も多く、一方での既製家具との競合もあるので、生存競争も激しくなるのは必至。
「…田舎暮らしのために木工でもやろうかと訓練校に通い……とりあえず家具と言われるものは製作できるだろうから、身内の人たちから受注して製作していくことになる…」などという営業もたちまちのうちに底の浅さが露呈してしまうことになる。
その後本格的に外の社会の厳しい風に晒されて、世間の風は冷たいね〜、とあらぬ恨みを募らせてもお門違いでしかない。

さて、競合する木工家が製作する家具、既製家具にうち勝ち、生き残る術の核心は何か。ボクには答えようがない、というのが正直なところ。これを明確に示すことができるようであればボク自身の苦労もこんなに多くはないだろう。
そもそも誰が読んでくれるかも分からないこのような無為に近い論考を書き連ねるのも、自分の体たらくをあらためて俎上にし検証することで少しは向上への契機になるのではというはかない期待があるからだ。
そんなボクではあっても経験則から、あるいは常識的なところからでもいくつかのことは提示できるかも知れない。

生産性の低さを如何に補うのか

木工家の製作システム、製作へのアプローチの特徴としては、ハンドメイド、スタジオ製作、というところにあることは自明だ。これは量産家具製造システムにおける生産合理主義の考え方と大きく異なるところだが、その差異の意味するところについては詳しくは(3)で既述したので繰り返さない。

ただしかし生産性が低いことそれ自体は決して褒められるものではない。
ハンドメイド、スタジオ製作というシステムにあっても徹底的に生産合理性を追求することに努力することなくしてはその木工家の製作する家具の品質の向上も望めないと見るべきだろう。注意しなければならないのだが、生産性の追求 × 品質の向上 という命題は決して相反するものではなく、かなりの程度において等質であるか、あるいは相互は補う関係にあると言っても間違いではないだろう。

「品質」という言葉はある種の抽象的な概念だ。モノの固有の美しさの要素というものは複雑で多様なのだが、しかし「品質」というものが大きな要素を占めていることに疑いを挟む人はいないだろう。
家具の「品質」も複雑多様だが、まずは求められる機能を満たし、堅牢であり、仕様が安定化したものであり、そして近代的知を介した美意識が反映されたもの、と言っておこう。
この近代的概念でもある「品質」の獲得というものは、職人的活動の領域であれば、徹底した練度を重ねることと、その過程で培われるであろう生産合理性を研究開発するところからしか獲得できないものであるだろう。

少し具体的に詳述する。
かつてボクが訓練校に入校した最初の授業での指導教官の挨拶に次のような件(くだり)があった。20年も昔のことなのに、何故か鮮明に脳裏に刻まれている。入校初日の授業でのことであったということもあるけれど、やはりその意表を突く内容が忘れることを許してくれないでいるのかも知れない。

曰く「私は君たちが卒業後、いきなり独立して木工家になろうというような人を育成する積もりは全くない…」
恐らくその後も毎年同じ事を生徒の前で言っているのだろうと考えられる。その時は希望に満ちた顔つきで教壇の中央を凝視する生徒が待ち受ける言葉としてはやや意外なものとしていささか違和感もあり、生徒の中でも少なからぬ波紋を呼んだことであった。

しかしこれはけだし箴言に近いものであることに気づくのは卒業して外の冷たい風に晒される時まで待たねばならなかった。
少なからぬ生徒が卒業後いきなり独立し、当然にも拙劣な家具を社会にばらまくような事がもたらすおぞましい結果に対する指導教官としての忸怩たる自省からくる生徒への戒めであったのだろう。

親族であれば、良くもまぁ、ここまで作れるようになったのだね、と頭をなでてくれるだろうが、一般の顧客から何某かの金銭を得るということであれば、それはあまりにも失礼というものだろう。習作は習作でしかなく、商品でも作品でもないのだから。
ここでは家具職人としての倫理をも問われるということになるだろう。

日本の木工の伝統は旧く、世界に冠たる技法の体系がある。近年如何にこれが衰退しつつあるとはいえ、まだまだ優れた木工技法が息づいているのは確かなこと。
これをたった1年、2年の職業訓練で修得できるはずもなく、他の職業と異なり、練度を重ねることに依ってしか獲得できない領域のものであることは何遍でも繰り返さねばならない。
したがって「木工家」を志向するのであれば、訓練校でもどこでも良いが、適切な指導内容を有するところで基本を学び(できるだけ、フラッシュ家具製作のそれではなく、伝統的な木工技法を学べるところで)、いきなり独立に急ぐなどという怖れを知らぬ考えは捨てて、然るべく熟練した木工家、親方、家具作家、などの下で修行するということは必須の要件と言っておきたい。

自分は才能豊かなのだから、そんな回り道をしてつまらない垢を身につけるのは良くないから一人でやるのだ、という人もいるかもしれない。どうぞご自由に、としか言えないが、しかしその道は茨の道だろう。さらにはある種の傲慢さを内に秘めているとも言えなくはない。
木工などという鈍くさい工芸分野は残念だが多くの技法と職人的知恵というものがなければ真っ当なものにたどり着けないと言う宿命から逃れられない。
量産家具はそうしたものから自由になるために様々な変容を追求していったのだが、木工家具本来の姿を求めるならば、やはり鈍くさくても先人の技法と知恵に頼ることは決して無駄な回り道では無い。

こうした技法修得への軽視は美術系の教育を受講しデザイナーを経験した人などに見られる傾向の一つかもしれない。
木工家具といえば工芸というジャンルにも分類可能なものだが、絵画のように制作者の美意識をストレートに体現できるものではない。
やはり工芸とはあくまでも素材というものを介して表現されねばならない宿命にあるのだが、これは何も卑下されるものというものではなく、固有の美的価値を生み出す必須の条件でもあるわけだ。
制作者の美意識を体現させるためのプロセスというものは、近代的知に基づき、教養に裏付けられ、デザインされ、そしてその素材の特性を良く知り、これを自家薬籠のものとし、培った技法において体現させることで、初めてカタチになるのだ。

さて技法の修得の重要性だが、これは経験的にいくつも例証を上げることが可能だが少しだけ触れてみようか。

例えば長く木工に従事している名うての職人と言われる人でも「蛇口」(=「馬乗り」)、あるいは「面腰」(=「腰落ち」)という木工技法のスタンダードを備えていないと言う信じられない人がいる。

これは所謂框ものの接合における基本技法であるために、これができなければ「イモ」での接合になってしまうだろう。その結果残念なことに框の内側への面の施しは無理なものとなり、ある展示会で見せられたものには、その部分を組み上げてからトリマーかなんかで面を取り、接合部分にはトリマーの切削刃が届かないために、ここはノミなどの手作業でそれらしく見せる、ということが行われていた。

あるいはまた同様に「手作り」と声高に訴える木工家の仕事において、框の接合部を段差を付ける(=面ちり)、あるいは接合部の双方に大きく坊主面を取る、といった処理を施すことで平滑性加工の工程、面処理の工程を省略するというような本来の技法からすれば邪道とも言える「逃げ」に走る、ということも屡々見せつけられ鼻白むことの1つだ。これは量産家具の製造システムにおいて合理性追求のために(あるいは未熟の職人でも可能なように)一般的に見られる事なのであるが、しかし「手作り」と自称する人たちが援用するのには「オイオイ、ちょっと待ってくださいょ」と口を挟みたくもなる事の1つだ。
このように木工家具という伝統的な文化に背を向けるような唾棄すべき似非木工がはびこっているのも否めない実態のひとつだ。

ここで書き連ねていることは単に面の処理という矮小なことに拘泥しているのではない。確かにプロとしての識見の無さを嘆きたくなるのも事実だが、それ以上に大切なことを意味しているのだ。こうした技法を当たり前に自家薬籠のものにすることで、実は仕口が多様になり、デザイン的自由領域が大きく拡大していくことにも繋がっていることに気づくべきなのではないかということだ。

手作り=稚拙、という概念が形成されるようでは困ってしまう。
これは一例でしかないが、まずもって基本的な木工文化の前にボクたちは謙虚でありたいものだ。

生産される家具の価格が量産家具の価格に太刀打ちできないのであれば、せめてこうした本来の日本の木工家具の技法が投下されていなくて、どうして品質においてうち勝つことができようか。(←間違い。上述した技法・仕口は近代的木工においては万国共通。先にKAKUさんが入手情報を提供してくれた「Der Moebelbau 」[ドイツのテキスト]には詳細な紹介がある。
画像左は蛇口の1例。日本では一般に角面を回すことが多い。画像のような仕口はオスメスのカッターがあれば簡単にできる。量産家具にもよく見られる。
画像右は面腰。框の貫部分だ。
著作権問題があろうから、この程度に留めておく。若い人にはぜひ購入して学習して欲しいものだ)
蛇口面腰
さて、ドイツの木工関連書に触れたということもあるが、木工の基礎教育を海外で学ぶという人も最近では決してめずらしくはないので、少しこうしたことについて考えてみる。

海外で木工の基礎教育を受けるということはその人の環境が許せるならば、大いに可能性の開かれた選択肢であろうと思われる。
日本の木工基礎教育の環境は残念なことに決して恵まれたものとは言えない側面があることは確かだからだ。
「職業訓練校」という制度は大変良い制度ではあるが、若者が木工を志向するということでは、やはり本来の木工加工技法、家具製作の全てを修得させることのできる教育機関、制度が望まれるところだ。海外にはこうしたことを叶える制度、機関があるようだ。

このBlogにリンクしている Ikuru さんのサイトにいけばその実態に触れることができるだろう。
ボクもこの Ikuru さんの先輩に当たる人から親しく指導を受けたことがあったり、Ikuruさんの学校の元校長の講演を聴いたり、とその実体に少し触れてもいる。
また同校のOBでもあるカリフォルニア・レッドウッドのJ・クレノフのたった1度の日本におけるサマーセミナーに参加させて頂き、身近でクレノフのナイフの手さばきに触れたこともあった。
そうした知見から少し考えてみる。

木工の技法というものは世界的に見れば多様であることは当然。歴史的背景、文化的背景、地理的条件、植採的背景などという様々な要素において異なれば、そこで継承されてきた技法も自ずから多様だろう。
一方また長い歴史のなかにあって多様な地域との交易の過程で、それぞれが影響し影響され、一定の法則に集約され、合法則的なものに収斂してきたということも事実だろう。

また近代化のシャワーを浴びる過程での木工文化の変容に迫られた経緯の差異についても無視できないものがあるだろう。
日本においては一方に伝統的木工技法があったために、近代化の過程にあっても、より高度に洗練される方向へと進化したところもあるだろう(そうした奢侈品を使いこなす新興ブルジョアジーの台頭に裏付けられ)。

ただ上述したように日本における木工加工技術の習得に関する教育制度は全くと言って近代化してこなかった。忘れ去られようとさえしている。アメリカ型経済主義の謳歌はさらにこうした状況を促進させていくモメントとして作用していくのだろう。

ある信頼のおける卓越した識見を持つ先輩が良く口にする言葉がある「木工技法というものも世界遺産として保護育成されねばいけないのだ」と。まさに絶滅危惧種扱いされるところまで事態は喫緊の問題のようなのだ。
やや問題がそれてしまったが、世界に視野を拡げれば決して多くはないだろうが、木工家具製作の教育機関および制度が充実したところがあるようだ。
したがって臨もうとする若者に求められる条件(経済的、語学力的)が叶うのであれば、それもまた良い選択肢となりうると思う。

さてここで指摘したいことがある。先に述べたようにこうした領域でのボクの知見は決して確かなものではないかも知れないが、誤解を恐れずに記しておきたい。

海外の教育機関で基礎的教育を受けるのは推奨できるとしても、ぜひ日本の優れた木工を体験して欲しいということだ。確かにお粗末な教育環境にあるとはいえ、木工家具の現場ではまだまだ優れた体系を頑なに維持して活動しているところもあることは確かなのだ。
何故このようなことを薦めるかというと、やはり欧米の加工技法の一部においてはボクたち日本の職人から見れば、稚拙なところが見えてしまうからだ。
日本文化、日本人のエートス、日本人の器用さ、などに育まれた特有の優れた木工文化があることは確かであるということも言っておきたい。(ボクは決して狭隘なナショナリストではありません)

これからの若い人には国境を軽々と越え出て、また日本の木工文化に深く親しむことのできるという環境が与えられているだろうから、ぜひ国際的に活動できる人材が輩出されるだろうことを期待もしている。

*また冗長になってしまったがお許しいただきたい。次回は木工家の販売戦略を含む展開の在り方について考えたい。どうかツッコミ、反論、などコメントをください(苦笑)
失礼ながら、予期したところを越えてかなり長い論考になってしまっていますが、宮本さんはじめ皆さんには大変迷惑なことと思います。
FIFA2006ドイツ大会開催までには終わらないと自分も困りますので、何とかしなければ……。

《関連すると思われる記事》

                   
    
  • artisanさんの家具製作に対する「こだわり」が良くわかる
    一連のシリーズだと思います。
    ただ悲しいかなその「こだわり」について来られる、または
    理解できる消費者がどの程度いるのでしょうか。
    木の国日本と言われていながら今多くの日本人の木工に対する知識は寂しい限りです。
    一昔前まで家を建てる時に最初に行く所は材木店だったということを聞いたことがあります。今そんなことをする人はいません。ましてや、木の家もそのほとんどは外材でつくられています。私は以前東京は木場の近くに住んでいました。
    小学校からの帰り道、職人さんの鉋がけを飽きずに見ていた
    ものです。今はほとんどが工場でのプレカットです。
    木工が日本人の生活と離れてしまったと感じています。
    今、国を愛する心が話題になっていますが日本人が営々と築いてきた木の文化をなんとかつないでいく方法はないものでしょうか?
    そうすることによってartisanさんの「こだわり」も生きてくると思うのですが。

  •  私も家具作りを始めた頃は、一分のボーズ面を回すのにも「面腰」の技法を使っていました。しかし、時が経つにつれて、純粋に意匠的な好みの観点から、「面腰」の技法は使わなくなりました。また私は、組み手で板を接合する際に、日本の木工の常識である「上端留」を使いません。これも私の好みの問題だと思っています(どうも私は45度が嫌いなようです)。
     これらに関して、いささかもうしろめたい気持ちはありませんが、artisanさんのはっきりとした物言いをうかがって、職業人としての緊張感を感じました。
     そういえば「上端留」に関して、以前ある先輩木工家に「私は上端留は好きでないから使わない」と言ったら、「あんたの好みなんか関係ない」とやり返されたことがありましたっけ・・・

  • 「適切な指導内容を有する所で基本を学び、
    然るべく熟練した木工家、親方、作家の下で修行を」
    について、思う所がありました。
    適切な指導内容を受けた若い木工家志望者であっても、
    熟練した木工家の下で修行出来る人は少ないと思います。
    木工家志望の若手が修行したいと思える様な
    熟練した職人さんの多くは「雇えない」、
    「面倒を見られない」と言うでしょう。
    熟練職人さんたちと若手木工家の年齢差が
    あまりに離れ過ぎてしまっているのも原因でしょうか??
    「熟練職人」であるはずの木工家が
    仕事をしながらくわえタバコであったり、
    ほぞの長さも適切でないモノ作りをしたり、
    (仕口以前の問題です)
    機械の加工跡が残っていることにも気付けなかったり、
    「加工が面倒」と平気で口にしたり、
    納期さえ守れなかったりする、
    そんなことも少なくありません。
    きっと若手木工家志望者の多くは理想と現実の間で
    迷っているんだと思います。

  • acanthogobius さま 丁寧なコメント感謝します。
    >「こだわり」について来られる、または
    理解できる消費者がどの程度いるのでしょうか。
    必ずしもそんなに高度なことを言っているつもりはないのですがね。「日本の木工」という体系にあってはごくありふれた昔ながらの、ちょっと前までは誰でも当然のようにやっていたことの紹介にしか過ぎないと考えられます。
    こうしたことが怖ろしいスピードで失われていく現状は確かに認めねばなりませんが…
    もう1点。ボクたちの仕事も、誤解を恐れずに言うならば「啓蒙」という側面があることを認識すべきと思います。
    如何にあらゆるものが浮薄なものになってきているとはいえ、本来の美しさ、輝き、力、というものを魅せるのがボクたちに課せられた職能のあるべき姿の1つではないかとも思います。
      ○──────────────
    otake.oさん コメント感謝します。
    >はっきりとした物言い…職業人としての緊張感…、
    止めときゃ良いものを…、嫌われ者です、ハイ。
    「面腰」も「上端留」も共通して言えることは、「接合部位を自由に解放してやる、という効用」が大きいという理解が重要かと思われます。これによって接合部位における面処理の困難を克服し、美しく連続した処理が可能となる、ということへの評価ですね。
    個人的には李朝家具の端正な美しさが好みですが、この美しさも「面腰」、「上端留」が為し得て初めて可能になるものです。
    >純粋に意匠的な好みの観点から、「面腰」の技法は使わなくなりました…
    同意しますね。半分だけ。つまり必要な部位には使うべきでしょうし、意匠的に不要であれば何でもかんでも「面腰」ではないわけです。
    本文中の「強い物言い」は、本来使うべき意匠部位、仕口に使われずに、別の、技法とはとてもいえない稚拙な手法で逃げていることを指しています。
    まともな訓練校の初期のカリキュラムで教えられるような水準の技法を知らないままに「指物」をしていることの怖ろしさを指しています。
    どうしてなのかな?つらつら考えてみると、やはり井の中の蛙、でしょうか。外の世界を知らない。良いものを見ていない。墨守派。自信過剰。
      ○──────────────
    サワノさん 若手木工家が置かれている現状というものを指摘して頂き感謝します。
    仰るような傾向は否定できませんね。(まさか、ボクのことだったりして)
    「熟練職人」といわれるべき層が、なかなか社会的に評価されにくいというある種の人間像を指摘されているのかも知れません。
    欧州では今も息づいている「マイスター」という概念とはかけ離れたイメージであったとすれば残念なことですね。
    いずれにしましても、職人の職人としての研鑽というものも、本来は人間的成熟とともにあるべきなのですがね。
    これも実は「木工家具制作」というものに携わることのへ自負、誇りという「文化的営為」に関わるものとして自身が捉えられるかどうかという差異となって現象するものなのかもしれません。
    あなたとボクは親子ほどの年齢差だそうですが、木工に向かう時空では同志と思っていますが(勝手な思いこみ、でしかなかったか 笑)
    お三人とも、コメント、本当に感謝します。
    もっともっと、問題意識を共有化させて、よりよい「木工家具制作」の方向性を探し出せるようにしたいものです。感謝 !!

  • otak.oさん ちょっと付け加えさせて頂きますね。
    ある固有の部位にどのような仕口を用いるかは、実は優れて個人的意志が反映されるものです。単に技能を見せるというのではなく、何気ない加工、仕口に制作者の美意識、価値観、あるいは人生観までをも示してしまうものではないでしょうか。
    それが必ずしも家具マーケットにおける評価と繋がるかどうかは関係のないところですがね。クラフトマンシップという奴ですね。
    あなたのキャビネット接合部分、あるいは抽斗における「天秤差し」もそのような解釈では如何でしょうか。

  • artisanさん、アドバイス有り難うございました。
    ご指摘の通りだと思います。
     私は自分が好むことしかやらないという悪い癖があります(好む人としか付き合わないという癖も)。身内にも手厳しいことを言う者がいて、よくその点を非難されます。生業としてやっているわけだから、自分の欲望を制限することも必要だと。また、製品の価値を判断するのは制作者ではなく、買ってくれるお客様なのだから、もっと世の中のいろいろな部分に目を向けろとも。
     物作りをしているからには、自分の美意識や価値観を大切に育てなければならないのは確かです。しかし、それにこだわるあまり、仕事が瑣末な自己満足に堕してしまって、生業としての成果が上がらなければ、家族に対する責任が果たせません。そこら辺の折り合いを付けることが難しいですね。

  • 待合ベンチとプロの仕事

    画像は、待合のベンチです。※台輪から外してあります。

    お医者さんや店舗の待合で使う椅子です。そうそう、スナックやカラオケなんかの客席なんかにもつかわれるタイプです。

    色々とある椅子の中では、たたきものとも呼ばれコスト優先の椅子です。
    事実、新品を

  • 椅子好きの62あらためchair_holicです。
    こちらの記事にトラックバックさせて頂きました。
    本分の趣旨からは若干外れるかもしれませんが・・・前半・訓練校の指導教官さんの言葉からの部分。プロ(商売)として仕事を請け負うということを思う時に、ふと読み返えしに伺っております。

  • chair_holicさん ここでのお返しコメントすっかり失念しておりました。悪しからず。
    TB元記事拝見しました。ありがとうございます。ボクたちも何かとプロの仕事という本質を見失う陥穽から自由ではありませんので、日々心しなければと戒めてます。

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