工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

大相撲という名の前近代

大相撲が名古屋場所を前に大きく揺らいでいる。
発端は大関琴光喜(今や‘元’大関という呼称となってしまったが)のプロ野球を対象とした野球賭博への関与を報ずる「週刊新潮」(5月27日号)の記事だったが、いやはや出てくるわ、出てくるわ、関与の度合いが強かったと判定された力士14名が、この名古屋場所への休場処分となってしまった。
現段階では徹底調査が行われているとはとても思えず、多くの識者からも氷山の一角だろうと言われている。
まさに大相撲の近代史にあって、最大のスキャンダルの様相を呈しているわけだが、この14名の処分というのは、ともかくも名古屋場所は開催ありきへ向けた環境整備としてのみそぎでしかないだろう。
ところでボクは朝青龍があのように石もて追われる形で角界を去った後、急速に大相撲への興味が薄れ、この度の問題も勝手にしやがれ ! という感じではあったのだが、しかしこの問題も日本の“今”を読み解く格好の材料とも思えてきて、少しく駄文を労することにした。
ここでは今回の野球賭博問題を[大相撲というものの特異性]、[野球賭博の違法性と暴力団組織]という、主にこの2つに絞って考えて見たい。
恐らくはタイトルにした「大相撲という名の前近代」というのが結語になるのだが、如何に簡明に、あるいは論理整合性を持ってこの結語へと運ぶことができるかが鍵となるが、しかし小難しい社会学の文献を紐解くことなくとも、TVモニタから伝わってくる力士の顔つき、暴力団組員と称する関係者のインタビューの内容、あるいは様々なメディア報道の視座から、十分にその異常性、特異性が顕現しており、大相撲と日本社会を読み解く格好のケーススタディーとして立ち現れていると感じられておもしろいと思っている。


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さて、まず大相撲というものをどう定義するべきなのかについて。
FIFA W杯 南ア大会は準決勝戦を控え、いよいよ盛り上がりを見せているが、数あるスポーツの中でもこのサッカーはもっとも近代化されたスポーツの1つであると言えるだろう。
単純なものではあるが厳格に国際ルールが定められ、世界中に普及しその競技人口は登録選手の数だけでも2億4000万人以上と言われている。
ボクがFIFA W杯に関心を強く持つのは、1つのボールを蹴りあい、相手陣地のゴールへ蹴り込むという、そのシンプルな身体性を有するスポーツであるということと、ワールドワイドに展開するスポーツがもたらしてくれる世界共通の歓喜性からのもの。
W杯ではなくクラブチームであれば、白人から黒人、そして黄色人種まで、まさに人種のるつぼとしてのチーム編成にも、このスポーツの近代性の表象を観ることができるからだ。
無論、前ドイツ大会、決勝戦でのジダンの頭突きに観られる、非近代性(移民の子という人種差別、あるいは女性差別という問題)が露わになることも含めてのものではあるのだが。
今大会、準々決勝戦のキックオフを前にしたフィールドで「No to Racism」の 横断幕が掲げられ 、「人種差別反対」を宣言していたシーンをご覧になった人も多いと思うが、これはアパルトヘイトに長年苦しめられた南アフリカを開催国としたからというわけではなく、このところFIFAは一貫してこの運動を展開していることによる(日本の放映[TBS]では「人種差別反対を撤廃する宣言」などと真逆の解説をするというオマケ付きのものだったが‥‥、その後訂正)。
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一方、我らが大相撲。今や幕内力士の1/3は海外からやってきた力士で占められているのはご存じの通り。
今や日本国内ではもっとも国際化されたスポーツの様相を見せている ?!。
であれば、ボクは千秋楽の「これより三役」で行われるセレモニーの土俵上で、FIFAにならってこの「No to Racism」を掲げれば大相撲はさらに海外からの評判を呼び、国際化すると思うのだが (^^ゞ。
だが残念ながら朝青龍問題、あるいは今や忘れ去られているかも知れないが小錦問題の参照から見えてくるものは、相撲界の隠然たる民族差別の内在化の方である。
つまり力士の構成を観れば国際化せずには成立しがたい現状があるにも関わらず、しかしその本質において近代化を拒否しているのが大相撲という世界だ。
これは協会がそうしたアナクロニズムに凝り固まった組織であるのかどうかという議論以前に、大相撲を取り巻く日本における言説、認識そのものが近代と相反する土壌のものでしかないということと恐らくは深く関係しているのではないかと感じている。
このことは朝青龍と、同じモンゴル出身の白鳳との対比を参照すればよく見えてくる。
ここ数場所、朝青龍無き土俵での白鳳の一人勝ちが続いていることはボクを含めた多くの相撲ファンを嘆かせている。
彼は日本人の妻を迎えることをはじめ、徹底して日本社会に同化しようとしてきたのだったが、そうした姿勢への暖かい評価を背景として日々の鍛錬を積み重ね、最上位に登りつめた力士であるのに対し、朝青龍はそうした「教科」「同化」を拒否し、年寄株を取得することをあらかじめ放棄したところから、実力だけで最上位にのしあがっていった。
いわば相撲界の異端児であり続け、したがってまたどこまで自覚的であるかはさておいても、前近代の相撲界の旧弊への鋭い批評者であり続けた。
朝青龍の魅力とは何よりも荒ぶる魂とエネルギーを土俵上で爆発的に注ぎ込み、相手を圧倒する強さにあると考えているが、考えて見ればこれは角力としての1つの本来の姿ではないだろうか。
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近代に入り、ラジオ中継から、テレビ中継へとそれに注がれる視線が大きく変容する過程で大相撲は必然的に様式化されていった。
これは一般社会からの制御が及ばない巨漢で粗野な力士が持つ本来の暴力性が牙を抜かれ、市民社会に包摂されざるを得ない過程であったも言えるだろう。
ここにはケの社会にはない呪術的なものを内在させているために、神事にマレビトとして登場するという存在の特異性にも繋がってきたのだろう。
それ故に常に「横綱の品格」などという修辞をも求められてきたのだったが、力士本来の荒ぶる存在であった朝青龍はそうした求めからは常に逸脱し、抑圧から逃れようとあがいてきたとも言える。
大相撲というものの核心的な要素である“荒ぶる魂を持つ圧倒的な強さの力士”という資質を一身に担っていた朝青龍であるにも関わらず、相撲協会の様々なしきたりから逸脱する、あるいはメディア対応での抑制が効かない、などといったことからもたらされた批判は、その表層における偽善性に加え、外国人、しかもアジアの途上国モンゴル出身であるという民族へのレイシズムの力学も隠然として働き、排除されていった。
メディア上ではこうした本質的な視座から、朝青龍問題を語ろうとする言説がほとんど顧みられなかったのは残念で仕方がない。
生理的な嫌悪感からと評するしかない悪罵を巻き散らかしていた作家で横綱審議委員会の委員でもあったU女史、あるいはTV芸者の漫画家Y氏などからの悪罵などは論ずるに値しないものとしても、この騒動は日本社会の映し鏡のようで、なかなか興味深いものではあった。
ボクはこのような異端児、朝青龍の日本社会からの追放というものは、危うくなりつつあった「近代化を拒否する」相撲界にとって、未来へ向けての可能性というものを自ら封じてしまう禁じ手であったのではとホントに残念でならない。
(やや長文になるので、今日はここまで)

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