工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

ウォールナット・ラウンドテーブル

ラウンドテーブル1
ブラックウォールナットの円卓である。
〈工房 悠〉サイト > [Gallery] に収録させた新しいテーブル。
円卓制作には様々な思い出があるが、中でも忘れがたいのが独立起業して間もない頃のこと。
地元の雑誌取材を受けた時のこと、女性記者Kさんから1つの飾り棚の制作を受けたことがあった(実質的にはそのお母様からの依頼)。
見積もり設計のために訪れたK邸の居間に上がり込み、そこでいきなり驚かされることとなった。
何とそこには見覚えのある楢の円卓が鎮座しているではないか。
それは2年ほど前に自分が制作したものと同じものだった。
お母様とお話しをさせていただくと、その円卓を購入した店舗名と、ボクが制作依頼された家具店の名前が一致。
起業直後の頃にこの家具店から依頼され制作したもので、どうもその依頼元の顧客がこのKさんだったというわけだ。
これにはKさんも「エ〜ッ、あなたが作られたのですか? びっくり !!」と、驚き、そしてとても気に入って使っていただいていたこともあったためか、結局は飾り棚のみならず、大きなワードローブ、整理タンスなどの追加受注を受けることになった。

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鈴木機械(焼津市)

雨をついて鈴木機械のスタッフがやってくる。
? 借金があるわけでもなし、トラブル対応に呼んだわけでもないし、はて‥‥、
何のことはない、薪ストーブにあたりながらの世間話に立ち寄っただけのよう。
先の千葉への納品行が思いの外時間が掛かってしまった、とのこと。
アクセスのリサーチが十分ではなっかたことによるものだろうから、自戒を込めてのものだろう。そんなことで顧客に迷惑を掛けてはまずいしね。
これからはこうした遠方との交流も増加していくだろうから、良い経験だったのではないか。
ところでこの機械屋がWebサイトを設置したのは、ここ数年のこと。
ボクも大いにやるべしと唆した方だが、SEO対策も真剣に対応するほどに前向きに運用しているようだ。
以下、簡単にこの会社を紹介し、Linkさせていただく。
(有)鈴木機械 は木工機械の販売、保守を専門とする会社。
工房 悠の設立の際の機械導入は別の会社で一式揃えたのだったが、その会社は放漫経営が祟ったためかバブルが弾けると同時に廃業。
それ以来、友人の紹介だったが、もっぱらこの鈴木機械さんに世話になっている。
2台の昇降盤の更新、桑原600のプレナーへの更新、ホゾ取盤の導入、面取盤の導入、あるいは手押鉋盤の定盤研磨、等々と、現在の機械設備はこの会社との良い取引が在ってのものと思う。
静岡は国内有数の家具産業産地。したがって機械メーカーも多く、またこのように中古機械を取り扱う業者も数多く進出していて、群雄割拠の様相を呈していた。
しかしここ数年の家具産業の低迷を受けて、機械メーカーも業態転換を志向したり、廃業も取りざたされるというご時世となり、中古機械を扱うような機械屋も次々と廃業しつつあるようだが、この鈴木機械はたゆまぬ経営努力が奏功して、なかなか元気のある会社のようだ。
家具製造会社なども戦後間もなく創業したところなどは2代、3代と代替わりをしつつ、しかしやはり国内家具産業の空洞化により、代を継いで経営強化しようというところは少なくなっているようだ。
家具製造会社の後継者としても1代目創業者以上に、家具産業への熱い思いと進取の精神に満ちていないと、企業経営としての魅力は感じられなくなりつつあるのだろう。
鈴木機械は幸いにも若い後継者が育ちつつあり、それだけに現社長も前向きに経営の手綱を引き締めている様子でもあり、たのもしい会社と見受けられる。
昨今、このBlogの読者なども遠方からではあるものの、中古機械の購入先としてこの鈴木機械に斡旋を依頼しているようで、悪い選択ではないだろうと思う。
あらためてこの会社の特徴を上げれば以下のよう。

  • 家具産地での操業であるので、取り扱われる機械の品種、球数が豊富である。
  • 従来よりこの会社の顧客は、大小の家具製造メーカーに止まらず、個人工房との取引の実績も豊富である。
  • 木工機械設備の設置、保守、運用には高度で豊富な経験があり、また優れた技術と経験を有するスタッフを抱え、その整備、保守についての信頼性は高いものがある。
  • 気になる中古機械の販売価格だが他地域、競合他社と比較して信頼がおけるものと考えられる

といったところ。
なお、これはボクの個人的な考え方ではあるが、中古機械の購入希望者は例え遠方ではあっても、可能であれば購入前に一度この会社へと訪ね、対象の機械を確認するようにしたいところだね。
本来であれば、地域の機械屋との取引が望ましいのは当然だが、国内木工業界の空洞化の状況下にあっては、そうした過去の望ましい在り方が援用できないので在れば、致し方ないと言うところだ。
なお、申すまでもないところだが、今回こうした業者の“宣伝”と紛うごときの紹介になっているが、うちは金銭的な仲介などは一切していないので誤解の無きよう。
成約の時には菓子折の1つぐらいはぶらさげてきても悪くはないだろうが、そんな例しはなかったし、むしろこちらがぶらさげて行く方 ★▼?
■ (有)鈴木機械 http://suzukikikai.co.jp/
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美術展・2009回顧と、見逃せない企画

セバスチャン・サルガド アフリカ 生きとし生けるものの未来へ》は、ぜひ会場に足を運び網膜に焼き付かせて置きたい写真展だと思った。
ただこの会期は13日までという制約で、希望を叶えるに十分な余裕とは言えずダメかも知れないな。
ボクがこのセバスチャン・サルガドの手による写真をそれとして自覚したのはユニセフの資料にあったアフリカの痛ましい現状を知らせる写真資料からだったと記憶しているが、そのライカによる白黒写真が放つ特有の印象は観るものの心を強く揺さぶるものだった。
その後、図書館などで写真集を見ることで氏が現代を代表する「フォト・ドキュメンタリー写真家」であることを知らしめられることとなった。
これまでオリジナルプリントに接したことがなかったので、良い機会であるのだが‥‥。
南北の圧倒的な非対称・過酷な労働と生命の尊厳・憎悪と寛容・世界の不条理
そして写真の芸術性

今年の暦も残すところあとわずかの分量となってしまったが、写真展に限らず、いくつかの美術展へと足を運び、目と頭脳と心をリフレッシュさせてもらうことができた1年だった。
■ Arts & Clafts ウィリアム・モリスから民芸まで(東京都美術館)
■ 朝鮮王朝の絵画と日本  (静岡県立美術館)
■ ベルギー近代美術館展  (山梨県立美術館)
■ 坂倉準三展       (神奈川県立近代美術館・鎌倉)
■ 坂倉準三展       (松下電工ミュージアム)
■ パウル・クレー 東洋の夢 (静岡県立美術館)
■ ウィーン世紀末展    (日本橋高島屋)
■ ゴーギャン展      (名古屋ボストン美術館)
  《我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか》
■ 冷泉家・王朝の和歌守展 (東京都美術館)
  etc.
こんなリストから傾向を読み解くのは意味があるとは思えないが、12月に入って各紙誌面では各ジャンル、「2009回顧」として、注目された催しを評論家が取り上げて論評する記事が出されつつあり、興味深くチェックしている。
因みに「朝日」による美術部門では3人の評論家によるそれぞれ3つに絞った選考結果が出されていたが、上記観覧のものを上げる人はいなかった。 
その中で唯一選考が重なったのが《“文化”資源としての<炭鉱>展》というものだが、ややキワモノ的な匂いもするが、どうしてなかなか戦後日本のエネルギー資源を支えた炭鉱を「視覚芸術」として捉え、「‘文化’資源化による産炭地域の社会再生について、息の長い思考と取り組みを期待」するというのだから、決して「3丁目の夕日」のような(観たこともないくせに参照させるのだが)単に懐古的に振り返るだけではない意気込みも感じさせ、興味を持った。
27日までやっているというのだが、行けるかな?

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12月8日という困難

今日の夕刊紙(朝日新聞)一面の中央にはアメリカ退役軍人の居並ぶ姿が大きく来ている。
真珠湾への日本軍による猛攻から生き残った軍人たちが列席した68周年記念式典を報ずるものだ(ハワイ現地時間:7日)。
今日12月8日という日が太平洋戦争への口火を切ったその日だという認知度は、果たして同じ日がジョン・レノンの命日として記憶される日と較べてみてどうなのか、などとの比較は恐れ多いものであろうが、一般に多くの若者は感心の外であるらしい。
ところで先のアメリカ大統領オバマの訪日の折のメッセージには「ヒロシマ・ナガサキ訪問はしてみたい」との一言があったことはメディアでも話題になり、ボクもそれが実現されるのであれば良いなと、期待もした一人だ。
4月のプラハにおける「核兵器のない世界」のオバマ演説は、近くオスロで執り行われることになるノーベル平和賞への受賞理由として決定的なものだったろうから、そうであれば「ヒロシマ・ナガサキ訪問」というのもあながちリップサービス、夢物語では無いだろうと思いたい。
ただこれは決して簡単ではないだろうという思いが一方にあるのも事実。
よく知られるように米国内においては、ヒロシマ・ナガサキへの原爆投下によって太平洋戦争の終末を早めた(その分、双方の犠牲が少なくなった、という含意を込めて)、という抜きがたい信念があるらしく、ここに大統領が訪れることは、そうした戦後一貫した米国内の信念にも近いとされる感情を逆なでさせてしまう怖れは、為政者としては無視できないものであるのだろう。
(原爆投下というものが、そうした恣意的な理解のされ方で正当化されるものであってはならないことは言うまでもないのであるが)

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うっかりの週末

週末はMacのデータ整理とBackup作業に充てている。
数年に1度ほどの頻度でMacをクラッシュさせてしまい大童になるのはコンピューター依存の悪しき生活スタイルと自嘲気味に語るか、あるいは日常普段にBackup態勢を整えていない過剰な楽観主義と戒めるか、いずれを取ってもIT社会に十分に対応し切れているとは言えない自身の姿が見えてくる。
1月ほど前に配電線作業で停電する、との電力会社からの電話が入っていたし、また1週間ほど前にもチラシを配布しての予告が廻っていたのだが、その当日にあたる今日はうっかり失念していて、PowerMacでの作業中に停電作業開始時刻を迎えてしまった。
日中ではあったが、雨も降る陰気な日でかなり室内も暗いため灯りも付けていた。
ブツッ、とMacがダウンし部屋も暗くなり、さすがに慌てた。
そうか、とその予告を思いだし、時計を見れば予定の午後1時きっかり。
MacはBackup作業に移る前のデータ整理作業中であったので事なきを得たというところ。
仕方なくMacBook Airを起動して、別の作業に取りかかったまでは良かったのだが、モデムも働かねばネット接続もできるわけもなく、こうしてテキスト打ち込みやら、別の作業で“文化生活”が戻るまで待つしかなかった。作業は3時間の予定。
ボクは大昔、電力関係の仕事をしていて、こうした停電作業の現場スタッフとのコミュニケーションはスムースに取れる方。
そこで雨中の停電作業に従事する作業員のところに帽子だけを被って出掛けようとしたら、何と工房の真ん前の電柱によじ登っているじゃない。それぞれ雨合羽に身を包み、二人が上に上がり、一人が下からサポート、それに交通整理のガードマンと、そして現場監督。総勢5名。
この現場監督と暫し作業内容などを尋ねるなどしながら、雨中作業の大変さを慰労する。
うちがよく働くから、というワケではないだろうが、電線容量を大きくし、トランスも大容量のものと替え、腕木も耐用年数が来たので交換するのだという。
この腕木は鉄製でユニクロームのメッキのようだが、驚いたことに、このメッキも最近のものは耐久性が悪化しているとのこと。
素材そのものも以前ほどの品質は無いのだと微苦笑しつつ顔を歪めた。
雨も徐々に強くなってきたし、電気が無いのではMacから離れて読書するにも暗すぎるなど、部屋にいてもすることが限られる。
そこで、意を決し、土曜日恒例の買い出し外出時間を早めて出ることにした。
今日は美味しい日本酒とAppleの「Magic Mouse」でも買ってこよう。
・・というわけで最後に、週末・土曜日の夜は スコッチ片手にYouTubeでも。
前回と同じくパリの場末の雰囲気に浸っていただき「karpatt」を。

A[H1N1](新型インフルエンザ)にどう臨む? その2

(承前)
〈 対応策を考える (処方薬の問題)〉
次にタミフル、リベンザなどの抗インフルエンザ処方薬について考えてみたい。
あらかじめ論旨を示せば、これら抗インフルエンザウイルス薬品がインフルエンザウイルスへの特効薬であるかの如くに喧伝されていることへの疑義についてである。
独ロシュ社が製造・販売する(日本では中外製薬が輸入・製造販売)タミフルは全世界に販売されているが、ここ数年、タミフル服用によるものと考えられる事故が日本に集中しているという実態があることはメディアでも大きく取り上げられ知られるところとなっている。
残念なことだが、まずこの処方後の異常行動の問題から見ていかねばならない。(毎日jp:新型インフル:発症後の異常行動、全国で151例
こうした問題の因果関係を検証するのはなかなか困難なことだが、2007年、中学生がタミフル服用後にマンションから転落死するなどの事故が相次いだ結果、かねてよりその副作用問題の深刻さを指摘した専門家からの度重なる追求を受け、厚労省としてもこれを無視できず注意喚起をすることになった(厚労省:タミフル服用後の異常行動について[緊急安全性情報の発出の指示])。
この度の2009A[H1N1]患者に対するタミフル服用でも、同じ問題が起きている。(読売:基礎疾患ない5歳女児、タミフル処方後、死亡
ただ、こうした意識障害、精神神経系の異常症状というものは、インフルエンザの疾患においても希に見られるとも言われていて、これらの事故はタミフルが原因ではないとの一部専門家による見解があるのも事実で、現時点では必ずしも決定的な解明ができているとは言い切れない。
しかし一部、厚労省担当官もその因果関係を認めざるを得なくなっていることも確かで、今後の専門家による検証が望まれるところだ。(新型インフルエンザに感染した患者の死亡について:PDF
やはり重要なのは、医療現場、所轄官庁、あるいはメディアにおいては、こうした事故を隠蔽することなく、市民の前に適切に情報開示し、さらには専門的立場から科学的、医学的なメスを入れ、その因果関係を究明してもらわねばならないだろう。

1maple

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A[H1N1](新型インフルエンザ)にどう臨む?

momiji
Top画像は定期的に通院している総合病院の敷地のカエデ並木。
今年は例年になく色づきが良くないと、駐車場のガードマンが嘆いている。
冷え込みが不十分なままに枯れ落ちていくようだ。
温暖で知られる静岡の、ほとんど標高もないようなところで、色づきよく紅葉せよ、というのが土台無理な話ではある。
通院は隔月に1度の呼吸器科。喘息の発作に見舞われて以降、ここ10年ほどの付き合い。
昨今、この呼吸器科も周囲の総合病院では次々と閉鎖されつつあるようで患者はいつもあふれかえっている。
したがっていつもは予約時間にピタリと診察に入れるわけでもないが、今日はあまり待ち時間を惚けて過ごす暇もなく名前が呼ばれた。
挨拶の後、胸、背中へと聴診器を当て、暫しドクターと世間話に興じ、気管支拡張剤の処方箋を発行してもらう簡単なもの。
ただ今日はドクターから1つの提案があった。
他でもない、A[H1N1](A型インフルエンザ)のワクチン接種が始まっているので、予約をして受けてください、とのことだった。
少しこの病院の罹患者の様子を窺ったりしつつも、結論的にはボクは接種しないことを告げた。
今日のエントリはこのA[H1N1]について、少し整理して考えておきたいと思ってのものである。(2回に分けるが、いずれも冗長なものになる)

1maple

呼吸器疾患を抱えている患者にとっては、このA[H1N1]罹患のリスクが高いことはよ〜く認識している積もり。また基礎疾患を抱えた人、妊産婦、幼児などはワクチン接種における優先順位が高いことも承知している。
したがってドクターからの提案は至極合理的な判断での適切な提案であったことは言うまでもないだろう。
にもかかわらず‥‥、それへのボクの対応は間違ったものであるとの立場に立つ人は多いと思う。
中にはとんででもない甘い考えだと難じる人もあるかもしれない。
でもそこはボクなりの考え方に基づいた合理的な判断をした積もりなのだ。

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Blogエントリ記事は忘却の彼方

推薦1
数日前、気象庁から長期予報が出されていたが、この冬は暖冬気味に推移しそうだとか‥‥。
ウォーキングで良く通る丘の上の神社脇の路傍には、師走を迎える前だというのにこのように早くもラッパ水仙が顔を見せてくれていた。
画像は決して前年のものではなく、昨日撮影したもの。
(お天気が優れず、コントラストが穫れなかったので、精彩に欠ける)
うちの庭にも同じものが自生しているが、年明け頃からの開花と記憶しているので、この時期の開花とはいささか慌て者?

松葉

水仙2季節の移ろいは人の生活リズムなどには無関係に確実に時を刻んでいく。
そして4週後には新しい暦に掛け替えねばならず、つまりは歳も1つ重ねるというわけだ。
ボクは年齢を重ねることへの怖れはさほど強くはない(つもり)。
(青く未熟な若い頃に戻りたいなどと夢想することなどはない)
しかしどうも最近、記憶メモリーの読み出し、書き込みに不具合が出てきたのだな、
先に本Blogエントリ数が1,000を超えたとの話しをしたばかりだったが、これまでどのような内容の記事を書き散らしてきたのか、かなりの分量で記憶の彼方に押しやってしまっていることに気付かされてしまった。
松葉

記憶という能力は人が生存していく上で本来重要なものであるわけで、右から左へと削除されていくようでは困る。
無論記憶力という能力も他の頭脳細胞とほぼ同じように20代後半からは劣化の一途を辿る、というのが定説だそうで、これが老齢期に差し掛かれば急速にその速度を高めることも抗えない事実だ。
しかしこうした負のイメージを取り繕うために言うわけではないが、忘却ということも一方の能力ではある。
所詮人の記憶能力にも限界はあり、不要になったデータは削除されたり、あるいは新しいものへと更新されていくことでその人が自身の赴く方向へと生きていくための仕様(スペック)の1つとなれば良いのだからね。
こんな前振りになったのは、本件記述に関わる過去エントリ記事があったことを思い出したから。
ネット上の記述データにしろ、ローカルコンピューター内のデータにしろ、今やキーワード検索で瞬時にリストされる。
こうした高度な機能に助けられているからこそ、記憶に留めるための頭脳内の作業が疎かになってしまうということもあるのだろうな。
人間社会の文明の発達というものを人の進化と見なすべきなのか、いやそうではなく実は逆に劣化の歴史と見るべきなのか、ボクには判然とした答えを出すことはできない。
言えることはヒト・ホモサピエンスとして進化した頭脳にあっては、いかに文明が“進化という名の発展”をしてきたとしても、その基礎能力においては総体において進化などしてきたとはとても言えず、とりわけ高機能なコンピューターがこれほどまでに普及した現在、むしろヒトの生存能力(生きるための基礎能力)は劣化の一途を辿ってしまうのでは、という喜ばしくない懸念が強まっているのではと考えてみたりする。
この懸念を回避し劣化のスピードを抑えるには、まずはMacやiPhoneから逃避することなども有効な試みの1つであるだろうが、そうした選択はできないだろうね。
あまりに甘美で魅惑的な世界だから。
恐らくは死ぬまでこうした葛藤からは離れられないのだろう。
松葉

‥‥‥ さて、本筋に戻る。
4年近くにもなる過去の記事で「テーブル制作」という加工プロセスを記述したものが数回にわたって上げられていた。(こちら
前回エントリした「CLARO センターテーブル(追記:脚部)」の記事は、これをあらためて一部再編集して上げたものだった。
(思い出せただけでも救いであったかもしれないが、気付いたときは冷や汗が出た  恥;)

CLARO センターテーブル(追記:脚部)

センターテーブル脚部1
〈承前〉
先にこの「CLARO センターテーブル」の構成を記述してきたところだが(こちら)、画像とともに少し詳しく紹介してみる。
画像は加工途上のものだが、脚部の構成、デザイン・仕口が良く見て取れるものと思う。
(天板と接合される「送り寄せ蟻 吸付桟」部分は加工途上であるが)
畳ズリは先述したように台形+かまぼこ面、という形状であるために、貫との仕口は相欠きとし、ノックダウンでもあるので、底からボルト締め。
吸付桟と上の貫は、下の相欠きとの関係もあり蟻ほぞとする。
(同一方向移動での納まり、蟻ほぞは、左右吸付桟の幅を固定するには最適)
センターテーブル脚部2下の貫は全体的には円弧状に近いものであり、また木口も柔らかなラインで処理されている。
ボクは過剰な加飾を含め、デザイン過剰なものは好まない。
しかし全体のフォルムから演繹的に必要と求められるディテール部分への意識的なデザインは積極的にすべきと考えるので、面形状であったり、木口へのこうした処理は頭を悩ます(この場合、悩ます、というのは、楽しむ、ということと同義)。
そうした辺りがモノづくりにおける楽しさでもあり、また同時に丁寧で真摯な関わりの証しでもあると信じている。
(これらは“やっつけ仕事”においては不要な働きかけであり、いわばアマチュア的な志向だと言えるかも知れない)
なお、ロクロ脚は四方転びでもあり、それぞれの接合の位置関係は少し微妙になるので、正確に計算し、高精度の墨付けが求められる。

大阪・西成の報道のされ方への違和

kosumosu
ボクはいわゆる“寄せ場”というものについてさほど詳しい者ではないが、東京の山谷、横浜の寿町が醸す匂いは少し知っている。
ただ残念ながら国内最大の規模を誇る大阪の釜ヶ崎(あいりん地区)へは行ったことがなかった。
昼過ぎ、何とはなしにTVをつけたら大阪の釜ヶ崎の光景が写っていた。
「西成」という地名表記だったが、三面記事を賑わした件の市橋容疑者が大阪での勤務先を探すために、この寄せ場を通って行ったらしく、こうしたことを追跡するために「西成」へと取材陣を送り込み、番組を構成したということのようだった。
Q:こういうところでは身分証明書が無くても働けるんですか
A:年齢と身体つきで働けそうやったら誰でも雇うたるで
Q:ワケありの人、例えば市橋容疑者のような人でも、ですか?
A:何を言うとるの、あんちゃん、ワケありばっかしやん、こんなとこ‥‥ (怒)
‥‥ そんなやりとりの途中、近付いてきた別の労務者が取材陣をくさす。
「あんた、ちゃんと許可撮ってカメラ廻してるの?」「エッ、いや・・・」
「ちょっとこっちに来な・・・」、「いえ、そんな〜・・」

銀杏

はっきりと語っていたわけではないが、この取材は市橋容疑者の逃走を助ける格好の場としてこの「寄せ場」に焦点を合わせ、いささか反社会的な場所であるかの如くに構成したというところだろう。
不正がまかり通り、怖ろしくて近づけない所、といった風に。
確かに追われの身を隠し、息を潜めながら棲息している人もいるかも知れない。
本名など語らず、通称で生きている人も少なくないだろう。
ただ70年代の大阪万博会場の設営も、80年代の関西空港の大工事も、この西成に集う労働者なくしては成し得なかっただろうことだけははっきりしている。
あるいは資本主義制度の下での労働市場において、常に雇用の調整弁として機能してきたことも明らかなこと。
こうして労働市場からは絶対的に欠かせない雇用形態として位置づけられながらも、決して明るい日射しの下に晒され、称揚されることなどはない日陰の存在。
ただ、もし「労働」という本質の原点を知りたければ、他のどこよりもこうした「寄せ場」に“立ちんぼ”し、労働現場へと足を踏み入れることが手っ取り早い。
そこでは自身の身体ひとつを1日の労賃と引き替えに売る、「働く」ということの生々しい本質を見ることができるだろう。
そこからは畏怖さえ感じ取れる何ものかが掴めるかも知れない。
そうした現場へと深く取材することなく、表層だけを切り取り、数人の関係者への取材で殊足れりとする薄汚れた心性のレポーターやディレクター、あるいはこれをエアコンの効いたきらびやかなスタジオで知ったかぶりに論ずる薄っぺらなおつむの自称評論家らと、一方のカメラに追い回される薄汚い作業着の「寄せ場」に集う労働者。
どちらに一人の人間としてのリアリティー、生の息づかいがあるかと尋ねられれば、ボクは躊躇無く後者だと答えるだろうな。
木工職人という仕事も、よくよく考えてみれば‥‥、はるかに後者に近いかも知れないしね(苦笑  そんなはずはない、と考えておられるご仁には申し訳ないが)
さてここでの問題だが、市橋容疑者を意図せずとも匿ってしまったことの当否を問うその前に、まずは千葉県警が容疑者宅に踏み込んだ際の獲り逃がしであったり、大阪府警など捜査関係部署の捜査力の衰えの方をこそ問うべきではないだろうかと思うのだが、如何だろうか。
銀杏

寒風吹き抜ける西成で、この冬もまた繰り返される炊き出しの列は途切れることなく続く。
またここに並ぶ体力さえ奪うような厳しい労働環境に敗北し、道端に転がり人知れず死に逝く労務者も少なくないのだろう。
その一方で疲弊する社会からの欲情に媚びへつらい、批評精神を失って久しいTVジャーナリズムの劣化だけは止まることをしない。
いつまで続くのか知らないが、巨悪がはびこる社会へとメスを入れることは決してなく、膨大な時間と費用を費やし一人の殺人事件容疑者をおもしろおかしく執拗に追い続ける報道に、どれだけの意味を見出せるのかは一度考えてみた方が良いかも知れないね。