工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

〔MacBook Air〕Remote Discが分からん

MacBook Air
新型MacBook Airはコンピューターの世界に衝撃をもたらしているようだ。
ジョブズ氏がにこやかに封筒から指先でつまみ出した、MacBook Air誕生のあのシーンは、確かに少し鼓動に変調をきたすほどだったよ。
これはMacworld 08でのSteve Jobs氏基調講演のそのシーン

(全編はこちらから)
さて、鼓動も落ち着いた頃となってやはり気になることはインターフェイスの制約。
Firewire(IEEE1394とか言う奴だね)ポートが無い。USBポートはたった1個だけ。
光学ドライバ断念は許せる。しかしFirewireポートの非搭載は、いささか飛躍に過ぎるのでは?
Appleさん、これは極薄を極限的に追求した結果の代償ということなのだろうかね。

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木製のハンドル(偽金具ではありません)

木のハンドル
家具をデザイン制作していて良く悩むのが引き手などの金具類であると言うことについては過去何度か触れてきたように思うが、その1つの打開策として、既製のものを用いるのではなく自作するということも良く行われる手法。

無論、金工で行うというのが正攻法であり、本来そうすべきものと考えているが、うちにはそのような設備もノウハウも無いので、自作となればやはり得意な木製ということになる。

木製とは言っても、やはり重厚感をねらって良質なローズウッド(インディアンローズウッド)を用いることが多い。
これまでも引き手(ハンドル)の他にも、つまみ、木の丁番、といろいろなものを自作してきたが、素人目には金属と較べ、その堅牢性に疑念を持たれることもあるだろうが、決して必ずしもそう言うものでもないようだ。
むしろ当然にももともと木との親和性は高く、金属のように錆びて機能不全に陥るということもない。
金属と木部の接触部はどうしても腐食しがちなもの。

因みに木の丁番(例えばこれ)は独立初期に自家消費として耐久性を継続検証しているが、20年経過した今も全く問題なく快調に機能している。

このような機能部品の制作はやっかいなものと忌避したがるものだが、いやむしろ木製のハンドル、丁番作りなどは、どちらかと言えば構築的な家具制作とは異なり、彫刻的なおもしろさがあるので、浮かんだデザインイメージを自前の限られた機械、限られた刃物を縦横に使いこなし、どのようなプロセスで完成させるのかといった事などを考えるのは、実はとても楽しく愉快なものなのだね。

さて今回も新たなデザインで試作してみたが、何とか実用になりそうだ。
木製とは言っても1個1個手で削り出すという訳にはいかないから、ある程度のロットでまとめて作る。
これは生産性を考えてのもと言うよりも、品質の安定化と仕様を満たすための必然的な考え方だ。

木のハンドル2Top画像の新たな試作のものも丸鋸昇降盤とルーターマシーンの2つの機械を使って簡単に作ってみた。
右は、これまで開発され、継続して使用してきている引き手の一部。
(これらはオリジナルなものですので、コピーはなさらないよう願いますね)

良い家具造りをする他の木工家のこうした自作の引き手などを眺めてみれば、やはりデザインセンスとアイディアの豊かさを感じさせてくれる。
木工家具の全体からすればほんのディーテールの1つかもしれないが、意外とこのような小さなものでも、イメージ豊かにその作品性を決定づけたりすることもあるもので、手抜きは許されないものの1つだね。

頭脳を柔軟にさせ、これに技能と経験を付加させれば、つまらない既製のものよりもはるかにクールなものが出来るものだ。

MacBook Air って?

Apple Store(Japan)
《MacBook Air》、ついに姿を表した。ムムム‥‥。
新しいMacbookは世界で一番薄いアルミ合金の駆体に包まれてやってきた。
〔Macworld Expo 2008〕会場には「Thinnovation」という大きなバナーが掲げてあるようだ(こちら)。(「Thinnovation」=薄さの技術革新、という造語だね)
「There’s something in the air」と、前々日に謎めいたメッセージが予告した「Air」とは一体何を意味するのかと喧しかったが、ふたを開けてみれば、ただシンプルに“薄くて”、“軽い”MacBookのことだったんだ。
ジョブズ氏の基調講演、聞き入ってしまったが、最後のコーナー、このMacBook Airに手を掛けた瞬間、目を疑ったね。
デスクの上には薄いA4封筒が1つ置かれているだけ。
これをおもむろに開封してでてきたのが MacBook Airだった。
薄いマガジン1冊が入るぐらいの奴だよ。
(Apple社サイトTopページにある奴だね)
Appleサイト、関連ページ(こちら)には、浮いちゃってる画像があるけれど、オウム真理教の松本智津夫被告ではあるまいし、空中浮遊する訳ではないよね。
羽のように軽くちゃ飛んでっちゃうからね。

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“手作り家具”と機械設備(その8)

家具工房における機械導入と制作スタイルの問題

これまで家具工房において設置すべきと考えられる機械について概説してきたが、あらためて確認するまでもなく、こうした考え方の基底にあるのは加工精度を高め、より高品質なものを追求するために欠かすことのできないアプローチであり、同時にまたより生産性を高めるという要請にも大きく応えてくれるものということであった。

BRICs諸国の歴史的とも言えるような台頭と迷走する日本の政治経済による見えない展望という時代の中にあって、国内家具産業の不可逆的とも思えるような低迷はその脱出路を見出せずにいるかのよう。

ボクたちの家具造りを持続的に可能ならしめる方向性はどこに求めたらよいのだろうか。
果たしてどのような選択肢があるのか、いずれも苦しい道筋でしか無いことを承知の上であえていくつかの解答を用意せねばならないと思うのだが、まずは「仕事の質を高めていく」、ということについては誰しも否定しがたいこととして措定せざるを得ないだろう。
この仕事の質を高めるという問題設定への1つの答えがこれまで縷々語ってきたような適切な機械の導入ということになるだろう。

なぜこんな当たり前のことを繰り返し語らねばならないのか。
残念なことだが家具工房によってはそうした機械がまだまだ十分に整備されているとは言い難い現状があり、その背景として仕事の質を高めるという認識の欠如が導入の妨げになっているように思えるからだ。

ところでこうしたBlogを運営していることからか、たまに見知らぬ木工家からメールをいただいたりして、お話しを聞いたり、Webサイトを拝見させていただいたりと、その制作環境であったり、生活スタイルなどを拝見させてもらうこともあるが、彼らの多くは自由闊達で、心豊かな暮らしぶりを伺えることが多いもの。

しかし一方では、機械導入の必要に迫られてもこれが為し得ない理由付けとして、家具工房はビンボウだ、喰えないのに機械なんてとんでもない、などと相互に顔を見合わせて卑屈に語る、さらにはなぜだかこの経済的困窮を自虐的→自慢げに語ったりと、勇躍、今後この世界に入ってこようとする若者の道を閉ざすようなバイアスをあえて強めるような不健全な物言いがネット上などでも散見されるという現実がある。

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今年も月齢カレンダーを

月齢カレンダー
年末はとても忙しく街へと出る機会に恵まれず、先週末やっと「月齢カレンダー」を買い求める。
既に業者などから日付だけのものや、保険会社などからなかなか豪華な風景写真入りのものなどいくつものカレンダーがあったが、やはりお金を出しても欲しいのが月齢カレンダー。
ここ5年ほど続いているかな。
船乗りでもなければ、釣りをやるのでもなく、ただ月の満ち欠けとともに時間経過を感じたいだけの話し。
この月齢カレンダーというのも様々なタイプがあり、毎年余裕を持って探すのができなくて、いつも選択肢が狭くなってしまった時期に買い求めているので、少しづつ表記されている情報は異なる。
でもムーンフェイスだけは変わらず、どっかりと鮮明に表示されているので良いだろう。
一般に広く用いられているカレンダーはいわゆる太陽暦(グレゴリオ暦、新暦)を元にしたものであるが、日本での古来からの様々な暦に関わる農事であったり、二十四節気の呼称などは今も残っていて新暦の暦にも表記されていたりするが、これらはやはり旧暦の方が理解しやすいし、また月齢との関係もより親和性が高いということになれば、こうした月齢のカレンダーも意味のあるものとなるだろうね。
ボクはどちらかと言えば近代合理主義に立った価値概念に基づく行動スタイルを専らとするけれど、自然現象、天体が地球にもたらす影響などについては、科学的に立証されていないことも含め、いわゆる古来からの言い伝えなどには聞く耳を持ちたいと考えている。
男にはなく女性に感じられる謎多き神秘性についても、受け入れたいと思うしね‥。(いえ、話しを混ぜっ返すことではなくてね‥‥)

坂本龍一 vs ベルトリッチとジラールとMacの関係

お休みの今日はちょっと昨夜夜更かしして観たTV番組「ザ・インタビュー〈坂本龍一×役所広司〜世界が求める日本のカタチ〜〉」のことやら、気になることやら、つらつらと書いてみよう。
この週末から封切りされる《シルク》という映画に準主演として出演している役所広司、音楽監督として参加した坂本龍一、両氏に黒崎めぐみアナウンサーがインタビューするという形式の構成だったが、期待に違うことなく楽しめた。
それぞれ国境を越えて活躍する音楽家、俳優として、お互いの立ち位置を認め合い、相通ずる言語感覚でのいわば対談のように進んでしまうという構成には、局内においても巷間でも評判であろう黒崎アナウンサーにしても、2人の会話に割って入っていくのはちょっと難しかったのではと、少し気の毒にさえ思えるようなインタビューであった。
既にこの2人は昨年アカデミー助演女優賞に菊池凜子がノミネートされたことで話題になった映画『バベル』において役者と、音楽監督という立場で参加しているので、今回で2度目の“共演”となるのだが、このように対面して話し合うのは初めてのことだという。
しかしこの番組に台本があったのかどうかは知らないが、1つの作品を介して共有されたであろう映画制作のシアワセな時間というものが、そのままスタジオに温かい空気として流れているように感じられ、それがこちらにも伝わってくるようだった。
ただ2人ともどちらかと言えばとてもシャイなオトコなので、まだまだツッ込み足りない部分は黒崎アナウンサーの若さ故のものとして仕方がなかったか。
ところでこの《シルク》の監督・脚本、フランソワ・ジラールだが、自身ピアノ演奏を佳くし、音楽に関する造詣は深いようだ。
代表作品が『グレン・グールドをめぐる32章』というところからもこの監督の映画と音楽への思いが測れるというもの。
「シルク」という映画が欧州とアジアを繋ぐ壮大なロードムービーという設定であれば、それぞれの文化を深く理解し、音楽表現として創作できる才能と言うことであれば、教授への指名というのも必然であったのだろう。

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“手作り家具”と機械設備(その7)

機械のセッティングに関する問題について (その2) 

〈角のみ盤〉

角のみ盤という機械はたいへん便利な機械だ。
加工材に穿つホゾ穴を任意の場所に、任意のサイズの角穴を確実、簡便に空けることができる。
無垢材を対象とする家具制作加工においては必須の機械。

ただ機構構造的な制約から、常に設定された位置に穿たれるという保証があるわけではないというところが少し悩ましい。
その誤差はわずかに0.1mmとか0.3mmといった単位であるが、しかし一見この見逃しても良さそうな誤差は、仕上げ過程で余分な削りを強いられ、あるいは構造的な寸法精度の劣化として結果する。
これはそれれぞれの機械の固有の問題と言うのではなく、角のみ盤の機構が有する普遍的な問題になる。

この問題にはいくつかの要素があるが、その最大の問題は角のみの刃であろう。
角のみの刃は、箱のみと心錐の2つで構成されるが、いずれもその機構上、一定の長さを持たせてある。
一般にブラケット下の長さは10cmほどになるが、この長さにより被加工材の堅さ、部位、細胞配列に影響を受け、わずかに歪みを生じることで垂直に掘り進んでいくことを阻害することがある。その結果前後のブレが生じ、ホゾとホゾ穴の関係は設計上と異なった結果となってしまう。

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池澤夏樹〔責任監修+“空気感”を排す〕坂本龍一

皆さんはどんな音楽を聴いているのだろうか。
このBlogではほとんど音楽についてのエントリはしてこなかったが、普段は等し並みに様々なジャンルの音楽を楽しむ。
工房での手作業中には少しチープな音響装置からMP3に落とした音源を楽しみ、部屋に戻り、机の前に座ればたいていはMacを起動し、まずiTunes から気分によって好みの音源をクリックしてからMacでの作業をスタートするのが慣例になっている。
毎週水曜日にはiTS(iTunesが運営しているネット上の音源ストア)からメルマガが届き、気に入った曲があればこれをダウンロードすることも増えてきているので、恐らくは以前よりも音楽産業へのお小遣い投下は増えていると思う。
しかしこれほどまでに様々な音楽があふれかえる時代に、何を指標として選択したら良いのか混迷することもある。
今日の朝日夕刊では坂本龍一が、こうしたことについての自身の考えを披露してくれている。
「玉石混交の膨大な情報の中で、何が玉で何が石かが分かりづらい」
そうした問題意識から作られたのが「commons」レーベル
この夏にもレコード会社の枠を越えたところで、彼自身の責任監修によるCD全集『commons:schola』(コモンズ・スコラ)全24巻(CD24枚)をリリースする予定だという。
彼がこれまで聴いてきた世界の音楽で、1つの指標になるようにと、ぜひ聴いておきたいクラシックから民族音楽、ロックまでを網羅するコンピレーションアルバム。
ちょっと楽しみ。どのような選曲になるかはとても興味深い。
彼の問題意識は、指針のない時代にあって、何を選択するかが“空気”に左右されてしまってはいないか、というところにあるようだ。
「今はタレントも政治家もその空気に頼っている。イラク問題も米国の大統領選挙も、議論より空気」と、語る。
この記事の中で、同様なことを既に試みている池澤夏樹の個人編集による『世界文学全集』(24巻、河出書房新社)が取り上げられているのだが、期せずして昨日の朝日新聞朝刊オピニオン欄でこの池澤による小論があり、意を強くさせてくれる内容でもあったことで、興味深く読ませてもらった。

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“手作り家具”と機械設備(その6)

テストインジケーター

機械のセッティングに関する問題について 

うちでは年末の大掃除の後には機械をメンテナンスすることは恒例となっている。
オーバーホールと言うほどのものではないが、摺動部に給油したり、回転部のグリスを交換したりといったことなどだが、ここにフェンスの調整などを含ませることがある。
丸鋸昇降盤などの木製のフェンスは、日々の過酷な使用で本来求められる要件である平滑性というものが損なわれる。これは定期的に削り直すなどで、常に平滑性を確保することが必要となる。

以前、ある木工専門学校の開校後のサマーセミナーに参加させていただいたことがあったのだがその時のこと。
その機械室には光り輝く新品の機械が鎮座していたのだったが、いざ使おうとすると基本的な精度設定が全くと言って為されていなくて苦労したことがあった。

結局とりあえず必要とされるいくつかの機械をボクが調整、設定するというはめに陥ったのだったが、機械などというものは機械屋任せにするのではなく、結局作業者が然るべく設定しなければ使い物になるものではないと知るべきなのだろう。

この学校の運営責任者、担当教授には相応の責任を問いたいところだが、開校間もない時期であったという事情もあったのだろうか。
さて一般に工場などでは工場長、あるいは機械管理責任者がこれを担うことになるが、ボクたち零細規模の工房では、主宰者自身がこれを担わなければならない。
以下、簡単ながら機械の設定について考えてみよう。

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家具産業の現況を憂う

突然だったが、遠方から家具メーカーA社の社長が訪れ、暫し懇談の時間を持つことができた。
修業時代、親方の指導の下でこの家具メーカーのものを下請けとして作らせていただいていたことをきっかけとする懇意な関係であるが、なかなか会う機会は少なく数年ぶり。
お互いの近況から始まり、創業者(現社長の親)の修行時代の話し、シベリア抑留時代の話し、そして戦後の会社設立の頃の苦労、60〜70年代のはなばなしい好景気の中での会社成長の話しと、尽きることなく話しは続いたが、業界全般の地盤沈下の中にあって、技術継承の難しさ、人材育成の問題、木材工藝、家具デザイン全般にわたる総合的教育現場の衰退(東京高等工芸→千葉大意匠学部→廃部などに象徴される)に見られるこの国の“もの作り”環境の劣化の問題へと話しは必然的に向かうのだった。
他でも聞かされたことのある、こうした由々しき事態を招いた、重鎮○△、のことなどの話しにも及び、こうした指導者層+産業界+官僚の問題というものは昨今の様々な不祥事となって顕れて来ているように、一業界に留まらない、産業界全域にもおよぶ問題であるだろうし、それだけにまたその闇は深いものがある。
数百年を掛けて築き上げてきたであろう日本固有の木の文化、膨大な木に関わる知の体系、そして木工というもの作りの世界、近代化以降の家具産業の勃興と衰退。
当地静岡では家具産業の一大産地として形成されてきたものの、今や櫛の歯が抜けるように工場からは職人の姿が減り続け、業務縮小、廃業と、見る影もない。
これらは東南アジアから中国へと、安い労働力を求め製造基盤を移転させていくことの結果であったが、引き替えに本国の母体を抜け殻とさせていく過程は、もとより表裏の関係にあった。
家具デザイン、家具産業、さらには木の文化全般にわたる今日までの衰退という事態をもたらしたのは、一個人、一学部、あるいは一産業に留まるわけでもなく、まさに日本という枠組み全体を新自由主義の名の下に市場原理の草刈り場として立ちゆかなくさせてしまったのが、この国と、それを支えてきたであろうボクたち自身の有り様であったに違いなく、特定の個人を難詰しても天に唾するようなもので、はなはだ空しいものがある。
せめて木に関わる総合的な分野での知の体系を残し、次へと伝えていくことなくしては、あまりにもこれまで連綿として伝えてきてくれた多くの先人たちに申し訳が立たないというものだろう。
この社長も長い家具制作業務の中で培ったスキルを少しでも社会に還元すべく、出版社の求めに応じて執筆したり、サンプルを提供したりと企業経営者に留まらぬ活動に余念がないものの、その見返りは材料代にもならないほどの薄謝でしかないと言ったような昨今のこの国のもの作りをめぐる評価の低さには、もう2人で苦笑いをするしかなかった。
こうした現況をあらためて突きつけられると、戦後積み上げてきた家具産業、木工業界の業績、技術体系という総合的な資産の散逸は怖ろしいほどのスピードで進んでいるのかも知れない。
恐らくは残された時間はさほどあるわけではなく、ここ10数年が鍵かもしれない。
知りうる限りでも、こうしたことを個人のレベルで熱意を持って私財を投じて、シコシコとやっているすばらしい人もいるが、そうしたところへの社会的なサポートがあるわけでもない。
本来やるべき箇所の人間、アカデミズム、組織(中央、地方の官僚)にはほとんど期待はできないだろうし、余力のある大手メーカーからはそのような貢献があるとも寡聞にして聞いたことがない。
何に付け、こうした社会的文化事業というものは、結局、識見を有する心ある個人が地道な作業の中から、見返りを望むというような経済行為ではなく、いわば人生を賭けるような思いを持って挑むことから、はじめてやり遂げられるというのが真実なのかも知れない。
まさに文化的営為とは、大企業であったり、役所であったりという組織に依拠することを所与の条件として産み出されるというよりも、意外とむしろ個人の営為の中から真の意味での事業というものが成り立ってくるというのが、人間社会の歴史というものの本来のあり得べき姿なのかも知れない。
その困難さと、それを越えたところでやり遂げたことへの栄誉というものは何ものにも代え難い大きな共有財産だ。