工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

家具産業の現況を憂う

突然だったが、遠方から家具メーカーA社の社長が訪れ、暫し懇談の時間を持つことができた。
修業時代、親方の指導の下でこの家具メーカーのものを下請けとして作らせていただいていたことをきっかけとする懇意な関係であるが、なかなか会う機会は少なく数年ぶり。
お互いの近況から始まり、創業者(現社長の親)の修行時代の話し、シベリア抑留時代の話し、そして戦後の会社設立の頃の苦労、60〜70年代のはなばなしい好景気の中での会社成長の話しと、尽きることなく話しは続いたが、業界全般の地盤沈下の中にあって、技術継承の難しさ、人材育成の問題、木材工藝、家具デザイン全般にわたる総合的教育現場の衰退(東京高等工芸→千葉大意匠学部→廃部などに象徴される)に見られるこの国の“もの作り”環境の劣化の問題へと話しは必然的に向かうのだった。
他でも聞かされたことのある、こうした由々しき事態を招いた、重鎮○△、のことなどの話しにも及び、こうした指導者層+産業界+官僚の問題というものは昨今の様々な不祥事となって顕れて来ているように、一業界に留まらない、産業界全域にもおよぶ問題であるだろうし、それだけにまたその闇は深いものがある。
数百年を掛けて築き上げてきたであろう日本固有の木の文化、膨大な木に関わる知の体系、そして木工というもの作りの世界、近代化以降の家具産業の勃興と衰退。
当地静岡では家具産業の一大産地として形成されてきたものの、今や櫛の歯が抜けるように工場からは職人の姿が減り続け、業務縮小、廃業と、見る影もない。
これらは東南アジアから中国へと、安い労働力を求め製造基盤を移転させていくことの結果であったが、引き替えに本国の母体を抜け殻とさせていく過程は、もとより表裏の関係にあった。
家具デザイン、家具産業、さらには木の文化全般にわたる今日までの衰退という事態をもたらしたのは、一個人、一学部、あるいは一産業に留まるわけでもなく、まさに日本という枠組み全体を新自由主義の名の下に市場原理の草刈り場として立ちゆかなくさせてしまったのが、この国と、それを支えてきたであろうボクたち自身の有り様であったに違いなく、特定の個人を難詰しても天に唾するようなもので、はなはだ空しいものがある。
せめて木に関わる総合的な分野での知の体系を残し、次へと伝えていくことなくしては、あまりにもこれまで連綿として伝えてきてくれた多くの先人たちに申し訳が立たないというものだろう。
この社長も長い家具制作業務の中で培ったスキルを少しでも社会に還元すべく、出版社の求めに応じて執筆したり、サンプルを提供したりと企業経営者に留まらぬ活動に余念がないものの、その見返りは材料代にもならないほどの薄謝でしかないと言ったような昨今のこの国のもの作りをめぐる評価の低さには、もう2人で苦笑いをするしかなかった。
こうした現況をあらためて突きつけられると、戦後積み上げてきた家具産業、木工業界の業績、技術体系という総合的な資産の散逸は怖ろしいほどのスピードで進んでいるのかも知れない。
恐らくは残された時間はさほどあるわけではなく、ここ10数年が鍵かもしれない。
知りうる限りでも、こうしたことを個人のレベルで熱意を持って私財を投じて、シコシコとやっているすばらしい人もいるが、そうしたところへの社会的なサポートがあるわけでもない。
本来やるべき箇所の人間、アカデミズム、組織(中央、地方の官僚)にはほとんど期待はできないだろうし、余力のある大手メーカーからはそのような貢献があるとも寡聞にして聞いたことがない。
何に付け、こうした社会的文化事業というものは、結局、識見を有する心ある個人が地道な作業の中から、見返りを望むというような経済行為ではなく、いわば人生を賭けるような思いを持って挑むことから、はじめてやり遂げられるというのが真実なのかも知れない。
まさに文化的営為とは、大企業であったり、役所であったりという組織に依拠することを所与の条件として産み出されるというよりも、意外とむしろ個人の営為の中から真の意味での事業というものが成り立ってくるというのが、人間社会の歴史というものの本来のあり得べき姿なのかも知れない。
その困難さと、それを越えたところでやり遂げたことへの栄誉というものは何ものにも代え難い大きな共有財産だ。

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