工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

戦後を生きるということ

ボクは戦後間もない1948年の生まれ。いわゆる団塊と言われる世代だ。

3人兄弟の真ん中だ。兄や弟は生後間もない頃のスタジオでの記念写真がいくつも残っているのに、ボクのは無い。
何だ、オレはもらわれてきたのか? と、訝しく、あるいは自嘲気味に家族が集まった席で話すこともあったが、親父、おふくろにそっくりの顔だちからすればそれはない。
次男坊への期待の薄さも幾分含まれた処遇であったかもしれないが、むしろオシャレして写真館に出掛ける余裕など無い、とても貧しい時代だったということだろう。

戦後経済社会の荒廃状況下、人々は皆貧しく「貧困平等」のような時代だった。

1945年8月15日、いわゆる15年戦争と言われた日本の戦争は敗北を持って終わりを遂げた。

ボクが生まれた1948年という年は、サンフランシスコ講和条約までにはまだまだ届かないGHQ占領下であり、何もかもがカオスのような混沌とした時代だったと思う。
無論嬰児に記憶など留めようも無いわけで、脳裏に登場する最初の記憶は講和条約が結ばれる頃の断片的なものだ。

父親との二人の旅の途中、連れて行かれてた上野動物園の虎の檻の前で、とうちゃん、でっかい猫だねぇ、と周囲を笑わせたという笑い話は成人してからも嫌になるほどネタとして使われたが、ボクの鮮明な記憶はむしろ上野公園でのある光景の方だった。

白装束に身を包み、肩からアコーディオンをぶら下げ、軍歌を鳴らす数名単位の人たちだったが、彼らは片手が無かったり、粗末な台車に乗った両足が切断された状態だったりと異様な雰囲気で、判断も付かない小さな胸を苦しめるに十分すぎる光景だった。
傷痍軍人という人たちだ。


戦後から5.6年経てもなお、敗戦後の生々しい状況は変わるものではなかったと言うことだろう。

その後、講和条約締結と前後する形で朝鮮戦争が始まった。
日本には講和条約締結後もなお米軍太平洋司令部と強大な軍事力が駐屯し、朝鮮半島へと出撃していったことなどは長じて後に知ることになったのだが、しかしいわゆるカネ偏のものは高く売れるというので、子供達は磁石を紐で結び、路上、原っぱを転がして鉄をかき集めるといったことなどは記憶の底に眠っている。
日本は朝鮮戦争特需をバネに、大きく復興の道を歩んでいくのだった。
子供もこれにくず鉄を収集するなどの形で関わっていたということだろう。

その後、三重県の山中で小学校に就学する年齢になっていくのだが、それからの時代というものは大きく変わり、社会制度も安定し、経済的復興から高度成長社会へとめまぐるしく移ろっていくことになる。

小学校入学時、ランドセルを買い与えられたが、これも後で知るのだが、ボクのは豚皮のものだった。小学生の数少ない愛用品が貧困の印の豚皮ランドセルであったことなどは貧しさの自覚の始まりでもあったわけだが、やはり次男坊ならではの処遇か(笑)。
そんなことは笑い話で済ませることができるのでどうでも良い話しだが、貧しさということでは、うちの貧しさなどまぶしく見えるほどの貧困家庭が近くにあったことは、いささかの後ろめたさを抱えて記憶の片隅に残る。

親は今で言うゼネコン社員で当時は電源開発の時代で全国様々な地域の山中にダム、発電所の建設に携わっていた。
家族共々これに付き従って転戦していくのだったが、この社員住宅に隣接して下請け会社の寮があり、ここには多くの在日朝鮮人が労務者として居住していて、彼らの子女もボクらとともに学び、遊ぶという環境だった。
彼らは学業に伴う費用が払えなかったり、弁当も持って来られなかったりと、明らかに日本人子女とは異なる経済環境に置かれているのだった。
ボクの仲の良い朝鮮人の友達とは、つまらないことでケンカしては、いつもコテンパに負けるのはボクと決まっていた。

彼のけんかっ早い精神の熱いたぎりがいずこから湧き出るのかを理解するには、あまりに幼いボクだったのだが、憎めない良い奴だった。
既にこうして就学前後から、社会の不平等、チョウセンジンという存在の不可思議を抱えながら、学校では平和憲法を学び、休み時間には泥んこになり遊びほうけ、そうして時代は高度成長へとひた走っていった。
(続く)


今日のYouTubeはフェデリコ・モンポウ(Frederic Mompou i Dencausse:カタルーニャ語)の「Cantar del Alma」(魂の歌)。近代スペインの作曲家。

ちょっと今日の気分かな。

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  • こんばんは。
    僕はartisanさんより20近く年下ですが、幼少の頃
    傷痍軍人さんに遇った記憶があります。
    映画、蛍の墓のラストシーン?(辛くて1度しか観ていないのです)の
    公園近辺でその頃を過ごしました。
    母親と、週末少し離れた市場まで買い物に行くと
    中にある四つ辻に、数人の傷痍軍人さんが居られました。
    朧ではありますが、皆やはり白装束の出立ちで、
    胸にか抱えた手回しオルゴールを奏でている片足の無い方、
    両足の無い人は地面に蝋石で逆さ文字にて
    なにかを筆記為さっていた様に思います。
    母親は決まって僕に銀貨を握らせ、
    お礼を言って傍らの募金箱に入れさせました。
    戦争孤児である、長崎育ちの父の戦時中の話は、
    僕にとって、心躍る冒険活劇の様でした。
    (態とそう話したのでしょうが)
    沖縄の側の島で育った母親の額には
    爆撃にて負った深い傷跡が消えず残り
    また、その話は悲惨なものでした。

  • うずまきさん、あなたの世代で傷痍軍人と接触したというのはちょっと驚きですね。1970年代ということになりますか。
    戦後四半世紀経てもなお、その傷は癒えていない、いやある種の無言の抗議、はたまた・・・、
    ご両親の戦争に関わる苦難を披露していただきましたが、家族という単位でこうした大切な事柄を語り繋ぐということが、DNAの継承とともに、とても大切な営みのように思います。
    人の世界の倫理規範というものも、そうした場で養われていくのだろうと思いますね。
    このBlog「戦後を生きるということ」について。
    一気に公開しようと執筆していたのですが、ちょっと荷が重いということもあり、少しインターバル置きます。

  • 私はartisanさんより25才ばかり年下ですが、やはり傷痍軍人さんを何度かお見かけしました。
    近くの神社のお祭りの時に毎年同じ場所で膝をついておられました。
    小学校の低学年位のときの記憶でしょうか。
    父母ともに戦後生まれで同居の祖父祖母はものごごろつく前に他界していたので戦争について生々しく触れる機会がありませんでした。

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