工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

戦後を生きるということ(続)

(承前)
昨日《キャタピラ》を観る。第60回ベルリン国際映画祭で主役の寺島しのぶが最優秀女優賞を受賞した映画だね。

公開前に若松孝二を迎えてのステージ挨拶の機会もあったのだが、忙しく出掛けられず、全国封切りの翌日となった。

撮影期間わずかに12日間という若松組ならではの早撮りで、その舞台は帰還兵士夫婦の茅葺きの住まい、近隣に広がる田んぼ、そして竹槍訓練の場としての神社のみという実にシンプルな設定だが、描かれる時空の濃密さには圧倒されてしまった。

軍神として帰還した兵士は四肢を失った肉の塊でしかない芋虫状態(タイトル、“キャタピラ”の意)。この異様なプロットがまず衝撃的で、若松ワールドに強引に引きづり込まれる。
これを迎えるのは対比的に美しく貞淑な妻(寺島しのぶ)であるのだが、この二人の日常を通して戦争というものの非人間的な実相、そして国家というものの非情さを描く。

もはやヒトの原型を留めないほどの無残な姿にも人間の欲望(食と性)はあり、無為な日常の中にも食と性だけは過剰なまでに発露されるが、この帰還兵には四肢を奪われた中国戦線の内実が時としてフラッシュバックし、苛ませる。

そりゃそうだろう、戦闘対象ではないはずの民家への放火、非戦闘員婦女子への強姦、虐殺という、いわゆる三光作戦のむごたらしさを何度も何度も執拗なまでに繰り返し描く。
性愛の本質をえぐり出すように描いてきた若松監督ならではの手法であるが、そのエクスタシーへ誘う行為は同時に人の本質を暴き、素っ裸の精神状態を晒し、そして戦争行為というものがいかに人間破壊的であるかを見せるのだが、さらには国際法に反する非戦闘員への暴虐の限りを尽くす“聖戦”下の日本軍兵士の振る舞いへの若松監督の怒り、省察、そして倫理性が強くフィルムに焼き付いている。

エンドロールの背景には炸裂する原爆キノコ雲の映像が使われていた。
この映画のテーマ、メッセージから想像すれば、敗戦を促した(ポツダム宣言受諾と降伏)ことのメタファだけではなく、原爆投下というものが、いかなる経緯と原因によってもたらされたかを黙して訴えていると解読すべきところか。

原爆と言えばとかく被害者としての側面を強調しがちであるが、そうしたものとは少し異なる視座の提示である。
若松監督の強いメッセージと、寺島しのぶの体当たりの熱演は高く評価される。

最後のシーンは原爆投下、敗戦直後の帰還兵の衝撃的な末路を示すものだったが、15年戦争そのものの帰結の暗喩とも言えるだろう。
機会があればぜひご覧いただきたい。

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2010年8月、戦後から数えて65年。
1960年代高度成長のさなか、経済界を中心に、「もはや戦後は終わった」と宣明されたことがあった。

しかし今もなおこの「戦後」という言葉はその効力を失うことはなく、相変わらず戦争をテーマにした映画が作られ、ドキュメンタリーが制作され、新聞メディアも特集を組み、論壇では批評が飛び交う。

年を追うごとにその論点は深まって来たかと言えば、ボクには残念ながら必ずしもそうばかりとは思えず、時には堂々巡りを繰り返し、戦争映画で語られる視点もさほど深まってきたとは思えない。
(そんな中で、今回紹介した《キャタピラ》は特異な対象を描写したものではあるが、戦争というものの本質、15年戦争の実相を明かして希有な事例だろう)

最近の学生では日米が戦争をしたという歴史を知らない者が5人に一人との統計結果を知らされ唖然とするというぐあいで、戦争体験とその後の戦後をめぐる論調は風化しつつある
彼らに言わせれば、自分のしたことでもないことを知らないからと言って責められるのはまっぴらゴメンだと言う立場なのであるらしい。

ところで今年は軍人軍属として従軍した元兵士からの証言が多く出てきているように感じた。(例えば「NHK戦争証言アーカイブス」紹介記事
彼らは80代〜90代の超高齢者となり、これまで堅く口を封じてきたものの、やはり語っておかねば死ぬにも死ねないという思いからなのか、姿勢を正して耳をそば立てねば聴けない生々しい、凄惨な戦場での体験を語ってくれている。

無論、中には武勇談として語る元軍人もいるわけだが、だがその多くは決して誇るべき事柄としてではなく、汚く、おぞましく、情けなく、実に悲惨なもので、若い命をやり取りした戦場での、死ぬまで決して忘れることなどできようも無い経験談を、どうしても若い人々に語り継がなければと思い立っての証言なのだろう。

歴史というものはそうした血の滴るような個別具体的な個々の経験の蓄積、その記憶の総体としてのテキストと言っても間違いでは無いだろう。
またこれは決して過去帳に封じられてしまったものなどではなく、国際関係、対外関係における諸問題においては常にビビットな色彩を帯びて蘇ってくるという特質を持つ。
若い人々は、2代前、3代前の事だから関係ないじゃん、と捉えがちのようだが、一歩国境を越えた時点で、そうした認識に留まることは許されないことに気づくだろう。

数日前、戦争を経験した数名の高齢者の俳優、そして若いタレントなどをキャスティングしたTV討論番組でのこと。

20代の若いあるタレントAが「僕等は学校でもほとんど戦争については教えられなかったし、周りにも戦争を語ってくれる人いない。だから知らないからと言って責められても困る」と迷惑そうに語る。
これに対して、海軍軍人上がりの俳優・神山繁氏は少し怒りの口調で「それは違う。いくらでもその気になれば勉強できる素材はあるだろう。無知かどうかはその人の姿勢1つで決まる」と諫める。

一方20代の若いタレントBは自己の体験から次のように語る。「海外に出た時に同年代の人と語ると、彼らは僕等よりよほど当時の日本のことについてよく知っている。自分のあまりの無知に恥じ入った」と。

海外との個人的な関係を取り結ぶのでも、経済関係を考えるにしても、歴史認識を背負わなければ、何事も為し得ないという現実にぶち当たるのはごく普通のこと。
つまり、現在のこの2010年という時点も、実は1930年代〜1945年の第二次世界大戦、あるいは日中戦争、15年戦争と、およびその結果の世界体制という大きなフレームワークの下で運営されていることは知っておきたい。

国連(国際連合、United Nations)とは、さまにそうしたものであり、ここに戦後レジームののフレームワークが集約されていると言っても良いだろう。
何となれば、国連の安全保障理事会の常任理事国は、アメリカ、ロシア、フランス、イギリス、中国の5か国。つまり第二次世界大戦の戦勝国である。

日本は常任理事国となることを目指して国際社会に強く働きかけているが、実現の見込みは全くもって難しいというのが大方の見方。
何のことはない、いかに大国であっても敗戦国であるという歴史に刻印されたものを抹消するわけにはいかないからだ。
それが現代社会における世界政治の現実というもの。

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こうした歴史と現実というものを受容せざるままに、今のグローバル社会を生きてくのは困難というのは理解していただけるだろう。
地政学上、日本という国は島国でありながらも富む国ということも幸いし、とかく日本の湿潤な大気の下に生きているだけで完結できてしまうという特異なお国柄を持つことからくる、無知の許容であるかもしれない。

何度も言うように、それは日本列島に留まっていることを前提とした無知蒙昧さ、国境を一歩出た途端に、恥じ入らざるを得なくなる限定的な思考のゆるさだろう。
鎖国状況下の江戸時代の生き方ならいざ知らず、誰しもが一瞬にして世界と繋がることのできる現代世界に生きる我らにとって、個 > 地域 > 国民国家(Nation)> 世界 という拡がりの中で思考の基準を打ち据えていかねば説得性など持ち得ない。

日本が世界史の中に誇るべきポジションを占めることができるとすれば、それはあくまでも日本の戦争責任を明確にし、その立場から来たるべき未来へとこの総括を普遍化することができた時だろう。

タイトルにした「戦後を生きるということ」という意識の在り様とは、戦争経験世代だけに課せられた思考のスタイルではなく、自分を含めた今を生きる人の1つの基本的な立脚点になるだろう。

これは決して皮相な思考というものではない。
そうした歴史に耐えられる思考であればこそ、未来への可能性をたぐり寄せることができる開かれたものであるということ。そうしてはじめて悲惨な歴史を乗り越えていくことに繋がる。

いつまでも蒙昧に「自虐史観」などと、歴史に真っ当に向かい合うことのできない、勇気のない欺瞞的な思考に留まっていれば、いよいよ未来は閉ざされ、日本人310万人、アジアにおける犠牲者2,000万人の魂は浮かばれない。
(続く)
あまり冗長にすべきでないと自覚しつつも、もう少し続けねばならないことをお許し頂きたい。

今年は政権交代後、初めての8.15を迎え、また「韓国併合100年」という区切りの年でもあり、恐らくは今後の日本の進むべき方向、あるいは一人の市民としてこの世界を生きていくためのよすがをどこに求めればよいのか、といったことは、均しく全ての人の共通の問題意識であると信ずるからである。
どんなことでも構いませんので、お気軽にコメントなどを !

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  • この時季、日本人が必ず考えなければいけない題材だとは思うのですが
    あまりに論点が広く漠然としていて(だから長くなるのでしょうか)
    読むのも大変、コメントを出すのはもっと大変です。
    映画の話、最近の若者の戦争感の話、日本のグローバル化の話、
    artisanさんの話したいことは何となく分かるのですが
    もう少し論点整理した方が良いかもしれません。
    読者のためにも。

  • 私は戦争のことをほとんど知らない側に属しています。
    国際社会の中での日本の立場を考える上で先の戦争を知らないというのはかなりのマイナスポイントになるだろうなと思いました。
    今からでも勉強してみようと思いました。
    (特に国際社会に出て行く予定はないですが。)
    戦争の記憶を風化させてはいけないという話はこの時期よく目にしていたのですが、じゃぁ具体的にどんなことがあったのかというところまで記載されているものは無かったように思います。
    海外の若い方たちはどういうスタンスで戦争のことを勉強されたのでしょうかねぇ。

  • 私の父方の祖母と 母方の祖父母は両極端です。
    ごくごく普通の主婦が戦火において苦労した事などを繰り返す祖母と
    私の前ではあの時代に付いては一切語らない祖父母です。
    そんな環境からも、人生の中で最も多感で輝けたはずの時代を
    戦争に奪われてしまったのだと感じる事がよくありました。
    海外の人達のお話がちらっとありましたが
    日本に暮らしているよりも海外に旅行に出たときの方が
    一次大戦、二次大戦関係の慰霊碑を多く見掛けます。
    ベルリンにアンネ・フランクの小さな記念館があったことは驚きました。
    陸続きで他民族が向き合って暮らしていく以上、
    知らぬ存ぜぬでは済まされないのかもしれません。
    そういう意味でも島国 日本は生温いと思います。

  • acanthogobius さん、気をつかわせてしまっているようで恐縮であります。
    タイトルがやや抽象的と言いますか、曖昧であったことから、そのようなイメージを与えてすまったかも知れません。
    あるいは説得性という側面からも、弱いということもあるでしょう。
    また前提的に、文体、文章が良くないということも否定しません。
    ただ、問題は論考の対象が「15年戦争」「太平洋戦争」に関わり、またその後の戦後世界体勢に深く関わることですので、難渋にならざるを得ない面があります。
    あるいはセンシティヴな領域に関わるという難しさがあることにもご理解いただなければなりません。
    いわゆる“賢明な人”、例え問題意識を持っていても、こうした領域のことは触れないという“自己保身”の人、めんどうくさくて“避けたいと考える”人といった風なのが標準なスタイルでしょう。しかし私は孤立覚悟であえてそこに切り込んでいるわけです。
    ストレートな物言いで“主張”するという手法であれば簡単で、acanthogobiusさんにも受けが良かったかも知れませんが、それでは届く対象も狭くならざるを得ません。
    普段縁のない、考えたくない、という人々に届けるために、説明がくどくなり、引用が多くなり、多角的な照射も避けがたい、という手法になるのも仕方がないということもあります。
    この後、さらにすこし哲学的なアプローチで論考を続けたいとも考えていますが、いずれにしてもacanthogobius さんの問題提起を受けて、より推敲し、できるだけ読みやすいものにしてご覧いただくようにしましょう。

  • ぽーるさん、続いてのコメント感謝です。
    >海外の若い方たちはどういうスタンスで戦争のことを勉強されたのでしょうか
    その国々によって様々なのでしょうね。
    欧州では近代史に限っても、度々国境が破られ、他国の支配を受けるという体験は多く、そうした環境に置かれた時、自らのアイデンティティーを確認するためには、依って立つ場所(地域、ネーション等)の歴史の獲得は必須の課題であったことでしょうね。
    アジアにおいては、その多くが日本の支配を受けたことで、愛憎相半ばする捉え方、あるいは憎悪をたぎらせる方、様々でしょうが、自己の立脚点を確認するためにも、歴史の対象化は必然だったでしょう。

  • サワノさん、コメントありがとう。
    ご家族、係累によっても受け取り方が様々なのですね。
    > ベルリンにアンネ・フランクの小さな記念館があった
    そうですか、知りませんでした。
    日本国内に尹東柱(朝鮮人詩人、治安維持法違反で逮捕、獄死)の記念館があるようなものですね。
    > 陸続きで他民族が向き合って暮らしていく以上、知らぬ存ぜぬでは済まされない
    私はEU統合というのは、ある種の奇跡だという思いで注目しているのですが、
    そのような意味で、鳩山前首相の東アジア共同体の企てには期待していたのですが‥‥。

  •  杣工房先代は終戦を祖父が工場をもっていた台湾で迎え、原爆後の広島に引き上げてきました。 満足に食べられず歯を悪くし、引き上げ者という立場は郷土でのその後の人生に影響を与え、常に戦争に対する恐怖を持ち続けていました。その見苦しいほどの怯えに僕は、戦争はいかん、という感覚を植え付けられた気がします。僕は戦争経験者ではありませんし、先代は戦争について多くを語りませんでしたが、父親の恐怖心はとてもリアルでした。
     よく戦争のことを知っている同世代の欧州人や、靖国について語る同世代の日本・韓国・朝鮮の人、リアルな感覚は生き続けられそうですし、リアルでない単なる知識は不自然で歪んだ感じを受けます。
     体験を伝えるものは、リアルでないと、活字であろうと映像であろうと直接向き合ってであろうと、リアルなものでないとイケナイと思います。

  • たいすけさん、ご尊父の著書では多くはありませんでしたが、確か台湾からの引き上げのことは書かれていたように思います。
    置かれた立場によって1945.08.15の捉え方が異なってくるのも当然です。
    「恐怖心」をもたらすものも(置かれた立場による)固有のものがあるでしょうから、類型的な想像で語ることもできませんね。
    事業の全てを畳んでの灰燼に帰した土地への帰国というのも、想像を絶するものがあったことでしょう。
    何事においてもそうですが、歴史的な事象を語り継ぐというのは大切なことであり、また難しいことでもありますね。
    それが命のやり取り、国土の奪い合いという戦争ともなれば、さらには第二次世界大戦というものが総力戦としての色合いを濃厚に持ってしまったことで、様々に解釈され、歪められ、あるいはきちんとした総括もできずに風化してしまっているというのは、当事者に留まらず、遺族、関係者にとっては忸怩たる思いが強いでことしょう。
    引き上げ時、学校に上がる年齢だったと思われるご尊父があまり語られないというのも、心のより深い傷を思わされます。

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