モノ作りに勤しむ、ということ
ボクの仕事は家具を作ることだ。
地元の家具屋からの依頼で制作するというスタイルからスタートし、やがて7~8年後からは専ら自身のプロパーなものを作るというスタイルに変え、今に至っている。
四半世紀もやっていれば、泰然自若とした振る舞いとは言えずとも、それなりに職人としての力も備わり、充実した日々を送っていると言えるだろう。
まぁ、しかしだからといって安泰な将来が待っているはずもなく、喰えない日々を送っている事も事実なのだが…。
ただ、どのようなスタイルに変わろうとも、家具を自らの手で作る、という姿勢は変わらないだろうし、あるいは変えようも無いだろう。
なぜこんな話しを始めたかと言えば、モノ作りに従事することは自分の性に合っているんだな、とあらためて思わされることがあったからだ。
年明け間もなくの頃、いくつかのプロジェクトが押し寄せ、それへの対応のための事務的作業が延々と続く、という環境に変わってしまっていた。
できるだけ工房に入るように考えてはいたものの、ほとんど加工はほったらかしで、打ち合わせやら、資材の調査、調達やらで追われ、帰宅すればドラフターに向かう、という日々が続いた。
もちろんこれらは家具制作を滞りなく進めるための下準備であるわけで、大切なプロセスなわけだが、職人的な資質を持ち、またそうしたスタンスを自負もしている者にとり、こうした現場から離れた作業というものは、身体にも変調を来したり、精神的なストレスを覚える、という風でもあった。
これは、今にして思えば、ということであり、自覚的では無かったのだが、最初の山を越え、工房に戻り、鉋を手にして木に向かえば、そうした変調もたちどころに消え失せ、春爛漫な気象も幸いしたのだろうが、心地よい時間を送れるようになってきた。
ここで、なるほど、自分は職人だったのだ、と気付かされ(当たり前のことなのだがね)、先述のストレスの原因が分かった次第である。
こうした職業的資質というものは、長年一筋に従事することで、その職業としての振る舞い、思考スタイル、身体の動き、それらがその人の心身に染みつき、自家薬籠中のものとして身に備わっていくものなののだろうと思う。
もちろん、これはあらゆる職業に共通する普遍的な事柄になるのだろうが、わけても職人的な領域においては、より強い性向と言えるかも知れない。
今の社会、カネで全ての価値が置き換わる時代にあっては、こうした職人的な職業は、決して安易なものではなく、ある種の覚悟を求められ、困難な人生を送らざるを得ない場合が多いことはその通りだが、人生の価値は、何もカネだけではないわけで、モノ作りに従事することから得られる人間的な喜びというものは、他の職業と較べても、決して賤業などではないことを教えてくれる。
さて、また明日から木に向かい、シュル、シュルッ、コリ、コリッ、と南京鉋が木とつぶやく音とともに、職人的生活が始まる。
ありがたいことに、これはルーティンワークではなく、自然有機物を相手とすることで、日々、新たな発見に満ち、その技法も更新されていくのである。

acanthogobius
2013-4-19(金) 13:17
Twitterの方は日々更新されているようでしたが
久しぶりに「工房通信悠悠」の文章に出会い、お元気そうで
安心いたしました。
そろそろTwitterの方をフォローするしかないかと思っていました。
Twitterだの、facebookだの、Lineだのと、最近ちょっとついて行けなくなりつつありますので。
artisan
2013-4-19(金) 22:40
acanthogobiusさん、ご心配をお掛けしました。
ありがとうございます。元気にしております。
SNSへの関わりですが、木工にとっても、人生にとっても、
必ずしも必須のツールでも無いので、
距離を置くというのも、賢い選択の1つです。
私もヘビーユーザーとはほど遠いヘタレです。
ボチボチいきましょう。