工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

春めいて‥‥、

工房裏の藪椿がほころび始めている。
春である。

春への胎動を知らせる節分が引きつれてきたものが〈大相撲・てんやわんやの八百長騒ぎ〉の突風だったわけだが、それもまたすぐれて日本的特異現象なのかも知れない。

日本の“国技”に関わる騒動ゆえの現象ということを言っているのではないよ。
日本社会の在り様の特異性、日本文化の特異性というところから考えて見たい、ということなんだ。

しっかし、ここまで動かすことのできない証拠、ケータイメールLogが露見したからには、相撲協会としても相応の覚悟が求められるだろうね。

TVモニターからは、相撲評論家なる面々のしぶちん顔が並び、「前代未聞」「またしても信じがたい不祥事」なとと、心にも無いようなことをしゃべくっていて、と、顔の後ろではベッとベロを出しているような感じで、ただ虚ろに響くだけ。

あんたたち専門家がこんな実態知らなかったなんて、誰が信じるというの?
ホントに知らないというのでは、知見も、取材力も、洞察力も、評論家としての基本的な資質に欠けることを自ら認めるに等しい。

ボクは悲運な状況の中にあって引退せざるを得なかった朝青龍、そして現役時代には彼と仲の良かったと言う、今もなお現役でふんばっている魁皇のファンだった。
つまり多くの人と共に、等し並に相撲を愛した者の一人。

しかし、過去何度か語ってきたように、この大相撲を日本固有のすばらしいスポーツで、「国技」だからとか、「品格」があるからとか、という理由で好きなわけではない。

そんな取って付けたような属性など無関係に、いわゆるマレビト、角力という存在そのものに体現される日本のある種の伝統的様式であったり、あるいはアジア的停滞、前近代性を纏い、今もなお輝きを失わずに存在する、相撲と、力士という、広い意味での“日本の伝統芸能”への愛着、といったものとでも言い表せばよいだろうか。
愛すべきものとしてのそれである。
これはしたがって、今回の八百長問題の露見があったとしても、恐らくは基底のところでは変わらないだろう。

その理由については昨年の野球賭博問題の時のBlogで縷々記述していた(「大相撲という名の前近代」12)ところなので、あえて繰り返しは避けたいと思うが、あらためて結論的なところだけ再論すれば、

「国技」といった定義は返上すべきであること。
つまり、《近代的概念としての「国家」》の庇護の下でぬくぬくと、あるいは相撲本来の「牙を抜かれ」た状態で、そこに在る、というのは相撲にとり、元々不健康な姿だということ。
本来の荒ぶる魂の本義に帰り、相撲道を貫く興業団体として再定義、再組織化してもらうことで、復活を果たしてもらいたいと思う。
(現段階で、既に関係者から「協会解散」にまで言及されていることを前提として考えれば‥‥)

したがって、いったん潔くNHKの放映とか、公益法人格とかは返上する。
そうした再定義の下で、国民的合意が果たされれば、あらためて再組織化された下で、相撲の興業をすれば良いだろうし、必要と認めればプロレスなどと同様に放映すれば良いだろう。

加えて、こうした問題というのは、相撲協会の問題とか、所轄官庁・文科省の責任問題とか言うだけではなく、ボクも含めてだが、ファン、さらには市民一人ひとりの大相撲への眼差しの在り様が問われている、ということだと思う。

日本という特異なお国柄にあって、力士、相撲というものに、やたらとくだらない「品格」を求めたり、つまらない「市民的常識」を求めるという、おぼっちゃま、おじょうちゃま的発想を考え直すことが重要なんじゃないの?
もっと大人になりましょう。

近年の相撲にあっては、あの朝青龍のような爆発的な強さがあってはじめて本来の意味における角力としての魅力が発露されるのであって、がんじがらめに中途半端な市民社会的「品格」を求めることで、ふぬけにされ、外部からの悪の誘惑に染まりやすくなっていくという要素もあるだろう。

今日のボクの所見については、恐らくは多くの人に違和感を抱かせるだろうことは重々承知しているつもり。
しかし、圧倒的な少数派が、常に間違っているとは限らない、というのも実は民主主義の基本原則であることも付け加えておこう。

さて、この大相撲八百長問題で塗りつぶされていた今日の夕刊の片隅に「ノーベル平和賞候補・ウィキリークス推薦」という記事がきていたことにお気づきだろうか。

ノルウェー国会議員のスノーレ・バレン氏はWikiLeaksについて、「21世紀において、言論の自由と透明性に最も重要な貢献を果たしている団体の1つだ」と指摘している。

 「汚職や人権侵害、戦争犯罪に関する情報を公開しているWikiLeaksがノーベル平和賞の候補になるのは当然だ」と同議員。(ITmedia

何が言いたいかというと‥‥、
「言論の自由と透明性」への高い評価というのは、言うまでもなく近代的概念を構成する重要な要件の1つ。
「ノーベル平和賞」選考委員会に深く関わる[1] ノルウェーの国会議員が、そうした価値観にもとづき、推薦したわけだ。

一方、数日前のこのBlogで、WikiLeaks代表のジュリアン・アサンジ氏を肯定的に捉えたことへは違和感を持たれた読者も多いはず。(TAD講演でのジュリアン・アサンジ

このように日本的平均像としては、ノーベル平和賞に値すると推薦される人であるにも関わらず、悪印象を持ってしまい、一方、相撲界へは、やたらと「近代的価値概念」を求めたがる、という、この股ざきをいったいどのように解釈し、裁くのか、というところに、この問題の本質があるように思えてならない。

でもまぁ、日本近代における特異で様々な跛行というものを、こうした問題を通して学習できる機会を与えてくれたと思えば、八百長に手を染めた力士に対し、ちょっと後ろを向いて、小さな拍手を送ってやっても良いかも知れない。
その代償はあまりに大きなものになりそうではあるのだが‥‥、

彼ら力士だけの問題では無く、そうしたものを包摂しつつ日々蠢いているというのが、俺たちのNIPPONというわけなのだから‥‥。
ドスコイ !!

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❖ 脚注
  1. 「ノーベル平和賞」の選考はノルウェー国会が任命する政治的に独立した機関であるノルウェー・ノーベル委員会(5人)が行う []
                   
    

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