工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

東日本大震災・災害ボランティア活動日録(余録)

災害ボランティア活動日録を終えて

これまで10回にわたり、石巻での緊急災害ボランティア活動・日録を綴ってきた。
3.11から2ヶ月も経過した頃にやっと終えるという、実にのろまな更新だった。

記述してきた日録だが、これらはいずれも現地の状況を総覧するものではあり得ず、ボクたちが辿ってきた、点、あるいは線としての極私的で断片的な記録でしかない。

また数枚の画像も添付してきたが、壊滅的という表現に何のためらいもない、この世のものとも思えぬ過酷な状況というものは、数葉の写真で伝えきれているわけでもない。
むしろ、その程度だったの、との受容のされかたの方こそ怖れる。
探せば他にもいくらでもネタ的な被写体もあっただろうが、残念ながら取材が主たる目的でもなく、ボランティア活動への往復の途上などで車上から捉えた断片でしかない。

しかし1枚の写真よりも、一編の優れたルポよりも、この目で捉えた被災地の生々しい現況ほど真に迫り来るものはなかった。
メディアが伝えるものは、やはりいつも媒介としての限界があり、自らの足で、自らの目で、あるいは自らヘドロに触れることでしか近接できないこともある。

とりわけ、被災者の壮絶な体験、極限的な哀しみと苦悩、これらは被災地に降り立ち、彼らに接してはじめて見えてくる。
数10万人の被災者、ひとり一人が体験した物語、抱え込んでしまった物語というものは、やはり個別具体的であり、例えば泥搔き作業を共有しなければ、その一端に触れることもできないというのも事実なのだ。

ボランティアに対しては偽善であるとか、自己満足であるとか、様々な視座からの評価があり得て良いと思う。とりあえずはあえて抗弁すまいと思う。

しかし、以下のことははっきりとさせておこう。
被災地が被った受難、一人ひとりにとっては全く瑕疵の覚えなど無い、この我らが生きる星、地球の震えによって一瞬のうちに生命を奪われ、あるいは紙一重で救われた人であっても、その後の人生設計に大きな困難を抱えてしまうという壮絶な受難。
これらは個としての受難であるにとどまらず、その地域的広域性からして、さらにはいつ終息を迎えるとも全く予測の付かない、まさに無限的で大規模な共同体総体への受難であることが明らか。

石巻市街

石巻市街

この受難は、彼らと均しく共同体の一員であるボクたちは、例えその一部であっても直接的に引き受けてやろうというのが、あり得べき最低限の倫理の示し方であったろう。
少なくともボクはそうしたものに駆られて起ち上がった。
それなくしては、その後の自分の人生は無いかも知れない、との強い危機意識とともに。

様々なところから、様々な機関が、様々な人々がボランティアに起ち上がり、そして誰もが見ず知らずの人たちへ利他主義的に義援金を寄せ、支援物資を送り届けようと奮闘しているが、そうした「災害のユートピア」の一員としての活動であったということである。

『災害ユートピア―なぜそのとき特別な共同体が立ち上るのか』という書を読み進めている。

不幸のどん底にありながら、人は困っている人に手を差し伸べる。人々は喜々として自分のやれることに精を出す。見ず知らずの人間に食事や寝場所を与える。知らぬ間に話し合いのフォーラムができる…。なぜその“楽園”が日常に生かされることはないのか?大爆発、大地震、大洪水、巨大なテロ―いつもそこにはユートピアが出現した。『ニューヨークタイムス』2009年度の注目すべき本に選出(amazon.com・商品説明より)

この度の東日本大震災においても、被災地では略奪とレイプが起こっているので注意しろ、などとのネガティブな情報も振りまかれていた。
そうした無法でパニック状態が起きているという話しというものは、実はタメにする噂でしか無い。
こうした通念の多くは、支配の秩序を脅かし暴動を怖れる権力側からメディアを介してもたらされることがほとんど。

実際は災害を機として被害者間には相互扶助的な新たな共同体が育まれていく。
事実、この2ヶ月間というものは、被災者たちはどこかの首長が「日本人は津波をうまく利用して我欲を1回洗い落とす必要がある。やっぱり天罰だと思う」という薄汚れた精神とは真逆に、エゴは捨て、自分をさておいても、他の被災者たちを優先させ、秩序正しく自治を起ち上げ、自治体などからの支援の手が届かない段階で既に自主的で有機的な支援活動が行われている、ということなどは、この度の大震災による各地の被災地で見られ、世界から高い評価が届いていることは知っての通り。

かつて、関東大震災においては風評、フレームアップによって朝鮮人の大量虐殺が行われたという負の歴史を負うボクたちだが、少しは学習してきているのだなと思ったほど。

確かに大震災直後の生活物資の買い占めなどは、ボクたちの支援物資調達過程でも苦々しい体験として暗い記憶が刻まれてしまったが、それらの多くは被災地とは関係のない地域でのこと。
その後の様々な全国的に澎湃としてわき起こった肯定的な支援活動というものは、多くの人々が“略奪とレイプ”という噂の方ではなく、相互扶助的な共同体への希望の方を信じたからに他ならない。

特に若い方々の軽いフットワークでの現地への支援活動には、力強さと、未来への希望を感じさせてくれ、ボクのような世代にもとても勇気を与えてくれていると感じる。

支援活動はまだその緒に就いたばかりというのが実態だろう。
こと、この問題にあっては“日々に疎し”であってはいけない。
継続的な支援活動へ向け、智恵を働かしてきたいと思う。

ところで、阪神淡路大震災では、2ヶ月も経つ頃には復興への槌音があちこちで響くという状況を見せていたというが、この東日本大震災では未だに復興へ向けてのグランドデザインも定かならず、また一方、現地から伝えられる映像からは未だに膨大な物量の瓦礫が減る様子は伺えない。

そして何よりもフクシマ状況である。
東電、政府の復旧へのロードマップとは裏腹で、より深刻さを増していることに象徴される(今日の報道でも、東電は福島第一原発、1号機はメルトダウンし、燃料棒は体を成しておらず、圧力容器の底部にたまっていることを認めた←初期段階、03/12、水素爆発段階前後で既に起きていたのだろう:「福島1号機 燃料完全露出し溶融か」)ように、二月という時間経過は、危機が緩和し、復興へと本格的に歩み出したというにはほど遠く、いまだトンネルの先の灯りは見えていない情勢というものは、全ての思考を停止させかねず、ほとほと困惑するばかりである。

求められているのは、こうした事実をしかと見届け、「唯一の被爆国」であったはずの日本自らが、世界に放射線で汚染された大気と海水をばらまき、核エネルギーの怖ろしさを知らしめてしまったという笑えないパラドクスの責めを負うこと。
同時に、放射線管理区域でもない、こどもたちが遊び興じる場所の放射線量を、違法な「年間20ミリシーベルト」とする内閣府原子力安全委員会というものをボクたちは容認し、類としての生命の再生と継承への冒涜を見過ごして良いのか、といったことへの判断から逃げてはならないということだろう。

「東日本大震災・災害ボランティア活動日録」はこれをもっていったん終わりとしたい。
この企みに寄せられた支援と励ましに、あらためて感謝を述べさせていただきたい。

今後も折に触れ、被災者へ寄り添うところからの記事、あるいはこの災害から何を学び、どのようなパラダイムを描くべきなのか、共に考えていけるような記事を上げていければと考えている。

ありがとうございました。

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  • 「活動日録」ご苦労様でした。
    前にも少し書きましたが、今この時期、全部を読むことができませんでした。
    この「日録」を1年後、2年後、そして10年後と再度公表していただくことを希望します。
    そのころの公表のツールがどのように変化しているのか分かりませんが
    少なくとも今よりはインパクトのある物になるに違いないと思います。

    • 日録の文体ですが、あえてハイテンションな調子は避け、淡々と記したつもりです。
      もちろん、その前に描写力、文章力の稚拙さは否定しがたいものがありますが (笑)

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