工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

《七世代先を見て決定する》

3.11以降、考えるところがあり、いろいろと本を取り寄せ読み進めているが、今日、あらたにそこに加えねばと思う本に出会う。

出会うといってもBlogサーフィンから見つけたもので、背表紙裏の一文というものに惹き付けられた。(しかもBlog著者の孫引き)

その本は『野生哲学──アメリカ・インディアンに学ぶ』 (講談社現代新書)〈管啓次郎、小池桂一 共著〉という。

* 七世代先を見て決定する *

 部族の会議が開かれるたび、人々はまず自分たちの義務を次のような言葉で誓いあうのだった。
「何事を取り決めるにあたっても、われわれの決定が以後の七世代にわたっておよぼすことになる影響をよく考えなくてはならない」と。
ある決議事項をめぐって自分が投票するなら、その票は自分だけではなく、まだ生まれていない者たちも含めて、以後の七世代のための一票なのだ。
ざっと見て、百五十年から二百年。そんな遠い未来の子にまで、いくつもの世代を超えて、いま決められたこのことは、影響を与えつづけるのだから。(本文より)


3.11以降、「未来の他者」「まだ見ぬ新しい人」という概念で考えることの重要性について何度か語ってきたように思うが、こうした概念というものが、実は既にアメリカ・インディアンの部族内では当たり前のように共通認識にあるということに気づかされる。

インディアンの言葉としては「Today is a good day to die. 」(今日は、死ぬにはいい日だ)ぐらいしか知らなかったが、この「七世代先を見て決定する」というのは実に遠大で、哲学的な思考だな。
昨今「サスティナブル」「持続可能性」などのキーワードが広く認知されてきているようだが、何のことはない、アメリカ、インディアンの部族では当たり前に大昔からの認識だったと言うこと。

2001.9.11以降、近代というものへの懐疑が様々に語られてきているわけだが、実は非近代の社会を生きる彼らから学ぶことはとても大きいものがあるように思う。
「フクシマ」を巡っても「豊かさの選択」としての原発というものの帰結を見てしまった今、あらためて「ここまできてしまった我々の社会」を考えるとき、比較社会人類学へのアプローチも欠かせない分野であることも確かだろう。

ところで、孫引きさせてもらったこのBlogとは、昨年春ころから著書を読んだり、Blog RSSをチェックしている宮地尚子さんのもの。(こちらがWebサイト
彼女は「文化精神医学」の気鋭の学者だが、トラウマと文化・社会、ジェンダー・セクシュアリティ論、生命倫理と幅広く、臨床から学術研究まで精力的に活動している。

最初に知ったのは昨年3月、朝日新聞のあるコラムだった。
素敵な写真とともにエッセーが掲載されていた。
その写真も彼女自身のものであったので、さらに興味を抱き、書を求めるという具合の展開だった。散文も優れていた。『傷を愛せるか』

* 人の価値が下がる時代 張りつく薄い寂しさ *

電車が止まり、人身事故という放送が入る。
声にならないため息とともに、携帯にメールがうちこまれていく。
今どのあたりか窓の外を見ようとしても、疲れた顔が並んで反射するだけ。
人身事故という放送に驚きと憐れみを示した時代から、苛立ちに舌打ちする時代へ。
やがてそのことへの良心の呵責も消え、もはや諦めが覆い、車内には薄い寂しさが漂う。
吊り広告に目をやれば、「使える人になれ!」とビジネス社会サバイバル術の文字が躍る。
自分が「使えない人」だとみなされて、万が一線路に身を投げたとしても、ため息をつかれるだけの存在だということをかみしめる。

*     *     *

剥がしても剥がしても張りついてくる薄い寂しさのようなものを、私たちは今抱えている気がする。人の価値が下がっている。
デフレで物の値段が下がる。
物を作り、運び、売る人たちの価値が値切られる。
コンピューターや機械でできる仕事なら、速さや確実さ、疲れの知らなさ、ストレスの感じなさに、人は太刀打ちできない。
残るのは機械でできない仕事だが、それが「人間らしい」仕事だとは限らない。
コールセンターがいい例だろう。
勧誘や苦情のやりとりが、匿名性の中で棘を増す。
もちろん、ネットで価格を比較して良い物を安く買ったり、無料サービスを手に入れたりすることは、消費者の「賢さ」である。
電話やメールでの勧誘にのらず詐欺に遭わないためには、そっけなく切ること、返事さえせずスルーする
(流してやり過ごす)ことも、子どもたちに教えるべき「知恵」かもしれない。
けれどもその分、私たちは自分も安く値切られ、スルーされることを予測せざるを得なくなっている。
そのことに傷ついたりストレスを感じたりする人は、よくて「敏感」、悪けれは機械に負ける「弱い人」となる。
効率化の波は、高度な知的作業に携わる人たち、「できて当たり前」と自他共に認める人たちにまで、押し寄せている。
「できる人」ほど自分が「使えない人」になることへの不安は強い。
優秀な人は「がんばりや」であることが多いが、処理すべき情報や通信量の増加は、がんばる人にほどのしかかる。
優秀だからこそ「よい人」でありたいと思う人も多いが、人の痛みへの共感は、自分をも傷つけかねない。
頭を使い、心を込め、気を配り続けることは、脳神経系の「体力」を激しく消耗する。
肉体の過労はわかりやすいが、頭や心の過労は見えにくい。
肉体は動きを止めれば休養できるが、頭や心は職場を出てもすぐにスイッチを切れない。
*     *     *

「がんばれば報われる」ことを疑い、よい人であることをやめたとき、薄い寂しさが襲う。
それを剥がそうと、さらに仕事を増やし、頻繁にメールを送り合い、アルコールに頭や心を麻痺させる。
自他の痛みに鈍くあれという時代の流れをさらに加速してしまうことに、どこかで気づきながら。
薄い寂しさは、できたてのかさぶたのように、剥がしても剥がしても、微細な出血の上に、また張りついてくる。
いっそのこと、剥がさずにこらえてみれば、いつかポロッと落ちて、血色のよい健康な肌が顔を出すのだろうか。
そこに人がただ生きてあることの価値はみえてくるだろうか。

2010.3.17<朝日新聞・夕刊

この一文の後の、3.11。これを受けての彼女の思考のプロセスは、Blogから少しのぞき見ることができる。

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  • なかなか深い、そして、静かな告発、と感じました。

    • kokoniさん、2つの書と、エッセーを取り上げましたのでやや拡散した嫌いがあるかも知れませんね。
      kokoniさんのコメントがどちらへのものかはともかく、いずれも「深く」、批評性豊かな言葉です。

      宮地尚子さんのエッセーを読んだときの興奮は、今も鮮やかです。
      精神科のドクターという職業は、とても過酷だと想像します。
      患者の人生を背負うわけですからね。
      私には到底考えられません。

  • “電車が止まった”方ですね。

    • kokoniさん居住地域の鉄道沿線では人身事故(その多くが飛び込みによるものとみられる)も多いようですので、似たような経験がおありかもしれません。
      宮地さん、写真もとても良いので、機会があればぜひ。

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