工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

鉋掛けの技量とは(追補)

Workbench2
昨夜記事を上げてしまってから、たいへんな内容の記事を上げてしまったな、と我ながら腰が引けてしまっていた。怖れを知らぬ未熟者め ! というワケだ。
木工においてその世界観の重要な位置を占める鉋掛けに関わる話しを、一片の短い文章で論じようという神をも恐れぬ暴挙と知らしめられたからだ。
さらに加えて今朝受信したメールトレイには、若い木工家から異論を含む感想が届けられていた。
これもとても示唆に富む内容の長文のものであり、ボクの足らずを補って余りあるものでもあった。
Blogコメントに投稿いただくことで公開されるのが良いと思われる内容のものだが、しかしBlogというある種の特有のメディアが持つバイアスを嫌い、筆者に直接届けるという方法を取るというのは、理解できないわけではない。
この「工房通信 悠悠」は、開かれた自由な空間として設置している積もりではあっても、長く運営してくる中で、やはりある種の傾向を帯びたものとして認識されてしまうということから免れない。
アクセスログの数に比し、コメント投稿の少なさがこれを物語っている。
現在の日本社会のある種の閉塞感、批評精神の低落傾向、すべからず軽薄なノリでの射程の短い言説の方を持ち上げるという傾向の反映というものもあるのかもしれない。
しかしいずれにしろこうしたことも含め自戒としたい。
さて、届けてくれた鉋掛けに関わる話しに直接的に応えるものにはならないかも知れないが、昨日の記事のある部分をもう少し丁寧に、かつ補強するべく、論考を続けてみたい。


補強すべき内容とは主要には
>鉋の種類と同じ数ほどの技量が必要とされるというのではなく、極論すればたった1つの技量があれば十分なのである。
という段落の個所になる。
さらにまた鉋掛けという木工職人にとってはフツウの当たり前の技量というものの意味するところについても少し考えていく。
いずれも昨日の論考では結語しか示さず、その論拠についての検討が不十分だったことによる。
多くの木工家にはお分かりいただけていると思うが、あらかじめお断りしておかねばならないが、昨日からの論考は必ずしも鉋掛けの技法に関わる情報を明かそうという試みではない。あくまでも鉋を使用するに当たっての基本となる構え方、臨み方(考え方)を考えてみようという試みに過ぎない。
なお、このエントリをしてもなお、不十分のそしりを受けることだろう。
わずかに数回のエントリで論じ尽くすことが可能などと考えること自体、木工における神(というものがあるとするならば、これ)を冒涜するものであるだろうから。(予防線を張っているわけではないよ)
メールで届けてくれた若い木工家の作風、あるいは木工への思考については当人が運営しているWebサイトで拝見したが、真摯に木工に取り組む姿勢が伺えるし、技法においても確かなところが読み取れる。
作品の品質も相当高いものと感得させられた。
ボクが評価するのでは説得性が無いかも知れないが、今後キャリアを積むことで、より洗練された表現の在り方というものを見出す力を秘めていると見た。
つまり頂いたメールは、まずはそうした嘱望される人物からのものとして対峙させられたということをまず明らかにしておきたい。
我々木工家であったり、家具職人という生業の方たちへの評価基準というものは
、やはり何を置いても作品のクオリティーであり、そこから醸し出される作家の人間性である。
力のある作風を見せられれば、自ずから姿勢を正して対峙させられるというのが作者への敬意の表し方であろう。
ここには年齢差という属性などは基本的には関係しない。
さてこのメール氏の意見というのは、大筋では拙論に同意いただいているようなのだが上述の“極論”への違和感が記されているものだった。
これをいくつかの論拠、誰も知るような著名な木工家が残した言葉を引用しつつ、示唆に富む考え方を示してくれていた。
確かに平鉋とその他の台鉋とは、その構造も、目的とする切削形状も異なることは言うまでもない。
しかし、あえて「鉋の種類と同じ数ほどの技量が必要とされるというのではない」と論じたのには、ボクなりの計算と論拠がある。
メール氏は言う「鉋(平鉋)なんてものは機械や」と、ある著名な木工家から言われたと。
つまりある水準で仕込まれ、研ぎ上げられた鉋を持ってすれば、誰でも平滑に削れるものだ、ということである。
これを他の反台、南京鉋などの難しさと対置させて述べているのである。
これを反論する必要は、さしあたっては無いだろう。著名な木工家の話しだからというのではなく、無名の練達した職人であれば誰しも同様なことを放言しても何ら不思議ではない。
しかしボクが述べたのは“極論”と明記しているように、その鉋を扱う上での基本においてはあまり変わるものではないということを示した。
確かに平鉋を操作する時と、反台などの場合とでは、手の動き、腰の動き、あるいはこれらを司る頭脳の働きも微妙に異なっているのは当然だろう。
しかし、被切削材と鉋の刃口をピタッと合わせ、台鉋の特性である台の形状をその目的とする被切削材の形状を削り出すための定規として委ね、作業者の意識を刃口の1点に集中し、また被切削材の細胞の配列を瞬時に読み取り、これらの情報に適応させながら削り進める、という一連の作業というものは、“極論”するならば台鉋の形状が異なれども、基本的には同一のものであると、あえて言ってしまったのである。
昨日も記したように、平鉋が上手なのに、反台がどうも上手くないというのは、実は平鉋が上手というのも、反台が苦手、という程度の水準における上手さに過ぎないと考えたのだ。
しかしまたメール氏の意見はまったく肯けるものであるし、反論するようなものではないだろう。ボクの“極論”が論拠不十分なまま記事にしたことの隘路への指摘である。
これは理論的に掘り下げるとなると、様々な視点が提起される領域の問題かも知れない。
ただボクなどのように、木工修行の初期段階から様々な台鉋を修得してきた者からすれば、“極論”が当たり前で、そうではなく、平鉋だけを取り扱ってきた木工職人が、ある時反台を与えられて使いこなせと言われれば、確かに戸惑いが大きく、あまりの不甲斐なさに、自己嫌悪に落ちることがあるかもしれない。
しかしボクの“極論”からすれば、その反台、固有のフィーリングを掴めば、たちまちにして練達の反台鉋の使い手に変身するだろう。
それでも駄目な職人は、実はやはり平鉋の腕の方も、相応の手練れでしかないと言われるようであっても仕方のないことだろう。
さて、ところで鉋であるが、これを使いこなすにはただ鉋を操作する腕の技だけに要諦があるだけではない。
むしろ鉋を仕込み、これを研ぎ上げる段階の方が重要。
昨日冒頭に上げたうちのアシスタントの腕が良くないというのは、大抵は鉋の台が削れる台では無いことに理由があることが多い。
先日も平鉋の台の刃口の部分の外側をちょっとノミで落としてやり、余分な摩擦抵抗を除去してやった途端に良いフィーリングになった。
やはり木工職という分野の技法というのも一朝一夕には成らず、良い指導者から伝授され、日々様々な材種と対峙し、来る日も来る日も板を削り、削れねば、その問題を克服すべく研究し、修正に修正を重ね、時には間違いを起こし、これに気付かされ、さらに研鑽を積む、というあきれるほどの月日の積み重ねでしか体得することのできない修練の技であるということから逃れることのできない世界のものなのである。
それらが体得できた暁には、昨日後段で述べたように、サンダーで平滑性を出そうとか、あるいは曲面を反台ではなくエッジサンダーなどに任せるなどという暴挙を考えることはまずあり得なくなるだろうし、サンダーでは決して導き出すことの出来ない自らの手で削り上げたことによる切削面形状の確かさと木質の固有の表情の輝きというものは、熟練した木工職人の鍛え上げられ腕と手業の確かさの証しであり、木工における真髄の1つでもあるだろう。
最後にあらためてメール氏の意見(平鉋とその他の台鉋のフィーリングの違い)と“極論”とを対比すれば、いわば切り口の違いによる視点の異なりであることを理解いただけたらと思う。
上述したようにやや不十分な展開で誤解を抱かれるものであったことは詫びておきたい。
このようにさらに少しは論考も深められたかもしれず、その点においても指摘いただいたことに感謝を申し述べておきたい。
なお、「反り返った板を削るには、ちょっとしたコツ」ということへのメール氏の想定も、全くその通りであることをここで明かしておきたい。
いずれ詳しく論じる時もくると思うので、暫しお待ちいただければと思う。

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