工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

エルサレムと秋葉原から、

昨日、エルサレム中心街で東エルサレム在住のパレスチナ人若者による大型ブルトーザーでのバス、乗用車への攻撃で数十名の重軽傷者、3人の死者が出るという事件があった。
暴走中に市民に射殺されたこのパレスチナ人にどのような意図、政治的背景などがあったかはまだ不明のようだが、イスラエルによる東エルサレムへの不当な占領への攻撃テロ事件であることは容易に想像できる。(AFP BB News
この報を聞いて脳裏をよぎったのが秋葉原でのトラック暴走とナイフによる歩行者への殺傷事件だ。
国も違えば、その政治的、社会的背景も違い、何よりも犯行当事者のその目的は異なるだろうから、安易なアナロジーはできるわけがないが、しかしその犯行態様の相似だけではなく、現代世界における困難な問題を浮き彫りにしているというところにおいて、通底するところが全くないとは言えないだろうと感じてしまう。


明らかな違いを挙げればエルサレムでは犯行現場で複数の市民からの射撃で殺害され、一方の秋葉原では加藤智大は警察官に取り押さえられ、現在はどこかの警察署に拘留され、裁判を待つ身となっているというところか。
根拠があるわけではないが、加藤智大はもしかしたら、エルサレムでのように現場での射殺を望んでいたのかもしれない。
自暴自棄の様相を色濃く見せた犯行態様を考えれば、この者が幼少の頃から現在に至るまでかなりコンピューターゲーム機に親しみ、仮想世界での欲望成就というものに拘泥していたことも伺え、数日前に取り上げた藤原新也氏の「無理心中」論と合わせ考えれば、これは決してあり得ない推論ではないだろう。
一部週刊誌では加藤智大の犯行を伝える誌面で、派遣会社に登録される若者は犯罪予備軍、悪の巣窟のような断罪が為されてもいるようだ。
いかに許し難い犯行であるとはいえ、派遣労働者を丸ごと悪人であるかの如き論調は週刊誌ジャーナリズムもとうとうここまできたかという悲しみを覚える。
加藤智大の犯行への怒りと哀しみに加えて、メディアの荒廃を嗚咽で迎えるしかないという、この寒々とした光景を見るに付け実にいたたまれなくなる。
恐らくは一方での昨日のエルサレムでのテロに対するイスラエルでの主要な論調も同様なものなのであろうと思う。
しかし加藤とともに同じ時代を生き、同じ空気に包まれているボクたち市民としては、加藤のような人物を生んでしまっているこの日本の風景を見たとき、彼が個別の様々な困難な問題を抱えていることだけでこの事件を十全に解釈できるものではないことだけは明らかだ。
これまでも多くの識者、言論人がが派遣労働の問題を指摘してきたにもかかわらず「規制緩和」「痛みを伴う構造改革」「自己責任」といった嵐のような同調圧力に負かされてきていたのが、桝添厚労相でさえもこの事件を受けて、派遣法の見直しに言及し「日雇い派遣禁止」を検討せざるを得なくなるほどまでに、この派遣という労働現場における極限的な酷使の状況というものが蔓延しているのだということに視点を据えねばならないことに思い至るのだ。
日本企業は今般の原油高騰によるリセッション以前では空前の長期好況にあったと言われるが、その実態はと言えば、トヨタ、キャノンなどの世界的規模での一部の製造業の押し上げによるものであることは周知のことで、そうした空前の好況とは加藤智大ら派遣による過酷な労働環境によって下支えされているというのも明らかなこと。
しかもこれはトヨタ、キャノンという個別企業の問題ではなく、この経営者らにより構成されている経団連の経営指針に派遣業というものが構造的に組み込まれており、これらは2004年を転機とする製造業への派遣の緩和を打ち出した小泉政権、そして安倍政権下において規制緩和の名の下に強行されたことを思い返すなら、秋葉原のあの事件に象徴される現代日本の光景とは、ボクたちが「純ちゃ〜ん」と喝采を上げたあの時に既にここへの道筋を用意してきてしまったとも言えるのではないだろうか。
こうした労働関連法規の改悪に留まらず、今や社会保障関連費の抑制、保険業の規制緩和(+生保の未払い事件)、医療保険、ガン保険のアメリカ型システムへの改変と伸張などとして、既存のシステムは大きく破壊されてしまっている
新自由主義という名の冷酷な資本主義へとシフトした米国へ無批判に追従し、一周遅れのトップランナーとして既存の労使関係をずたずたに引き裂き、労働者、市民の生きる権利さえ奪ってしまう派遣法の行き着く先が、まともな生活すら奪われる雇用環境であり、ぎすぎすした冷酷な社会環境、地域の崩壊、若者たちの荒廃であり、そして秋葉原のあの事件であることも明らかなこと。
加藤智大は秋葉原の地において暴発することで名を留めたが、無数の若者が抑圧の海に沈み込まれんとしているように思えてならない。
今ここで本当にこれまでのボクたちの選択が正しかったのか考えてみるのでなければ、加藤智大の手によって殺害された7名の魂は浮かばれないだろう。
エルサレムの地で放たれたテロの刃も、アキバの事件も、いったい社会の公正さとは何であり、経済の公正さとは何であるのかを強くボクたちに問いかけているように思えてならない。

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