工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

IKEA撤退の頃

IKEAという家具ショップを知ったのは80年代初頭の頃だったか。
つまりまだボクは家具職人になろうなどとは思いもしなかった頃のこと。
船橋の湾岸に面した広大な敷地にできた商業施設、「船橋ららぽーと」に大規模に展開していたので、ちょっとおもしろそうだね、と言った感覚で出掛けたのだと思う。
当時はただの客でしかなかったので客観的な評価など出来るはずもないが、あきれるほどの品揃えと品質、その価格にはただただ圧倒されたことは覚えている。
帰りには椅子を1つと、ラグ、ガラス食器など小物をいくつかぶら下げていたはず。
しかしその後間もなく知らぬ間に撤退してしまっていた(1986年)。
ボクはちょうどこの頃から家具職人への歩みを始めたのだったが、その修業先・松本から上京した機会に真っ先に訪れたのは新宿三丁目交差点に出来たばかりの「アクタス新宿店」だった。
その当時はこのアクタスがIKEA撤退を機に設立されたという関係にあったことなど知らなかった。
IKEA撤退後にこの従業員がまるごと移行して設立されたのがアクタスだったことを知ったのはこの世界に入ってからだった。
この「アクタス新宿店」は世界の家具の名作揃いで目を見張るものだった。
当時はミネビアという会社が展開していた青山通りに面した家具ギャラリー(名前は忘れた)でしか見ることの出来なかった北欧の名作が、このアクタス新宿店には惜しげもなくそこかしこに置かれ、家具職人の卵でしかなかったボクには根拠もないのに家具制作への夢を掻き立てるに十分な商業空間だった。
新宿三丁目交差点に繋がる道から少し低い位置に当たるファサードからは、大きな開口部を持つ窓ガラスを通してピーコックチェアが見えたし、2階にはスパニッシュチェアもフィン・ユール、イージーチェアもさりげなく置かれていた。
バブル以降は珍しくもないものであるも知れないが、当時にしてはまさにハイセンスでエグゼクティヴな空間を演出してくれていた。
しかしその後この店舗からはデザイナーブランドが徐々に消えて行き、こうした夢空間からマーケティング優先の現実路線へと大きくシフトしていったようであるが、これもバブルが弾けて世の中全体がうつむき加減になっていた時代相からすれば必然であったのかも知れない。
残念だが今に至れば訪れることも無くなってしまった。
そして2006年、あらためて日本進出を図ったのがIKEAだった。

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  • おはようございます。
    ごぶさたしています。
    1983年信州原村に暮らしていた頃、生まれて初めて首都高速を通って何とか「船橋ららぽーと」にたどり着きパインの丸脚の小さな椅子を買いました。
    帰りに築地でお寿司も食べました。
    懐かしい思い出が蘇えりました。
    あの頃は木工に関する雑誌や情報なんて殆どなかったですね。自信のバイブルはS57年に発刊された《KAKIのウッドワーキング》です。
    その柿谷誠さんも3年前に永眠されました。
    何時も有用なブログありがとうございます。

  • ぴあんさん、今晩は。
    信州に在住されていたのですか。
    確かあの頃の中央高速は、南諏訪までの開通でしたかね。
    《KAKIのウッドワーキング》、確かにその頃の発刊でしたね。
    残念なことに著者は亡くなりましたが、弟さん達が元気に引き継がれていらっしゃるものと思います。

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