工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

年の瀬に その2


2011年も数時間で終わりを告げ、間もなく新年がスタートする。

思い起こせば様々な事柄が走馬燈のように蘇る。
今年はいろんなことがあった。
いろんな人と出会い、語り、共に働き、共に活動し、ともに笑った。

木工活動においても、新たな木工家との出会いと協働作業もあったし、小海町高原美術館を舞台にした活動も楽しいものだったし、新たな顧客との出会いも創造性を刺激させるものだった。

そしてそれまでにない領域での活動も特徴的なことだった。
3.11から旬日後、騒然たる雰囲気と思考停止の闇をぶち破り、払暁を探すために、他の二人の仲間とともに石巻へと旅立ったのは、自分自身“想定外”の行動だった。

恐らくは多くのボランティアに起った若者、あるいはボクのような前期高齢者も同じ思いだったに違いない。澎湃たる人々が北へ、北へ、と“想定外”の行動に出たのだった。

夥しい命が流され、夥しい瓦礫の山が積み上げられ、夥しい人々の人生がゴロッと転がった。
ボクの人生も、あの震災による震度以上に大きく揺り動かされ、真に大切なモノを掴み取るための日々を送ろうと決したのが3.11だった。

ところで以前も書いたことだが、55年体制といわれる戦後の保守政治による社会経済のドン詰まりからの転換が一昨年の民主党による政権交代だったのと軌を一にしての、福島原発震災だったと考えて見ることもできる。

どういうことかと言えば、原子力発電の導入というものが、戦後保守政治の形成過程の中で、8.6ヒロシマ、8.9ナガサキの日本人の様々な思いを封印する形で、実に政治的な思惑からスタートしたものであることは、3.11後、多くのメディアの検証から明らかになっているように、戦後日本社会の根幹に根深く居座る“魔の火”であったわけだが、この本質が露わになってしまったのが3.11の原発震災だった。
不気味に立ち昇る白い煙、原子力専門家科学者の「メルトダウン」という怖ろしい言葉。

何よりも日の丸へのお辞儀が重要とばかりの、能吏が事務的に淡々と伝えるという風のE官房長官による「直ちに健康には影響は無い‥‥」の乱発。
あるいはそれを“科学的に”解説、不安は無用とばかりに黙らせる“御用エセ学者”。

「原発国民投票」という誰もが強い関心を持つCMさえ、TVから流されること無く封印される日本の光景。

こうした岩盤の如くに日本社会に根深く居座る原発というものを容認し、都会の闇を照らす煌々とした灯りや、なんでもかんでも電化製品による至便な生活こそ、文化的とうそぶいてきた多くの人々の、その一人が自分だったことに気づくのは容易だった。

つまり、史上類例の無い大震災は、人の命、町並み、国土、人々の記憶といった有象無象の事柄を奪い去っただけではなく、戦後日本社会に離れがたくこびりついた文明という名の過剰欲望、既得権益者どものどす黒い欲望、どこかで踏み違えてきてしまったのでは、といったことなどが白昼の下に証されてしまったとも言えるだろう。

ウソで塗り固めた政治指導者の言葉など、今や誰も信じる者がいなくなり、正統性は実は別のところにあることが徐々に気付き初めているというのが、ポスト3.11状況と言えるのかも知れない。

こうした視座に立つことができれば、新たな社会への扉が今こじ開けられようとしているかもしれないとの、かすかに明るい希望も見いだすことができるだろう。
しかしこれは、ただ待っているだけではやってきてはくれない。

すっくと起ち上がって掴み取りにいかねば、何事も変わらないだろう。
待ちの姿勢では、日本は間違いなく深い闇へと落ち込んでいくだけだろう。

ボクたちの木工家具の制作現場でも、同じ事が言えると思う。
TPPがどのような経緯を辿るかはともかくも、漫然と大手家具ショップに置かれているものと競合するようなものを狙っているようでは、ただただ沈み込んでいくばかりなのは必定。

浮薄な消費資財であふれかえった住環境に、いかに魅力あるモノを届けられるかは、作り手の造形力とともに、普遍性のあるスピリッツ、あるいは鋭い時代認識に裏付けられた社会性豊かなオリジナリティーの表現力が鍵となるのだろう。

既存の流通経路は硬直化しつつある中、これに代わる新たなネットワークもできていくことだろう。
困難な事が多い時代であることは確かだが、日本のみならず先進国と言われてきた欧米社会も同様に混迷する時代のただ中にあり、新たな時代の登場へと胎動しつつあるという認識を持ち、弛まずに、前を向いて歩んでいきたいと思う。

さて、今年は多くのことがあり、多くの方々と手を携えて生きてくることができた1年だったが、3.11 緊急災害ボランティア「エスペランサ 木工隊」には多くの支援と、励ましをいただき、思い存分戦ってくることができたことは、大きな資産となって今に生きていると思っている。

筆舌に尽くせぬ惨状を目前にした時、ことばを失うと言うことを知ったのも、石巻だったし、枯れてしまった涙の後に出てくる一言の重さを知ったのも、石巻の被災者からだった。

彼らからは多くのことを学び、そして支援してくれた方々の熱い思いに触れることができたのも、あの時期、ボランティアなどまだいくべきではない、という被災地の希望を踏みにじるような思考停止状況を蛮勇をふるって突破して起ち上がったからだったろう。
恐らくは他の隊員も同じ思いだったろうと思う。

あらためて心からの感謝を申し上げ、この糧をそこに留まらせるだけではなく、次へと向かう発条の1つとして心していくことを誓いたいと思う。

最後に、いつもこのBlogを励まし、叱ってくれる読者に深い感謝を捧げたいと思う。
ありがとうございました。

Top画像は9.19 明治公園

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