工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

北京からの風

北京五輪も会期半ばを過ぎ、いよいよ陸上を初めとする競技もヒートアップしている。
TVの前の視聴者は観戦疲れで中だるみ?
これまでの競技の中でもっとも衝撃的だったのはやはりジャマイカの196cm巨躯褐色の若きスプリンター、「サンダーボルト」の異名をもつボルトの陸上100m決勝での走りっぷりだった。
タイムは驚異的なワールドレコードでの9秒69。
横一線で綺麗にスタートしたものの中盤からぐいぐいと長いストライドを生かし周りを置き去りにしての孤高の走り。 
日本選手がファイナルに残れなかったのは残念としか言いようがないが、こんな衝撃的なタイム争いでは宜なるかな、というところで悔しいという思いにさえ届かない。
ボルトは米国陸上界からは熱い眼差しが注がれ、いくつもの奨学金付きの留学の誘いを、「アメリカは寒いからやだ」とはねつけ、カリブに踏みとどまっている姿がなお好ましい。
20日に組まれている200m決勝はさらに期待が膨らむ。もともと200mを得意とするボルトなので、カール・ルイス以来の2冠達成が成るか。
様々な競技の結果はそこに横たわるアスリート達の一つ一つのストーリーを語り、競技スポーツの過酷さと、それを乗り越えて闘い、栄冠に輝くまでの感動をさらに深くする。
前半戦を終えて報道で伝えられる幾つかの事柄から、思うところをピックアップしてみたい。


まずところでどうでも良いことだがしかしいつの頃から北京の英語表記が〈Beijing〉となっていたのだろう。
この五輪の正式名称は〈IOC Beijing 2008〉という。
さていくつか個別に見ていきたいと思うが、 
陸上短距離ボルトに次いで注目させられたのは競泳男子、アメリカのフェルプスの8冠達成の偉業。しかもリレーを含めてのものとは言え、そのうちの7つが世界新。
周到に準備されてきたとはいえ、決勝同日に別種目の準決勝が組まれるなど、様々なハンデを乗り越えての偉業達成。
他の水泳選手誰しもが「あいつはスーパーマンだ」と呆れるほどの才能と肉体的資質を有していることは認めるとしても、人知れずストイックで困難な鍛錬と練習を積み上げてきたに違いない。
まだまだ伸び代のある23才。既に次の舞台、ロンドンを目指していることは間違いないところだろう。
平泳ぎ北島康介選手の2つの2連覇達成もすばらしかった。アテネ以降に見舞われた苦難については多く語られているだろうからここでは触れないが、“水泳日本”の伝統的な栄光というものを彼の戦いによって再興させてくれたようでうれしく思う。
この2×2冠達成というものは今後末永く語り継がれていくのだろう。
(北島選手の活躍に対しては、帰国後恐らくは“国民栄誉賞”なるものが話題になると思う。かつての女子マラソン優勝者、Qちゃんの如くに。しかしあれは政治家による政治的利用だということを知っておきたい)
なお日本選手の競泳では女子のガンバリが目立ったが、17日の女子50m自由形で2位になった米代表のトーレスという選手は何と競泳史上メダリスト最年長の41才。15の時に同じ種目で世界新を出して以降、子育てをしながら2度の引退を挟んでの27年間の選手生活。
「子供を産んでからの方が調子がよい」との言葉は、多くの母親競技者への強いメッセージになっている。
次は‥‥、この大会が最後と言われている野球とソフトボール。
女子のソフトボールは予選2位突破、3位以内確定。
もともと力量のあるチームであるので、驚くに値しない活躍ぶりだが、それにしても溌剌としたプレーは現代日本女子の社会的進出にも似て、爽快な感じがして良い。
それ比し、星野ジャパンとか言われている野球の方はどうなんだろう。
今日の試合がかなり重要なものとなってくるとのことだが、鼻白むのは初戦にちょっとつまずいた感じのダルビッシュの頭を丸めた姿。
まさかあのダルビッシュが悪しき日本の伝統である頭を丸めるなどというのは予想できないことだったが、言うまでもなく星野監督への覚え愛でたしの所業。
本人の意向なのか、誰かの入れ智恵なのかは知らないが、そんなことでチームが盛り上がるとも思えず、恥ずかしくなってくる。
とかく日本選手は負けて「スミマセン」と頭を下げるが、これは五輪とはいえあくまでもスポーツであり、「負けて悔しい〜」と地団駄踏む場面ではあっても、TVカメラを前にして「スミマセン」は無いだろう。
少なくともボクはそんな姿は見たくない。
そんなところで国を背負うなんてことをして欲しくはない。
星野監督は丸めた頭を見て笑みを浮かべたと言われているが、そんな采配で本当に勝てるチームを作って来れたのだろうか。
なお野球も含め、いくつかの競技にはプロ選手のチーム、個人がいるのだが、これについては別途考えねばならない問題と思っている。
サッカー。
日本男子3戦3敗。
反町監督の弁。「日本選手は良く戦った。何も悔いることはない」などの迷言はボクには良く理解できない。
ワールドカップ南アフリカを控え、果たしてこの陣容、反町のような自軍分析で予選突破できるのだろうか。
女子は沢を先頭に溌剌とした闘いを展開している。準々決勝突破、4強確定。
今夕、対米国戦だが、現在1:4で苦戦しているようだ。
女子が奮闘して、男は上位進出成らず、というのは今大会サッカーに限らず、柔道も同様の傾向。
そんな中男子100Kg超級、石井は“勝てる柔道”で栄冠を勝ちとった。
日本選手が勝てなくなってきている柔道だが、勝敗に大きく影響するポイント制が取られていることを指摘する人は多い。
確かに本来の柔道における技の勝敗としての1本というのが軽んじられて良いはずがない。
まるで畳の上の和装をしたレスリングなのか、と穿った見方をしてしまう低い姿勢からの足へのタックルは、どう見ても柔道の最高レベルの戦いとは思えない。
技が掛けにくいような柔道着の改悪(袖の細さを見よ)なども含め、日本にとって困難な時代である。
これはやはり世界柔道連盟に日本からは最後の一人だった山下が外され、ついには0となってしまったことと関係が無いはずがない。
要するに発祥の地、日本の伝統、意向など関係ないところでルールが決されるという何とも歯がゆい状況が今日の惨憺たる結果を準備してきたのだ。
結論的に言えば、柔道界における政治力、国際的ヘゲモニーの欠如という事態をどのように考えるのか、ということに尽きるだろう。
もちろん、若手選手の養成における問題などもあるだろう。奮闘を期待したいが、女子の立派な戦いぶりはそんな中で溜飲を下げる快挙だった。
現在のルールに適合させるための育成法を取るというのも重要なことだが、そうしたことはあくまでも戦術的なことであって、やはり日本の柔道界がヘゲモニーを奪い返し、本来の柔道の美しさというものを復活させるべく、戦略的に取り組むのでなければ、日本柔道界の明日は無いのでは?
さて長くなってしまったので、今回はこの辺りで終わりにしたいが、今日の朝日夕刊に単独会見に応えていた北京五輪開会式総監督・張芸謀(チャン・イーモウ)について触れておかねばならない。
ボクは現代中国というものを彼のデビュー作、『紅いコーリャン』(『紅高梁』)から始まり、『菊豆』、『活きる』、『あの子を探して』、『初恋のきた道』、『至福のとき』と一連の映像作品から多くのことを教えられてきたし、特に1987年の『紅いコーリャン』は鮮烈で衝撃的な芸術作品として感動させてくれた。
そんなところからボクは世界の優れた映像作家の中の一人として高く評価している。
その後の佳作はいずれも中国の伝統的な風俗を背景としつつ、現代的問題をそこに浮上させる手法でいずれも秀逸な作品を提供してくれ、良心的な日本人映画ファンの多くを捉えてきたと思う。
ただその後、巨匠へと自他共に認められるようになって以降のハリウッド的な手法、題材にはとてもついて行けず、距離を取るようになってきていたが、ある種の集大成としての演出がこの北京五輪の開会式であったと見て大きな間違いはないのだろう。
インタビューには次のように応えている。
── 天使の歌声」が「口パク」だったことなどで批判されている点は
我々は開会式の完璧な美しさを追求し、3人の女の子を準備した。モラルの問題ではないし、そんなに重大な問題とは思わない。一種の創作だ。
演出で認められる範囲だ(こちら
とても残念だが、彼は明らかに変わった。
かつてその映像作品の有力な武器であったであろう批評精神を振り捨て、国家を背景にした巨大なマネーとともに、芸術至上主義への変節はその1つの欲望を満たすものなのだろうが、しかし映像作家としての評価とは別の次元でのものだろうし、ボクの趣味からは隔たったところへと向かっていることは明らかで、とても残念に思う。
張芸謀はいわば今の中国が目指す方向へと随伴しているというわけだ。初期の作品のファンの思いなど関係ないことだろうしね。(苦笑)
悪趣味なアナロジーになるかも知れないが、まるで1936年、ヒトラー統治下のベルリン大会で『民族の祭典』とタイトルされた記録映画のメガフォンを取ったレニ・リーフェンシュタールのようなものではないか。
レニのファナティックなまでの政治性と、スポーツ大会の祝祭的、耽美的ともいえる修辞(筋肉美の誇張)は、その後の記録映像というものの原点になるものだったろうし、さらには五輪というものの国家的規模での宣揚がベルリン大会をターニングポイントとして始まったことを見れば、その集大成がこの北京五輪と言っても良いのかも知れない。
何故ならばこの北京五輪はプロ選手への解禁なども含め、商業的利潤への傾斜を強く進めた前会長サマランチの強い要請があったと言われているが、現在の会長Dr.ジャック・ロゲは今後これを軌道修正させようとしているからだ。
ロンドン大会がその試金石になるのだろう。
でもやはり一部CG映像で華やかさを演じさせた張芸謀の演出というのは、理解に苦しむのだよ。
同じく張の演出で執り行われる閉会式が如何に華やかでも、観客、TVの前の人々は、あれもやはりCGかな‥‥、あの歌は本当は誰が歌っているのだろ‥‥、とまともに解釈してはくれないだろう。
如何に巨匠のタクトでありはしても、虚飾に満ちたイベントなどで感動を呼ぼうなんて、あまりに白々しい。

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