工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

女性木工職人

思わぬ再会

熱風が吹き、車道には陽炎が立つ真夏の街中を車を走らせるのは、よりエンジンからの排熱を撒き散らすようで罪深い。
ここ数日、断続的に見舞われた雷交じりの雨も止み、戻ってきた盛夏の中、いくつかの所用で静岡市内に車を走らせた。拭漆の依頼もその所用のうちの1つだった。

今回の依頼先は塗師屋というのではなく、伝統的な和家具を専らとする木工所なのだが、無理を聞いていただくことにした。
それまで依頼していた塗師屋は高齢でリタイアしてしまったための、新たな取引先の開拓である。

木工所とはいえ、民家を作業場に仕立てただけといった感じの作業場。
静岡の街中には、こうした小規模の木工所は少なくない。
服部の傾斜盤、手押し、プレナー、縦軸盤、ダブルソー、超仕上鉋盤、その程度の基本の汎用機を設置しただけのシンプルな作業所だが、恐らくはこの構成で事足りるのだろう。

逆に、外には所狭しと6分板が立て掛けてあり、作業所内より、こちらの光景の方が、いかにも木工所然とした佇まいを見せているのだった。

数年前に知り合ったこの木工所の職人に笑顔で迎えられ、親方のご子息に案内を請う。
漆を塗ってもらう座卓などの説明を終え、歓談している隣の部屋では親方が座り込み、何やら削っており、その隣には組み上がった家具のメチ払いをしている中腰の一人の若い職人。

女性だ。

女性の資質

訪ねるのは初めての木工所で、この女性の存在は忘れていたのだったが、数年前、家具職人としてこの木工所に雇用され、東京からやってきたことを思い出した。

実はこの木工所への面接の際、私のところにも訪ねてきて、少しく話しをしたことがあり、印象に残っていた。

歓談しながら、それとは無しに視ていれば、寸六の長台を片手で持ち、木端削りをしている。
わずかに数年でここまで鉋掛けを習得していたのかと、軽い衝撃を受けた。
(片手で長台鉋を安定的に使いこなすには、相応の習熟の日々と、身体能力の強さが求められる)
親方、あるいは兄弟子の厳しい指導と、本人の真摯な取り組みの日々が、こうした水準をもたらしたのだろうことは、聞くまでも無く、ボクには容易に理解できた。

この木工所には小さな手押鉋盤しか無いので、板差しを専らとする木工所の仕事の基本は手鉋での板削りだ。
まともな削りができなくては何も始まらない。

こうした伝統的なスタイルでの指物の木工所をあえて選択し、ここまで厳しい世界を耐え抜き、1つの水準に達するまでの志、あるいは思考の在り様、未来への道程など、いずれ機会があれば聞いてみたいとは思うけれど、恐らくは周囲の期待に応え、あるいはそれを超えたところで、良い木工人生を歩んでいくのだろうと思う。

いかにグローバリズムでの市場変容により、木工業が低迷しようが、家具産地としての静岡が沈んでいこうが、確かな腕と意志の強さがあれば、彼女を前に世界は拒絶しないし、生きていけるものだ。

これは数年前にうちに面談に来た際のこの女性の思いの吐露と、意志の強そうな相貌からの感触によるものだが、いわば今日はその職人としての後ろ姿から、確信に近いものを感得した。

ここ静岡の木工業にはまだまだ女性職人の数は多くない。
他の産地も似たようなものだろう。
しかしボクの知る限りにおいては、これらの数少ない女性木工職人の資質は高いようだ。

また受け入れる木工所側においても、女性職人の存在はその労働力の力量を超え、木工所そのものの開明、職場環境の改善といった側面で評価は高いものがある。

以前、私の口利きで、ある中堅の家具屋がはじめての女性職人を採用する際、内部には反対する幹部もいたようだが、その女性を受け入れた後、毎年のように何人もの女性職人を雇用するきっかけになったということを経験している。

一方、ボクの知人にも、木工房を運営している女性が数名いる。
確かに、木工所と言えば、3K(きつい [Kitsui)]、汚い [Kitanai]、危険 [Kiken])の職場であり、一般に考えられるイメージとすれば、女性は忌避する対象の職業だろうし、受け入れ側も、女性なんて・・・、というところがまだまだ多いのも事実だ。

参入を拒む社会

確かに肉体的困苦に耐え抜くには、非力な肉体を持って生を受けた女性には、より困難であることも否定しがたい。
しかしむしろ、その参入を拒んでいるのはジェンダーという社会の側の抑制だろう。
そこを超え、職人として志願する女性は、その意志の高みにおいて、既にあまたの男どもの先を行っているとは言えないだろうか。

木工家具の需要層というものは、明らかにご婦人方に多いというのが実態なのだが、そうしたところにアプローチするにも、女性ならではの視点と、造形力、スタイルにより、市場性を獲得していくことにも繋がるのではないか。

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  • 思わぬ失敗、意外な結末は、「思わぬ」ですが。
    「思いがけない出会い」微妙です。

    • AQDesignAbeさま、ビミョウなコメントありがとうございます。
      出会い、邂逅、あるいは失敗、失態など、一見偶然のできごとのように思われることも、
      実はあらかじめプログラムされている事象なのだ、
      といった〈明晰〉な解釈も可能であるかもしれません。

      その究極的な考え方としての〈運命論〉には、あまり与したくないですが、
      (つまらない人生になってしまうでしょうから)
      私が嵌まってしまう、木工作業でのケガなどは、
      明らかに起きても仕方が無いと思われる、
      準備不足、体調不良、機械の不調などを
      原因とするものであることも間違いないですね。

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