北欧モダン ─デザイン&クラフト─ 展
昨日東京オペラシティー・アートギャラリーでの「北欧モダン ─デザイン&クラフト展」を観覧。
あらためて1950-60年代の北欧デザインを総覧させてもらい、その多様性はもちろんであるが、モダニズムという概念が喚起させる機能主義的無機質性への強い抗いというものを感じさせるとともに、プロダクトとしてのデザイン追求による優れたデザイン性というものが独自のモダニズムを造り上げてきたことを教えてくれるものだった。
ノルディックと言われる欧州の辺境の地にこうした希有なデザインが続々と生まれ出た背景も様々に語ることができるだろう。
過酷な気象条件を強いられる環境というものは、一方では急激な近代化を妨げる要素になっただろうし、長い冬と夜を過ごすことになる室内インテリアをはじめ、生活全般にわたって高品質なものを求めるという社会的要請もあっただろう。
また産業経済的にも必ずしも恵まれた条件にないところから、むしろその制約性というものをバネとして、限られた自然素材を活かすことで、過剰なものがそぎ落とされた清潔で美しい洗練されたデザインが産まれ出されたということもできるだろう。
デザインではとかく欲望が前に出たがるものだが、抑制の効いた、しかし個々のデザイナーの個性というものが生きているものたちだ。
この北欧デザインは当然にも、米国から英国へ、そして日本へと多大な影響を及ぼしていったのだが、例えば手作りのぬくもり、であるとか、アーティスティックなクラフツとして受け入れられ、それらの国のデザイナーも同様のアプローチで試みてきたに違いない。
しかしあらためて観覧させてもらった今に思えば、それらはどこか表層的で、あるいはファッションとしてのものでしか無かったのではとの思いは強くなる。
例えば今月初旬に大きく取り上げられたPISA(OECD生徒の学習到達度調査)の発表結果で、フィンランドが近年上位にあり、一方日本は低下傾向にあるところからカリキュラムを含む学習内容を上位のフィンランドなどに学ぶべきだとの短兵急なリアクションが噴き出したりと喧しいし、あるいは経済政策の撞着に、独自の政治経済体制で国民生活が豊かで快適であるらしいスカンジナビアに学ぼう、などといった論説も多く聞こえてくるが、
しかし日本という国、そして日本人という特性は、恐らくはそう簡単にスカンジナビアのそれらに範を求めることなどできるとも思えない。
近代化百数十年、多くのことで歩んできた道は違いすぎて、彼の地が築き上げてきた独自の社会政策をそのままに取り込むことなどは無理だろう。
いや確かにデザインの問題を社会問題から語ることは適切ではない。
例えばこの北欧のどれでも良いから1つの椅子を前にして考えてみよう。
ハンドクラフト的な丁寧な造り、決して無機的ではないが、過剰なものは一切無く、必要にして十分なデザインと構成。ディーテールとフォルム、それらが訴えるデザイン、モダニズムというものは、やはりそのバックグラウンドにまで射程を伸ばさねば本当のところは見えてこない。
つまりデザインといえども、時代の空気に規定され、産業基盤に支えられ、国民性というエートスから導き出されるものであり、そして何よりも個性豊かなデザイナーという人材に大きく委ねられるという鉄則からすれば、やはり帰属するところからしか発想できないものであり、自分の足下を深く掘り下げることの重要性というものに思い至る。
さて、この北欧モダン、50-60年代の黄金期のものを集めているが、その後はどうなのか。確かに家具などではハンス・J.ウェグナー、フィン・ユール、アルネ・ヤコブセン、アルヴァ・アアルトなどに比肩する傑出したデザイナーの存在は寡聞にして知らない。
今年は最後の巨匠、ハンス・J.ウェグナーが鬼籍に入った年だった。まさに1つの時代が終わったという年でもあったのだろう。
それらに替わってというべきか、ノキア、エリクソン、あるいはバング&オルフセンなど、欧州の工業先進国であるべきはずのゲルマン、ドイツを尻目に家電、ケータイ、オーディオなどの分野(あるいはコンピューターOSのリナックスもここに加えるべきか)でトップランナーに立っていることは誰しもが認めざるを得ないノルディックインダストリー、ノルディックデザインのパワーだ。
これもやはり時代の流れというか、ノルディックデザインの先進的対象が生活雑貨から先端産業への産業構成の時代的推移を指し示すものとして見るべきものなのだろうか。
またしてもこの分野でもトップランナーであり続けるノルディックのデザインの動向は目が離せない。
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何とかやっと年内に駆けつけることができた。都内での忘年会の誘いがあってのものだったのだけれど(苦笑)
東京会場、会期は年開けて14日まで。
図録も展示品の解説から、気鋭のデザインジャーナリストの論考なども興味深く、充実している。
画像Topは会場正面。画像中はその図録から。
■ 公式サイト北欧モダン─デザイン&クラフト─展
Nordic Modernism, Design and Crafts
■ 過去記事:「北欧モダン ─ デザイン&クラフト ─」展
kent
2007-12-28(金) 12:14
うーーん、行きたい。
30日に東京へ行くけど
子供の引率だし>涙
単独行動したら、やばいよなぁ。
acanthogobius
2007-12-28(金) 21:22
今日、仕事帰りに見てきました。
私の場合、どうしても家具に注目してしまいますが
木に対する感じ方は、やはり日本人とは違うんだろうな、
と思います。
日本では家具に使われている材料の多くは身近な所に
木の形で生えている訳ですから。
artisan
2007-12-28(金) 22:17
kentさん、家族思いのパパともなれば、グッと抑制を効かさねばならないことが多いのですね。
ロクロによる作品があったわけではありませんが、樺のプライウッドを切削成形されたものなどもあり、木の用い方にkentさんにも楽しめそうなものがありましたね。
artisan
2007-12-28(金) 22:18
acanthogobiusさん、ご覧になりましたか。
>木に対する感じ方は、やはり日本人とは違うんだろうな、と思います。
ご指摘のことが具体的に何を指すかは分かりませんが、ボクなりに解釈させていただくとすれば、木を工業素材(マテリアル)の1つとして捉え、上のコメントでも述べたように成形合板の単板(タンパン)の色相をデザイン的に活かすなどのアイディアが多々見られましたね(日本の雑貨デザインにも影響を与えています)
また展示品の多くはプロトタイプのものが多く、椅子のファンなどには堪えられない魅力があったのではないでしょうか。
acanthogobius
2007-12-28(金) 23:26
確かに、始めに木ありき、というよりは木は自己表現の
一つの手段に過ぎない、という感じがします。
無垢の木(積層合板などではなく)にあまり拘りがないのも
そのためなのかと思います。
ただ、芸術とはそういうものだよ、とか、デザインとはそういうものだよ、と言われれば、そうなのかな?
とも思います。
材料は単に自己表現の一つの手段で、自分の目指す自己表現ができれば木である必要はないのではないか。
とすると、この成形合板の使い方も、お国柄と言ってしまって良いものか、分かりません。
この辺りの事は自分の中でも今一整理ができていません。
感覚的で抽象的な表現になってしまいました。
木工作家、デザイナー、家具職人、芸術家、それぞれ
自分の中で木をどのような位置に置いているのか
知りたい所ですね。
すみません、年末に少し脱線しました。
artisan
2007-12-28(金) 23:57
acanthogobiusさん、関心の対象をより明らかにするコメントありがとうございます。
acanthogobiusさんの木というものへの固有の思いというものは、確かに日本人の多くが(加えて木工家の多くと言っても良いかも知れませんが)導管の配列が表現するところの木目の表現力に強く吸引されている事があるのに比し、
北欧に限らず欧米の木工デザイン、木工家においては必ずしもそうしたことに拘泥されることなく、木というものをもっと広く捉え、
他の工業素材とは異なる木質を固有のテクスチャーとして捉え、あるいはその物理的特性を木ならではのものとしてプロダクトの中で活かしていく、
という考え方が主流なのではなかと解釈されますね。
したがって必ずしも木を他の代替物に替えても構わないというものでもなく、やはり木質でなければという評価は厳然としてあり、あるいはそこには北欧の森の民としての深層に刻み込まれ古代から蓄積されてきた思いというものもあるに相違ないのではないのでしょうか。
ボクはむしろ有限な森林資源の活用(持続的活用)という現代的問題の解決を探るにあたって、積層合板あるいはランバーコアといった木の活かし方というのは解決手法の優位な1つであるだろうと考えています。
記事中でも書きましたが、こうしたことをただちに日本人が適応させるのは無理でしょうし、違うアプローチがあっても良いだろうと思いますけどね。
大いに脱線してください。