工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

3.11から10年 原発事故収拾にはほど遠い中、女川原発が再稼働へと

先週末、NHK BSでは東日本大震災の当時の録画を再編集した番組がいくつか放映され、ご覧になった方も多いと思う。10年を1つの節目とする振り返りと、その後の被災地復興の現状などを編集したもの。

私はメンタル的には耐性がある方だと自負していたが、津波などのシーンではさすがに目をそらしたくなるのはまだしも、さらに過酷なシーンでは呼吸は荒くなるばかりでもはや泣くしかなかった。
歳のせいでもあるまいが、そうした衝撃への自身の怯えに少し愕然とするところもあり、複雑な思いで視ていた。

被災地から遠く離れた地に暮らす私のようなものでさえ、こうした反応であれば、被災当事者らの受け止めはまた次元の異なる、複雑で鈍重なものがあったろうことは容易に想像できる。

未だに行方不明のままで家族のご遺体が戻ってこない人、あるいは震災後に関連死といわれるような不幸な最期を迎えた人の家族、復興住宅に移住し、生活再建の新たな人生を模索しつつも、それまでのコミュニティとの決別から不安な日々を送る人々、そのおかれた立場から、様々な思いでこの10年を迎えていることだろう。

宮城県・村井知事による女川原発再稼働の同意

昨年11月、宮城県、村井嘉浩知事は東北電力女川原子力発電所2号機の再稼働に同意することを表明した。

女川原発
女川原発 共同通信からお借りしました、謝謝!

女川町、石巻市、2つの原発立地の首長の同意を取り付けてのものだった。

この女川原発は宮城県石巻市に隣接するリアス式海岸の牡鹿半島、東端、首根っこの岬に立地する、東京電力福島第1原発と同じ沸騰水型の原発だ。

私は3.11直後、他の2名と供に緊急災害ボランティアとして石巻市に入っており、当然にも石巻在住期間、この女川原発の被災状況が心配でならなかった。
その後も、その年の秋、三陸沿岸を釜石から仙台へと南下し、被災状況をこの眼に焼き付けるドライブを敢行する際、近くを通ったりと、何かと身近に感じる土地でもある。

さらに自身に引き寄せて言えば、今ではめったに訪れることも無くなってはいるが、この女川から西に40km地点の多賀城市は私の生地でもある。そこには現在も従兄弟らが居住している。

経産省主導と言われた安倍政権が、国のエネルギー基本政策として、原発を「ベースロード電源」として位置づけているところから、この原発再稼働は常に狙ってきているだろうことは知っていた。
3.11から10年を前にして、福島第一原子力発電所(以下 F1と略記)の廃炉への道筋は当初計画が次々と先延ばしされ、未だにメルトダウン、メルトスルーした核燃料・溶け堕ちたデブリへのアプローチの方法すら見えないこの段階での再稼働の蠢きは悪い冗談にしか思えない。

しかも、まさか被災地の女川がいち早く再稼働へ向けて動き出すなどとは思いもしなかっただけに驚いた。

女川原発
東京新聞から

女川原発は3.11東日本大震災により13mにおよぶ大津波が押し寄せている。
幸いにもこの原発は太平洋に面し立地していたものの、少し高台に設置したところからF1のように冷却系統を破断させることなく運用できていたようだ。

考えても見れば、この宮城県、村井嘉浩知事は、碌でもない国会議員の多くを排出している松下政経塾(公職選挙法違反、買収の罪で公判中の河井克行、前原誠司、高市早苗、山田宏、松沢成文 等々)出身であれば、こうした政治判断も不思議では無いのかもしれないのだが、しかしだからといって仕方がないと妙に納得して良いわけもなかろう。

この再稼働を巡る現地の状況を少し調べれば、いかに住民の意思を無視した経産省主導の「再稼働ありき」の無謀な政治決断であるかが見えてくる。

河北新報による世論調査から見える住民意思

上図は昨年3月に仙台に本社を置く地方紙『河北新報』が行った宮城県内を対象とした女川原発・再稼働に関する世論調査の結果である。

▼再稼働に「反対」「どちらかといえば反対」を合わせた反対意見は計61.5%
▼再稼働に「賛成」「どちらかといえば賛成」を合わせた賛成意見は計36.3%

2017年の頃と較べれば、多少賛成意見も増加を示しているが、3年という時間経過による風化がもたらしたものだろう。
だが、いずれも再稼働反対が賛成を大きく上回り、多くの県民が再稼働には不安を覚え、反対の立場を取っていることは明らかであることが見て取れる。

また昨年11月9日の、宮城県市町村長会議では3町長が反対の意思を表明している(美里町、加美町、色麻町)。

下は、先週5日の朝日新聞オピニオン覧「静かに進む原子力回帰」での、美里町(上記Map参照)の相沢清一町長のインタビュー記事。

ここでは特に避難路の整備への不安を中心に、原発隣地の自治体として原発再稼働の協定を結ぶ自治体から排除されていることの不当を訴えている。

この問題では先の河北新報による世論調査の項目ともなっていて、村井知事が画策する再稼働同意の対象自治体の3つでは全く不十分である事が住民の意思として明確に示されている。


この住民意思は3年前より、より強く出ていて、県と立地2市長の29.8%の倍を超える60.8%が県と県内全ての自治体の同意が必要と答えている。

これは10年前のF1過酷事故による被災が福島の浜通りに限定されるものではなく、中通りと言われる県庁所在地の福島市など、直線距離で60kmほどの遠隔地にも強い濃度の放射線ブルームに覆われたことは知っての通りで、最低でも「県と県内全ての自治体」の同意を取るべきとするのが60%を超えるという数値はもっともな県民の意思というものだろう。

私自身、この年の秋、京都精華大の教授らが起ち上げた除染研究のプロジェクトのお手伝いで福島市に宿を取り、福島大学の先生らとともに線量計を携行し、飯舘村との往復などを繰り返していたことから実体験しての感想でもある。

いやいやそれどころか、放射線プルームは、静岡や東京までをも含む、東日本一帯に飛散され、その年は連日、各地からの放射線量のリポートが報じられるという事態だったことを想い起こせば、女川に接した自治体、首長の同意だけで済ますことがいかに非科学的でで無謀な事かぐらいは誰でもわかる話だ。


先日、これはTwitter投稿で引用したものだが、フクイチの被災者の声をReutersが拾ってくれていて、たいへん胸にくるものがあったので、ここでも貼り付けておく。

「お金で解決しないでよ」
「やっぱり人として見てほしい」
「家畜じゃないよ」
「私たちはお金っていう餌をもらって黙ってしまいましたよね」
「そういうことじゃないんだよ。人間として生かしてくだ
さいよ」

補償金の受け取りを拒否し、東電からの施しに依存する避難民という扱いを受けるのがいやだった。

この鵜沼久江さんは被災者の中にあって決して特異な人では無いだろう。現在も3万人とも5万人とも言われる避難暮らしを強いられている人の中の1つの標準的な考えを持つ人なのだろうと思う。

いわばナロードニキと言った感じで、しぶとくその土地に根ざし、農民としての誇りを掛け、安易に何かに依存することもなく、すっくと起ち、人々の中で、人々と供に生業を営み、暮らし、生きる、自律した人間の言葉であり、昔からどこにもいたであろう、日本人の姿なのだ。
私も襟を正しつこれらの言葉を聞いた。

こうしたかき消されがちな被災者の声に私たちはどれだけ聴く耳を持っただろうか。10年という節目だから、ということに留まらず、これからも続く避難生活を強いられてる被災者の声を丁寧に掬い上げていくことも大切なのだろうと思う。


村井知事の再稼働同意の表明は、県下の住民の不安の声を切り捨て、3.11フクイチの過酷事故の教訓も中途半端なままに、原発再稼働に突き進もうとするお国の原発政策に凭りかかり、悪乗りし、既得権益者としての懐を肥やす意図が見え隠れするようなものではないだろうか。

これはひとり村井知事の判断が歪んでると、声高に言い募る積もりは無い。日本国のエネルギー戦略の無責任さ、杜撰さ、未来展望の無さに帰因するもので、そうした俯瞰的な視野も必要なことは判っている。

前述のように日本は原発をベースロード電源として位置づけている。
しかも、菅新政権は昨年10月の所信表明演説で2050年までのカーボンニュートラル実現を打ち出しており、そうした世界的な潮流をも奇貨として、化石燃料依存度を減らすためには原発に依存するしかないとばかりに原発再稼働へと邁進する戦略を取っており、村井知事の女川原発再稼働の同意表明は、そうした国家戦略のお先棒を担ごうとするもので、その戦略上で邪魔な住民の意思とやらはシャットアウトしていこうとする姿勢なのだろう。

ガイアツから周回遅れの再エネへ

私が暮らす静岡県の中部を流れる「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」に掛かる東名高速道の東西に、SONYの関連会社の工場がある。

もう操業から50年は経過するSONYのミュージック関連の業務部の建て屋だ。
このドデカい工場の社屋に近年メガソーラーのパネルが敷き詰められてきた。

RE100」という自社で使う電力を全て再エネで賄おうとする国際ネットワークに加盟し、これへの試行なのだそうだ。(SONY ニュースリリース「国内初、メガワット級太陽光発電設備を活用した
自己託送エネルギーサービス」)

写真:ソニー・ミュージックソリューションズ(SMS)のJARED大井川センター社屋の約1.7MWの太陽光発電設備

こうしたことに踏み切った経営判断はいったいどこからだと思われます?。
…………、
Apple.incとの取引条件なのです。

Apple社のキラー商品、みんなが大好きiPhone、このカメラの中核的な部品である、撮像素子のほとんどすべてがSONY製であることは、光学、カメラ好きの人は皆知ってる常識の部類だが、AppleはこうしたSONYのようなサプライヤーにも再エネ100%を求めてきているという、その会社にとっては退っ引きならぬたいへん重要な宿題を抱えているからだ。

Appleの話しを始めたら止まらないので程ほどにするが、カリフォルニア・クパチーノにあるApple本社(Park)、社屋には17MWという、巨大な電力を発電するメガソーラーパネルが敷き詰められている。
この規模はたぶん、世界最大級。

クパチーノ Park 社屋

下の動画はこのPark建造時のもの(2017年)。ソーラー設置状況とその規模が推し量れる

COP(国連気候変動枠組条約締約国会議)、パリ協定で採択された温室効果ガスの排出削減を、世界的企業の責任に於いて、いち早く先行的に指向しようとする野心的な試みというわけだ。
Appleはこれを自社製品に関わるサプライヤーにも求めている。

これに応えねば契約は切られるだろうし、安倍-スガ政権のやる気の無い日本社会において無理であれば生産拠点を海外に移すしか無くなるという切羽詰まったところからの経営判断だ。

あるいはまた、企業としてこうしたことに背を向けるようであれば、環境問題に積極的に関わろうという意識の高い若者が年々増加していく状況下、良い人材が集まらなくなるだろうし、投資家の企業選択における社会的な理念からも促されるという事情もあるのだろう。

気候変動と原発回帰

3.11 F1過酷事故を受けつつも、遠い極東の地の出来事ながら、我が事のように捉え(ベルリンで「No more FUKUSHIMA」と染め抜かれた横断幕でのデモがあったことに驚かされたものだった)、化石燃料依存から一気に再エネへと見事にシフトチェンジしたドイツに代表される国があるというのに、片や、日本は既得権益者の代表格とも言える9電力を護り、どっぷりとそこで惰眠を貪ってきた日本社会。 今では3.11過酷事故を忘れ去ったかのように、あいもかわらず原発依存を諦めず、再エネシフトには懐疑的かつ不真面目な態度に終始してきたのが安倍政権であり、この惰性を継承しているのが菅政権というわけだ。

菅政権は前述の通り、2050年までにカーボンニュートラル実現へ舵を切るとぶち上げた。
G7の中では地球温暖化への懐疑的なトランプ米国を除けば、不採択なのは日本だけという切羽詰まった状況にあり、この間、中国ですら採択に前のめりになった後の段階でやっと手を挙げるという恥ずかしいばかりの姿勢だったのだが、ぶち上げれば済むというものでは無く、強力な戦略を打ち立てねば空手形に陥ることは必至で、今後の具体的施策に注目していかねばならない。

ただこのカーボンニュートラル実現の困難さを奇貨として、またぞろ原発への回帰へとシフトしつつあるというのが現政権の戦略であるようだ。
いわば女川原発の再稼働は、その象徴になっているともいえる。

原発回帰でカーボンニュートラルを目指すのか、そうではなく、世界的潮流である再エネに本気で取り組んでいくのか、女川原発再稼働の問題はその試金石になろうとしている。

3.11と日本社会の未来展望

私は3.11東日本大震災とF1事故は日本社会の大きな転換点になり得るエポックなものとなるのではないかと、当時考えていた。

直後、首都圏はF1事故のあおりを受け、長時間にわたる停電が続いた。
ほとんどの人が気付いたことと思うが、電力によって支えられてきた、快適で明るい生活というものが、実は遠く離れた福島の原発から送られてきている電力で賄われているという事実。
その結果、多くの人が故郷を追われ、避難民として、いや国家から捨てられる棄民として流浪することとなってしまった。

そうした過酷な状況をもたらした安全神話で固められてきた偽りの原発運用の誤りに象徴的な日本社会の姿を眼前にし、復興を考えるのであれば、轍を踏むように同じようなシステムを再現させるのではなく、真に持続可能な未来社会を展望するような復興計画をこそ打ち立てねばならないはずだった。

ところが、巨大な負債を抱えてしまった東電を解体することなく、実質国有化させ、避難民のわずかばかりの支援金も東電が支払う形を取ってはいるが、実質、日本国によるものなのだ。
あるいはきらびやかな町の復興や、立派な自動車専用道、三陸道の建造、あるいはどこまで実効性があるのかも分からない除染事業など、総計32兆円もの予算が投じられ、その多くはゼネコンなどへと流れ込む仕掛けになっていた。

この東電の事故責任を負うべき勝俣社長ら3名が起訴されたものの、2019年、東京地裁は無罪判決を言い渡している。
福島の決して狭くは無い豊かな土地の一部を未来に渡って蹂躙され、ヒトが住めない土地へと汚されてしまった福島第一原子力発電所の過酷事故と、それにより生み出され、避難を強いられた巨万の人々の群れ群れ。
彼らは司法にさえ見放されるという、この無責任大国、日本とはいったい何なのだろうか。

その影には、上の動画のような農民に対しては、人を人とも扱われず、捨て置かれていってるという現実。

私の「日本社会の大きな転換点になり得るエポック」などとする考えがいかに甘いかを思い知らされる10年でもあったというわけだ。
この問いは確かに簡単なものでは無い。
「日本社会の大きな転換」とは、アメリカの極東支配のきわめて重要な同盟国としての日本と日本社会の根幹を問うものであって、そこからの自立無くしては、日本社会のバージョンアップはあり得るわけも無い。

変わらねばならないことは明確なはずなのに、頑迷にも、屈強な岩盤の如くにそびえ、変わることを頑なに拒む戦後日本社会の困難がここにある。

ただ一方で、あの3.11直後、澎湃と沸き起こった被災地へのボランティアの波はエポックメイキングとして記憶しておくべき事柄だ。
利他的な行為こそ価値あるものとして見出された社会的な運動は、ボランティア元年とも言われ、その後、毎年のように襲いかかる台風被害などにも引き継がれているのは頼もしいもので、日本社会の新たな姿として定着してきている。

あるいはこれまで述べてきた原発問題には、毎週のように国会前での原発反対のデモが繰り広げられ、毎年 3.11前後にはかつて日本社会では考えられなかったような大規模なデモが起きるなど、市民の自律した姿が当たり前に見られるようになったことも、未来への希望の光となるものだった。

変わらねばならない日本社会、変わるチャンスを逃してきた頑迷な日本社会
しかし、被災地などに深く入り込むと、地域で様々な形でのネットワークが作られ、人々に寄り添うリーダー格の人や、Webサイトを起ち上げ、こうした運動を全国へとアピールし、緩やかに結びあう運動も拡がりつつある。

あるいはいわゆる贈与の精神を復興させ、商品を貨幣で交換するという資本主義社会の概念を脱力させるような地域貨幣や物々交換での流通といった、地域社会でのゆるやかな経済的社会的なつながりで回していこうとする営みも各地でおきつつあるようだ。

3.11は圧倒的な力で日本の大地を揺るがし、そこに住む多くの人に大きな苦難が与えられた。
そして飛散した放射線は「無主物」などとされ、いっさいの責任を負わずに逃げを切ろうとする電力会社と日本政府の姿をも露わにしてきたのがこの10年だった。

一方ではそこに依存せず、自立する人々を生み出してきてもいる。
安易に既存の価値観に凭り掛からず、上の動画の鵜沼さんのようにすっくと起ち、尊厳ある生き方への価値を大事に、多くの人と繫がっていくことで、この困難な時代であっても生きていくことができるはず。
真のオポチュニズムこそ、苦難に立ち向かう姿勢だろう。
例え、徹底した悲観を、いや絶望を越えねば、その地平に立つことさえできないのかも知れないとしても。

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