工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

伝統的習俗の地域差

ここ数日突然の身内の死去で葬送に立ち会うことになり、岡山県下の親族宅に身を寄せていた。
重篤な患者にとって日本の夏の暑さを乗り越えることができるかどうかということは、死活を意味するもののようだ。
自分の父親が病床で死去したのも8月の終わりであった。
東海地域に在住し、この地域での葬儀には年間数回何らかの立場で関わることがあるが、葬儀という日本社会の基本様式に関わる部分で大きな地域差があることに驚かされることがある。
体系的に調べ上げたわけではないので数少ない体験からだけなのだが、関西地域では伝統的習俗に倣うところが多く、関東では簡略、形式化しつつあるように感じる。
香典袋からして東西ではその様式、格式に大きな差異が認められるし、あるいはまた葬儀に関わる習俗のいくつかの呼称が異なるなどといったことなどは表層的なことにすぎないが、葬儀の式次第の差異には驚かされる。


地域差、仏教宗派の違いなどからくる差異について詳細に記述することがテーマでもないし、記述するだけのデータを保有しているわけでもないので詳述は避けるが、明らかに関東地域での式次第は伝統的習俗の換骨奪胎が見られると言えよう。
これらがいつ頃からのものなのか、地域差というのがどのような分布で色分けされるのか分からないが、興味深いことではある。
先にエントリーした鰻の食文化に見られる地域差などもその内の1つだろうが、習俗に見られる東西の地域差というものは今後も変容の経緯をたどっていく運命なのかも知れないが、根底的なところでの人の生き死に関わることは揺らぐことなく伝承されていくものであろう。如何にそれらが本質を失って形式的なものになってしまっているものであろうとも。
この8月は慰霊と鎮魂のメモリアルが続く。特に今年は敗戦後60周年だ。
8/6、8/9、8/15、etc etc。
心鎮かに戦後60年の歩みを想起し、現状を照らし合わせ、未来を考える月にしたい。
今朝の「原爆死没者慰霊式・平和祈念式」(平和記念式典)での秋葉広島市長の「平和宣言」と2人の小学生による「平和への誓い」は感動的だった。
比し、小泉総理の挨拶には、何らの感慨をも与えてくれなかったのはどうしたことか。官僚の作文の棒読みという事情はあるにせよ、政治的エモーションは皆無だった。
習俗の様式が本質を失って形式的なものになるのは世の習いであるだろうが、戦争終末期の事象を語ることが本質を失って形式的なものになることは許されるものであってはならない。
今日敗戦後60年を語ると言うことは決して過去の歴史的事象として定着したものなのではなく、被災者という生き証人もいれば、60年たってやっと重い口を開き戦争の実相の一端を明らかにしようとしつつある人々がいるという、今なお現実世界を大きく規定しているものであるからだ。
日本vs 中国、日本vs 韓国、日本vs 北朝鮮、日本vs 台湾、日本vs アジア諸国、旧植民地の人々からの異議申し立ては60年経っても高まることはあっても鎮まるところを知らない。
全ては歴史的清算が全く不十分なまま捨て置かれてきたが故の、今に生きる人々の冷厳な課題なのだから。
葬儀などによりしばらくWeb接続環境から遠く離れていたので、ブログエントリーも久々。
その間にApple社は渋谷にApple Storeを開店し、iTunes Music Storeも解禁された。
身内の突然の死去の報であわてて葬儀の準備に向かったので工房のなかの加工途上のものはそのまま。いくつかのパーツは反ってしまい、あらためて修正せねばならない。
一部追補(8/7)

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