工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

“白露”、稲穂、この地球の美しさと専門バカ

今日、9月7日は二十四節気では「白露」にあたる。
秋分の日(9月23日)までの期間を指すが、事実、今日は台風一過がもたらした大気の入れ替えで、とても清々とした爽やかな陽気になり、秋への歩みを確実に一歩踏み出した感じだった。

画像は夕刻6時過ぎの近隣田んぼから望む夕焼けだが、日中は雲一つ無い快晴だった。
明日も晴れるだろう(画像、決して色調をリタッチしたりはしていない。手前の稲穂にストロボを当てただけ)。

旬日ほどもすれば刈り取りだろうか。

この地域は福島第一原子力発電所から直線距離で400km以上も離れているというのに、農家は今年の新米の売れ行きを心配しているという。
例年であればまだ残っている昨年度の米の在庫は、とうに尽きたと言う。
放射線汚染への懸念からのものだ。

この辺りはさほどの汚染は無いと考えられるが、それでも全く汚染されていないとは言い切れるものでは無い。

新米を対象とする放射線検査に関わる問題はまださほど話題には上らないものの、もし懸念される汚染数値を示したとすれば、それは明らかに土壌(あるいはそれに加えて水からのものもあるだろう)からのものであるだろうから、翌年度に向けての除染作業が必要となる。
これは相当難しく、大変なものになると考えられるね。

こうしたことまでを考えねばならないという事態を前にして、とても耐えられない気分に陥ってしまう。

我々消費者は取捨選択することも可能であるわけだが、その土地から逃げることのできない農家の苦しみ、哀しみは想像を絶するものがあるだろう。
特に田んぼというのは、幾世代も前の親族が営々として開墾し、耕し、あるいは有機農法を取り入れ、日々雑草を除き、水の管理を怠らず、と、我が子のように大切に育て上げてきた結果の、稲穂の実りであるわけで、これが汚染されているとなれば、いったいそれまでの無農薬、有機農法の苦労とはいったい何だったのか、全てが虚しいものとして結果することになる。

駿河湾は豊富な水産資源のお国であり、ここでしか獲れないと言われる「桜エビ」あるいは「シラス」などは自身も好物であり、毎年のように贈り物としても使わせてもらっていたのだが、果たしてそれらの小魚への海洋汚染はどうなのだろう?
こうした記事を上げること自体「風評被害」とやらの対象になるやも知れず、思考停止が身のためか、などと、似つかわしくない自身の振る舞いというのが、全く悔しくてならない。

ところで、今日の夕刊に気になる記事がきていた。
「たかじんのそこまで言って委員会」なるTV番組の中で、専門家とするT氏が、一関市の子供からの質問に対する回答として
「東北の野菜や牛肉を食べたら、もちろん健康を害すから、できるだけ捨ててもらいたい」
「今、生産するのが間違っている」
などとする発言があったらしく(YouTubeから視聴可能)、一関市の市長からの抗議があったという。

YouTubeを視れば、このT氏特有のエキセントリックで配慮を欠いた発言と、スタジオ内のややバトル気味の応酬で確かに耳目を引き立てるものがあった。

今後、こうしたことは様々なところで繰り広げられていくものと想像される。

この専門家T氏はネットからTVのお茶の間まで人気のようで、ボクも3.11直後、著書を数冊読みはしたが、以前も触れたように3.11後に推進派的なスタンスから反原発派に衣装を替えた専門家は果たして信頼に値するのか、という疑念があり、これまでも距離を置いてきたのだが、またズッコケちゃったか、という感じでしかない。

確かに正論を吐いているのではあるのだろうが、その正論は括弧付きのものでしかないように思う。

上述したように農家の苦渋というものに想像力のかけらも無いような振る舞いで、いかに科学的に、論理的に正しい持論を展開したとしても、それは社会的な力にはなり得ない。

3.11で多くの方々が塗炭の苦しみに追いやられ、第一次産業従事者の方々の一部では希望を失い、悶々とした日々を過ごしている人も多い。
そうした方々の苦悶を掬い取るという回路を断ったところからの、専門バカ的な「正論」の物言いは決して力にはなり得ず、彼らの再生への道を遮断しかねないだろう。


しかし、日本の広大な大地が汚染されているというのに、この夕焼けの美しさったら呆れるほどだ。
いったいどこが汚染されているの?、と聞きたくなる。

例え日本がこのまま没落し、そしてあるいは世界から原発が無くなること無く、福島第一原子力発電所のような事故がくり返されれば、人類は間違いなく滅亡への道を辿るだろう。
しかし、そうした帰結が待っていたとしても、地球上には、このように美しい夕焼けが、誰知ることも無く輝いていることだけは確かなのだ。

あらゆる宗教、あらゆる文明、あらゆる知的資産が人間中心主義で貫かれていることの懐疑から、今あらためて再スタートするしかないのかもしれない。
3.11から半年がやってくる。

《関連すると思われる記事》

                   
    
  • 今ネット上では武田さんと早川由紀夫さん(例の児玉さんが使っていた地図を作った方)が叩かれていますが、この両名の発言はぶれていないと私にはおもわれます。発災直後から自身のホームペ−ジで母親のためのアドバイスもしています。現地での講演では言いにくい事実も同じ様に発言しています。人格や心情的な事とはわけて考えるべき、責められるべきは抗議のメールをしたとか言っている市長かと私は思っています。

    有るものを無いという風潮の方が問題かと。

  • 杉山さん新聞報道に流されすぎでは?
    武田、早川由紀夫両名の発言で助けられた方々は大勢いると思うけど。専門バカと切ってすてるのもどうかな?
    有るものを無いことにしている所謂、空気を読む風潮の蔓延が問題。
    武田さん非難承知のうえだと思うよ。

    • さっそくのコメントありがとうございます。
      彼は仰るように「正論」を述べているのだろうと思います.
      ただ問題はお茶の間へ届けるTV番組(私はこの番組がどのような企画のものであるかは良く分からないのですがね)での視聴者からの質問に対する「回答」としての物言い、あるいはスタジオ内での応酬で見せる姿勢(疑念に対し、一刀両断に切り捨てるといった)は、あまりに配慮を欠いたものとして映るのは否定しがたいものがあります。

      雑駁な物言い(放射線汚染を青酸カリに例える、東北地方を十把一絡げに捉える)、断定調、そうした作風が、一方では「受け」やすさとして映るわけですが、新聞記事のように「抗議」を招く危うさも孕むものであるわけです。(>新聞報道に流されすぎ、というご指摘は受け入れがたいです)

      私が距離を置きたいと考えるのは、記事でも書きましたように、3.11以前の著書における明確な原発推進の姿勢(+再生可能エネルギー戦略への著しい低い評価)と裏返しの論理展開の中に危うさを感じるためです。(科学者としての見識、あるいは倫理性としての)

      また仰るようにTVやネットを通し大きな影響力を発揮しているのも事実かも知れません。(上述のように「分かりやすさ」「断定調」への「受け」ゆえの)
      しかしそれだけに物言い、作風には高い倫理性と丁寧な説明が求められるのではと考えます。
      あまりに分かりやすい論調には気をつけるというのが私の生来の捉え方でもあるのですが、そうした嗜好からしてちょっとこの手の人は苦手ですね。

  • 私見ですが 311 以降、倫理とか正義、文化とかいう言語自体を問い直すべきだと考えています。倫理という言葉のなかには様々なグラデーションがあります。視点を変えれば彼の言動が倫理的と言う事さえ可能です。
    大きな揺らぎのただ中、括弧付き倫理観を人に求めるのは危険。愛や倫理が人を殺す事さえあります。
    敵は違うところにあるとおもいます。

    • 一部繰り返しになるかもしれませんが、あらためて考えて見ましょう(内容に新奇性があるわけでもないので恐縮なのですが (__;)

      彼は特にネット上では大きな影響力を持ち、ファンである人も多いようです。
      放射線科学、原子力工学に関しては、以前は多くは原子力ムラからのもの(いわゆる御用学者からのもの)しかなかったような段階で、彼の「分かりやすい」解説は有用だったことは確かでしょう(分かりやすすぎるのでブログも大人気。しかし私は3.11前の著書を読んでいましたので、そのようには与しませんでしたが)。

      私が彼を信頼に足る人物として見做さないのは、3.11前は明確な原発推進派だった(内閣府原子力委員会、および内閣府原子力安全委員会のメンバーだった ← もちろん責任の一端がある)からということだけではなく(主張を替えると言うことそれ自体は前提条件が変わったとか、状況変化の下ではあり得ることで、仕方ないことだと思いますが)、原子力の専門家として登場していますが、良く知られているように「資源材料工学、機能材料構造を研究テーマ」(wikiなどから)とする人であり、放射線科学、原子力工学、放射線医学の畑の人では必ずしもありません(学位などからして)。
      当然にも専門知識の乏しい領域外のところですので、慎重さを欠如した論証を行い、それへの批判に使われる引用もその引用元が明確で無いものであったり、またBlogでの主張も、後日の書き換えが多いなど、その主張もコロコロと変わることはよく指摘されているところです(主張、言説を替えるのは一概に否定するものでは無いのですが、そのプロセスを明らかにするというのが誠実で倫理的な態度です。しかしそれがなされずこっそりと修正されることが多いようです)。

      今日あらためてネット上で調べた限りでも、こうした批判はネット上にたくさん出てきますが(Google検索)、これが社会評論であったり、政治的主張であればともかくも、専門的な科学的な事象への主張ともなれば、その知見の披瀝は論拠を明確にした科学的論証に耐えるものでなければならないことは言うまでもありませんね。
      しかし、これほどまでに批判されているというのも特徴的で、本レスの最後に上げた反原発の科学者とは見事な対比を見せているのも否めない事実です。

      次に、個人的な感想を許していただければ、
      上述のようなところから、私のような素人から考えれば、科学者としての見識、論理展開の緻密さ、学問的立場というものと市民社会との関係におけるスタンス、メディア上における振る舞い(最近でこそ、反原発の立場に立つ信頼のおける科学者も取材されてきていますが、彼は一貫してTVなどの大手メディアでは売れっ子です)などから、弁別することにしているわけですが、そうした視点に立てば、私には信頼できる人物とはどうしても思えないのですね。
      著書『偽善エネルギー』では原子力発電推進の立場はともかくも、とにかく日本の原発の絶対的な安全性をあっけらからんとして主張しているわけで、その論理展開の杜撰さ、断定調には高い見識を持つと信じてきた科学者への概念を大きく覆すほどの驚くべき書物でした。

      今度の番組のように、放射線に汚染された地域の人々を一方的に追いやるような物言いにはよほど丁寧で緻密な言説が求められるのだろうと思います。
      反原発、脱原発の人たちは被災地の方々と手を携えて闘っていかねばならないわけですから。

      もちろん彼の言説の中では正しいことを言っていることも理解しますし、信頼している人が多いことは確かですので、その社会的な貢献を否定する積もりもありません。(ネット上ではBlogなどでの引用が多く、ある種のヒーローでもあるようですしね)
      いずれにしましても、信頼する、信頼しない、と言う峻別の基準は、その人により様々ですので構わないわけです。
      ただ私が懸念するのは、過度に傾斜してしまう人が多い中で、冷静に見据えるためにも、一連の論評には批評的視点が重要であると考えます。

      倫理についての批判も受けましたが、倫理という概念は時代を超えた普遍性を持つものであると考えます。
      これまでも何度も記述してきましたように、私も3.11は大きなターニングポイントを記すものと考える立場(1945年の敗戦に次ぐ、第2の敗戦とすら考えています)ですが、しかし3.11前後で、倫理の概念が変わると言うことは無いわけです。
      3.11前後で変わってしまう倫理など、はじめから倫理たりえないものでしかなかったと言うべきでしょう。

      私が高木仁三郎氏や武谷三男氏、そして矢ケ崎克馬氏や小出裕章氏を高く評価し、尊敬させていただいているのは、一貫して真に科学的知見に立ち、学問を究め(一部は在野で)、さらに常に市民とともに現場に立ち続け、発言し行動しているからこそですね。
      そうした立脚点に立った人だからこそ、専門家、科学者としての倫理性をそこに読み解くことができると考えています(専門的、科学的立場を貫くには、時の政府、権力と対立することも出てしまうわけですが、あくまでも自身の科学者としての立場を優先させるには、あらゆる攻撃、籠絡、兵糧攻めに立ち向かう、高い倫理性が必要とされるのですね)。

      彼はそうしたスタンスとは明らかに異なるように思えてなりません。
      推進派から反対派への鞍替えへの評価はさておくとしまして、逆にそれだけに高い倫理性が求められると言って良いでしょう。
      悪い見方をすれば、ただメインストリームに乗っかっているだけの人とも受け取られかねません。

      かなり冗長になってしまったことは詫びねばなりませんが、事柄の性質上、仕方ありませんのでお許しを。

      それにしましても放射線汚染対策のお粗末さには言葉を失います。
      新政権に替わり、恐らくはこれまで以上にその指導性、決断力は劣化の一途を辿るのではと懸念しています。

      最後に関連するいくつかのBlog読者として1つだけ参照させていただきます。
      パレスチナ問題の専門家として発信している福島出身の若い学者で早尾貴紀さんという人のBlogです。居住地、仙台で被災し、今、小さな子供を京都に疎開させ、被災者援護の活動に邁進している人です。
      Linkした記事は、それまで高く評価してきたところから、一歩距離を置くことを宣明したものです。
      それだけに、評価の微妙な揺らぎと決意が読み取れるものとして参照に値すると考えました。
      こちら)です。

  • わたしには万人に自明な倫理があるとは考えられません。人それぞれの人生のなかで間違えを繰り返し、求めていく、更新される状態なのだと思っています。
    武田氏の言説がすべて正しいなどとは私も思っていません。紹介されたブログの指摘には大いに同意します。
    情報を得る時のスタンスとしては小出さんにも武田さんにも全て信じるという事はしていません。属人性をすべて排除して物事だけを観る事などできないでしょうがバランスが大切と言う事ですかね。空中戦になっても生産的でないので打ち止めとします。

    • >万人に自明な倫理があるとは考えられません
      倫理的規範を「共通感覚」を持つ時空に限るという考え方はハンナ・アーレントのカント読みにも感じるのですが、「共通感覚」を超えた「他者」(典型的な事例としては、例えば‥‥、欧米諸国 vs イスラム諸国」)との対話と合意なくしては、カントの語る「世界市民」も「国際法」も無くなってしまいます。

      あるいは共通感覚など恐らく期待できない「未来の他者」への目的(自由)を考えるということも倫理を考えるときの重要な要素です。
      事実、環境問題が世界的課題になっているということはそのことを示しています。
      自分たちの世代が好き勝手に最大幸福を追求することでやってきた近代社会でしたが、未来の他者はこの合議に参加できないわけで、これは今では倫理的規範に反するということで、環境問題が世界史的課題に浮上しているわけです。

      原発事故問題にこれを敷衍させますと‥‥
      大気中に放射線を放射させ、あるいは海洋中ダダ漏れ投棄させ、今や日本は世界中から怨嗟の目で見られているわけです。これこそまさに世界共和国への犯罪ですし、

      セシウム137の半減期が30年という超長期にわたる大地の汚染は「未来の他者」への重大なる犯罪です。

      いずれも時空の「共通感覚」を超えたパブリック(公共的)な倫理規範の逸脱だろうと思うのです。

      ちょっと話しが抽象的になってしまいましたね、
      私の捉える「倫理」の認識とはそうしたものであり、「カント」読みの端くれの「共通感覚」です。
      優れた科学者という人々は、そうした理念、感覚というものを共有しているように思えますね。

      原発と科学者の問題はこれからも暫くはホットな問題で有り続けますでしょうから、議論は継続すれば良いでしょう。

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