工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

オジギソウを漢字て書けば・・・ 

オジギソウと言えば、被子植物、マメ科のかわいい花を付ける草花だが、葉に触れると先端から少しづつ閉じ、最後は垂れ下がる。
この時間にすればあっという間の動きが、植物とも思えず驚かされる。
このオジギソウ、漢字では「含羞草」と書くということはどれだけ知られているのだろう。
他にも「お辞儀草」と宛てる場合もあるようなので、必ずしも「含羞草」というのは一般的ではないのかも知れない。
ところが少し調べると、英字でも「a sensitive plant」という表記の仕方もあるようで、東西において共通するものがあり、おもしろく思った。
ボク自身の事を語るのは苦手だし、年齢相応の品格を備えているとは全く思えないのだが、こうした公開されているBlogを運営していれば、当然この「含羞」ということを自覚しなければいけないな、と柄にもなく思ったりすることがある。


およそBlogという自己表白バリバリのツールで含羞について考えるというのは自己矛盾とも言えることだが、そうした特異なツールだからこそ、時には自覚的でありたいと思う。
Macに向かえば、ネット上のBlogを見て回り(RSS取得で)興味の湧く記事へとジャンプすることは日課の1つとなって久しい。
それぞれとても個性豊かで、気付かされること、教えていただくこと、あるいは共感したり、反発を覚えたりと様々であるが、ただ共通しているのは既製メディアにはほとんど拾われることのない、生のささやきが漏れ伝わってくることの新鮮さがうれしい。
そうしたRSS取得しているお気に入りのBlogで、やはり親和性を覚えるのは、見識があることは必須の要素としても、どうもこの「含羞」という要素を無自覚のうちにフィルターにしていることに気付く。
翻って自身は、どうもそうしたものに自覚的でなかったかも知れず、ひとり赤面するのだが、ボクのようにモノヅクリを生業としていている場合でも、ある程度のキャリアを積むようになっても、なお、より「含羞」ということが持つ意味は大きくなってくる、と思ったりしている。
あるいは作風そのものにも「含羞」という要素の有無が問えるのかもしれない。
それはもちろん作品の優劣に関わることではなく、あくまでも個人的な美醜の判断基準に関わることでしか無いのだが、その作品から受ける美質に何某かの影響を及ぼしていることだけは疑いないだろう。
でも、その「含羞」をどのようにすれば制作対象に具現させることができるかと言う問いには明確な答えなどあるはずもない。
作者の作風と、それを可能とする練達の技、あるいは教養であり、知性と言えるようなものの領域に根ざす日々の人生の積み重ねを通してしか、生み出せないものなのだろう。
昨今、ネット上の交通ではやたらと慇懃無礼な虚礼がはびこっているようだ。
ネチズン、とか言うらしいが、若者の方がやたらと連発しているように感じる。
そうした自己防衛優先の虚礼乱発というものはここで言う「含羞」とは関わりのないこと。
そうした表面的なことではなく、品位に根ざす相互信頼と知性に基づいた暖かな交流がありさえすれば良いと思う。
シンプルでモダンな言葉のやり取りの方が意思疎通において健康的だ。

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