工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

2011.8.6 ヒロシマを想う

8.6「平和宣言」

66回目の核廃絶を願う平和記念式典が開かれた。
今年の8.6ヒロシマは例年とは少し次元を異にするものとして注目されていたようだ。
事実これまでには無い内容を盛り込んだ「平和宣言」が採択されている。

他でも無い、3.11福島第一原子力発電所の壊滅的な事故、およびその後のいつ収束するとも分からぬままに浴びせ続けられる放射線汚染という現実を前にし、原水爆禁止・平和運動もこの新たなステージに立ち向かわざるを得なかったことによる。

今年の「平和宣言」(広島市Webサイトより「平和宣言」)では、確かに福島第一原子力発電所の壊滅的な事故に関わる言及は最後段、Webページではわずかに4行ほどのものでしかない。
関連する個所を以下に引用しよう。

今年3月11日に東日本大震災が発生しました。その惨状は、66年前の広島の姿を彷彿させるものであり、とても心を痛めています。震災により亡くなられた多くの方々の御冥福を心からお祈りします。そして、広島は、一日も早い復興を願い、被災地の皆さんを応援しています。

また、東京電力福島第一原子力発電所の事故も起こり、今なお続いている放射線の脅威は、被災者をはじめ多くの人々を不安に陥れ、原子力発電に対する国民の信頼を根底から崩してしまいました。そして、「核と人類は共存できない」との思いから脱原発を主張する人々、あるいは、原子力管理の一層の厳格化とともに、再生可能エネルギーの活用を訴える人々がいます。

日本政府は、このような現状を真摯に受け止め、国民の理解と信頼を得られるよう早急にエネルギー政策を見直し、具体的な対応策を講じていくべきです。

「‥‥訴える人々がいます‥‥」などと他人事のような言い回しからしても、十分な内容と評価するにはほど遠いものがあるわけだが、しかしこれまでの「平和宣言」では決して言及されることのない、いわば聖域へと踏み込んだ歴史的なものであることも確かなのだろう。

3.11後、ここに至るまでは広島、長崎ともに様々な議論が積み重ねられてきたようだ。
原爆と原発の問題は切り離すべきとの識者からの強い提言もあったことも確か。3.11地平にあり、そうした臭いものに蓋をする思考は原水爆禁止へ向けての運動の腐敗と堕落を約束するものではあっても、世界の平和を願う人々への強いメッセージになり得るはずもなく、個人的にはほんの少し安堵したというところ。

原水爆と原発

3.11以前の原水爆禁止運動、あるいは軍縮平和運動の全般にわたり当たり前に平然と語られてきたのが〈原爆と原発の問題は切り離すべき〉というドグマであり、昨年までの「平和宣言」には決して原発への言及は無かったし、またこの問題をめぐり、原水爆禁止運動内での紛糾ということもなかったようだ。

むしろ広島においてこそ「原子力平和利用」という名の下の積極的活用が画策されてきたことはあまり知られていない。(参照:『世界』2010年8月号「宣伝工作のターゲットにされた被爆者たち─ 田中利幸)

「Atoms for Peace」

この1953年の「原子力の平和利用」(「Atoms for Peace」アイゼンハワーの国連総会における演説)と言う歴史的な演説
は、朝鮮戦争休戦後の米ソ冷戦時代の幕開けを背景とし、核開発をめぐる米ソの激烈な暗闘の過程で対ソ優位性を確固としたものとするために欧州への核配備戦略と併せる形(日本においては沖縄がその対象)で原子力の平和利用が差し出されるという経緯だった。

翌1954年3月のビキニ環礁における水爆事件で被爆した第五福竜丸事件は日本における反核・反戦平和運動の歴史的盛り上がりを見せたのだっだが(この度の3.11後の反原子力発電に起ち上がった人々の主軸が若いお母さんたちであるのと同様に、この時も杉並などの婦人たちが起ち上がったことはつとに知られたこと)、これにぶつける形で日本における「原子力平和利用」への歴史的一歩が始まっていた。
読売新聞社主の正力松太郎は米国の意を受け政界へと進出し、中曽根とともに「毒をもって毒を制する」とばかりに原子力アレルギーを高める日本社会にクサビを打ち込み、自社のメデイア(読売新聞、日本TV)を使い大々的キャンペーンを展開。
正力は1955年「原子力担当大臣」に就任し、念願叶って東海村に原子炉の火が灯ったのは1957年。

第五福竜丸事件という広島、長崎に次ぐ悲惨な被爆体験とほぼ並行する形で原子力の導入が進められていたことに衝撃を受けてしまう。
そうした日本社会のエートス、大新聞のキャンペーンに易々と屈服してしまう精神構造を顧みれば、8.6ヒロシマ、8.9ナガサキにおける「原発問題」のネグレクトは宜なるかなとの思いも無理からぬところか。

*参照:「原発導入のシナリオ~冷戦下の対日原子力戦略」(NHK 現代史スクープドキュメント 1994年放送) PDF)
[youtube]http://www.youtube.com/watch?v=DwCeud58B8w[/youtube]

しかし「原子力平和利用」(Atoms for Peace)なるものの欺瞞性、政治的プロパガンダとしての本質というものが、3.11福島第一原子力発電所のカタストロフ的事故によって暴かれてしまった今、あらためて「原子力平和利用」の名の下での原子力発電推進を「国策」として我が物顔に進めてきた歴史と現実というものを見据え、3.11後のエネルギー戦略というものを責任ある個人の一人(原発反対運動に関わることなく実質容認してきた者として)として考えていきたいと思う。

朝鮮人被爆者

ボクはかつて電力会社の社員として働いていたことは前のBlogでも独白してきたのだが、ここを退社する前後、大江健三郎の「ヒロシマ・ノート」をポケットに突っ込み、数回にわたり8.6広島に出掛けたことがあった。
当時大阪までは開通していた新幹線だが、これを利用することもなく、夜行の急行に長時間揺られ、疲れ切った身体で炎暑の広島の街に降り立ったものだった。

いくつもの印象的なことが今も想い浮かべることができるが、その1つに朝鮮人被爆者のことがある。
当時広島で被爆した朝鮮人の人数は定かでは無いのだが(置かれた厳しい環境からその把握は十分なものではない)、約50,000人ほどと言われている。
広島市の被爆者総数約420,000人の12%という高い数値を示すが、これは軍都広島に多くの朝鮮人が強制連行などで徴用され、被爆していたことが伺える。(参照:「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」

しかし彼らは平和公園のあの立派な慰霊碑には祀られていない。
平和公園外本川の対岸にひっそりと「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」が建っており、ここに祀られている。
帝国主義戦争の帰結として8.6広島があったというのに、当時は日本人として軍属に、あるいは労働者として駆り出され、最も過酷な労働現場でこき使われていた彼らは、殺されてもなお差別され続けている(長年にわたる被爆者援護の埒外におかれるなども含め)という現実を前に、慰霊碑に向かいただ項垂れ涙するしか無かった。

「安らかに眠ってください。過ちは二度とくり返しませぬから」
とは平和公園の慰霊碑に刻まれた立派なメッセージだが、朝鮮人被爆者の存在を前にすると、「唯一の被爆国・日本」という迷言とともに、その白々しさに複雑な思いを胸にしまわざるを得なかったものだ。[1]

「原子力平和利用」なるものの帰結としての3.11フクシマ

そして3.11後を生きるボクらとしては、あらためてこのメッセージのウソを感受せざるを得ないないというところに立っている。
「原子力平和利用」なるものの帰結が3.11福島第一原子力発電所のカタストロフ事故による被曝の再現であったことを思えば「過ちは二度とくり返しませぬから」の約束は、残念ながら破られてしまったということになろう。

ヒロシマ・ナガサキの再現どころか、これらを数倍する放射線が大気中に飛散し、国土が広く汚染されてしまっている。
その汚染は福島県を大きく超え、東日本から全国へ、果ては数千Kmを旅して地球全域へと拡散しつつあることは明らかで、その責任のあまりの重さに言葉を失う。

先のBlogで紹介した児玉龍彦氏の陳述では広島原爆の20個分(ウラン換算)が放出されてしまったと語っていた。

今、3.11後を生きる日本人の一人として、8.6広島を思うとき、これまでの反核・平和運動の実態に思いを致し、「原子力平和利用」なるもののドグマを超え、真に科学的な識見を獲得し、原子力からオサラバし、新たな再生へと向かう道しか、恐らくは残されていないように思う。

* 灯籠流しの画像はLuis RodriguezさんのCC公開のものを借りました

《関連すると思われる記事》


❖ 脚注
  1. 「唯一の被爆国・日本」というウソ:広島への「リトルボーイ」、長崎への「ファットマン」投下前の「マンハッタン計画」下のニューメキシコでの人類史上初の核実験からはじまり、マーシャル諸島、ネバダ州での核実験、あるいはロシア、フランスなどの競い合う大気中の核実験は、実験当事者をはじめ、その地域の多くの人々に被曝を負わせ、また地球上の大地を広大に汚染させてきている。
    また1986年4月のチェルノブイリ原子力発電所事故では、その後の放射線被曝による死者数は数百人とも数十万人とも言われる(因果関係での立証の難しさ)。
    「唯一の被爆国・日本」という捉え方は、こうした歴史的事実を考えた時、その捻れた特権意識、被害者意識への一方的な偏倚の誤りを認めざるを得ず(太平洋、対中国20年戦争の敗北を一方的な被害者として捉えかねない危うさ)、加えてこの度の3.11フクシマというクライシスは、被曝の加害国として、歴史に深く刻まれることになったことに思いを致す事が求められる []
                   
    

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