工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

「もう、間に合わないのでは」

蝉時雨
焼け付くような炎天下、高鳴る蝉時雨をくぐり抜け、市民総合病院での呼吸器疾患、定期検診を済ませ、その足で父と兄などが眠る隣町の墓前に花を供える。
和尚と二言三言言葉を交わし、太陽が真上近くになる時間には位牌を管理している母の在所へと向かう。
80半ばを越える母はまだまだ元気で、笑顔で迎えてくれたが、一昨年に長兄を亡くしてからは衰えは隠せない。
「お茶は冷たいのと熱いのとどっちが良いの?」と、母が仏壇に合掌を終えた頃を見計らって言葉を掛けてきたが「熱っつい奴を」と答える。
兄が残した築後数年の立派な家だが、母の部屋は北と東の窓が開け放たれ、風が抜けるせいか扇風機とうちわだけで十分にしのげ、真夏の日中とも思えぬおだやかな時間が流れ、妻、亡き兄の妻、母、4人で暫く昔の話しに興ずる。
それぞれ就学時の頃の他愛ない話やら、亡き兄、亡き父の思い出やらが続き、最後には戦時中の話しと移っていった(いえいえボクはこう見えても戦後生まれ、ですが)。
しかしボクの近い親族には、もはや戦争を語ることのできる者はいない。
女は母を含め長命で数人がいるが男どもはさっさと鬼籍へと埋もれてしまっている。
63回目の敗戦記念日(『終戦記念日』などどいう実態を糊塗し、覆い隠すような呼称には多くの問題が隠されている)を迎えて、多くの家庭がほぼ同じような状況にあるのではないだろうか。


凄惨な戦場を体験した兵士の多くは既に亡く、塗炭の苦しみの中を生き抜いた銃後の人々も高齢で、決して進んでは当時のことを語ってくれるものでもない。
残念だがしかし国境の外からは時折63年前の事を俎上にしての物言いにあふれかえることがある。
この時間帯に闘われている北京五輪の女子サッカー、日本対中国戦の観客席には約8,000席をサクラで埋め尽くすのだという。
言うまでもなく、8月15日というメモリアルが意味するセンシティヴな問題の過熱を懸念してのことだ。
ボクたちにとっては、とかく過去のこととして歴史の屑かごにうち捨てられたもののように風化してしまっているようだが、近隣の他の国々の人々にとっては今なお敏感で熱い問題であるのだろう。
95年にWindowsがブレークし、間もなくネット社会の訪れと共に、等しく誰にでも様々な情報が居ながらにして取得できる“ありがたい”社会が到来した。
しかし情報の解放を与えられたとは言っても、知的活動が勢いづいたということになったとは決して思えないところに困難があるのではないか。
いやむしろサイバーサイトで無数に飛び交う言葉は軽くなるばかりで、低劣でおぞましい言葉が幅を利かす。
残念だが自我を鍛えるツールとして活用されることはまれであるようだ。
近代的精神の開花を準備したのが言論であり、知的活動の大衆化であったことと較べてみれば、いかに近代史の中にあって情報通信の革命的な解放ではあったかもしれないが、その情報通信も金融とモノを売り買いする分野では強力ではあっても、自己を鍛え、そこからさらに人々の思いを繋ぎ、歴史の負債を乗り越えていくだけの強さを獲得するためのツールとして有効に使い倒しているとは言えない。
父や母の時代の負債とはいえ、まるまる戦後を生き抜いてきたボクらにもそれは引き継がれねばいけないのに。
今もなおそこにある問題を回避していたのでは、決して前には進めないだろう。
毎日新聞紙上でこの3月まで続けられてきた「高村 薫さんと考える」では、今の時代精神というものに匙を投げたかのように「もう、間に合わないのでは」と語っていたのが印象的だった。
これには同意せざるを得ないと思わされる反面、オポチュニズム的に、「いやまだまだ、これから‥‥」と反論したいとも思うのだが、何となく弱々しい声で情けなくもあるのも事実なのだ。

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  • 1枚目の蝉の写真に触発されて詠んだ歌:
    人の世の遷り変りを見し樹々に蝉一心に鳴くいまこの刻(とき)を まさとし
    2枚目の写真=現代版盂蘭盆の供花のオブジェ、素敵ですね。奥さんの作品でしょう?
    さて、「もう、間に合わないのでは」と、そこで黙り込んでしまったら、日本の戦後はますます風化してしまいます。「もう、間に合わないのでは」と焦り、危惧しつつ、それでもだれかが今の時代に警鐘を鳴らし続けなければいけない。いや、だれかではなく、「われわれが」です。
    米寿ちかく生き来し母よ戦争の記憶語らずデイケアにゆく まさとし
    元気なうちに、もっともっと戦争に関することを訊いておきたい。もう、いまとなっては嫌な思い出をあまり語りたがらないけれど。
    二歳にて防空壕に麻疹うつり姉は死にたりいまも赤子よ まさとし
    サイパンに水漬く屍(かばね)と果てし叔父新妻遺し戦(いくさ)とは何 まさとし
    ケータイを位牌のごとく掌(て)に持ちてニホン人ゆく敗戦記念日 まさとし
    敗戦の焦土のこれる国に生(あ)れ還暦迎えんひとり職場に――SOHO勤務 まさとし

  • 江戸の風に吹かれてさん、何首も紹介いただきましたが、別途あらためて読ませていただきたいものです
    まずは同世代ということもありますが、1つ1つが、良く分かるように思います。

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