工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

世界の過酷さ、哀しさ、美しさ、そして地球の原初への賛歌《セバスチャン・サルガドー 地球へのラブレター 》映画

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セバスチャン・サルガド(Sebastião Salgado, 1944年2月8日 – )については、このBlogでも過去何度か取り上げてきたこともあり、数冊の写真集とともに、それなりの印象を持っていたはずの積もりだった。

例えば、故郷を飢餓のために追われ、荒涼とした砂漠にボロを纏い立ち竦む一人の少年。肋骨の浮き出た犬を伴い、数個の食器を携え、視線も定まらぬままに、希望無き明日へ向かおうとしているかのような1枚の写真がある。

行き倒れになる旅路であるのかも知れないが、しかし留まっていることもできない。
あるかないかも分からない希望だけれど、留まっていれば死を迎えることだけは少年にも分かるのだろう。
明日を信じるのが、若い生命に与えられた特権だからだ。

この人間存在への限りない尊厳と希望。

状況も環境も、とことん悲惨なものだけれど、しかし明日を掴みにすっくと立ち、勇気を振り絞り、歩き出そうとする少年に仮託された希望をこそ、サルガドは切り取って見せてくれる。

こうした想像力を喚起させてくれる数々の写真に、他のフォトジャーナリストにはない、希有の才能と豊かな感性、そして常に内省的な視座を失わない人間性をそこに見出すことができる。

またそれが見事なまでのアングルと背景とのバランス、そして被写界深度、あるいは光量とコントラストはもちろんのこと、まるでスタジオ撮影であるかの如くに、完璧な写真として撮影処理されているのである。


しかし、このヴィム・ヴェンダースによる映像作品は、私のそれまでの断片的な印象を更新させ、少し体系的に、より確かなものとして定着させてくれるものだった。

近年の成果「GENESIS」(2013)は、これまでのように南米、東南アジア、アフリカといった、いわば現代世界の周縁部に、生き、働き、暮らし、死に至る、人々への限りない慈愛と尊厳というものを、白黒のモノトーンのフィルムに定着させ、美しく描ききって作品化してきたものとは少し違い、ガラパゴスなど未開の地に取材を敢行し、美しく荘厳な地球の原初の世界を描くことで、サルガド自身のカメラマンとしての再生を果たしたものとして、かなり位相を異にするものだった。

「再生」と言い表し、なぜこのような被写体の大きな転換があったのかと言えば、中央アフリカの飢餓、内戦の現場に取材し、現地住民とともに生活し、撮影し、作品化し、しかしその過程で彼自身病んでしまったことが、大きな要因だったようだ。

それは彼の手による写真集に接近すれば、ある程度は想像できる彼の地の過酷さであるのだが、観る者と、撮影するカメラマンとは明らかに被写体との距離も違えば、その時空から感受されるものも異なってくる。
しょせん鑑賞者は香り豊かな珈琲でも手にしながら、エアコンの効いた快適な空間で疑似体験することができる程度だ。

サルガドの撮影行は他のフォトジャーナリストのように、その目的地に足を運び、取材対象者と交渉し、成立すればカメラを構え、目的とする成果が得られればさっさと帰還する、といったものとは違い、数ヶ月から数年に渡り、彼らの居住地域に暮らし、相互のコミュニケーションが執られるまで待ち、やっとカメラを構えるという風であり、あの荘厳さを持つ美しさとはそうした被写体との関係性が表白されたものであるのだろう。

したがって、スーダン、ルワンダ[1] 、タンザニアなど中央アフリカの飢餓、内戦という過酷な状況から産み出される人々の苦悩、貧困、疾病などは、カメラマンになる以前から通い詰めていたサルガドにあっても、心を病み、傷ついていくことになる。

ただ彼はこれらの写真を通し、そうした被写体を哀しみ、哀れなる対象として見やることを拒否していることは知っておきたい。

なぜなら、それは西洋文化から観た非西欧文化への支配者としての視座が現れてしまっていることを意味するからで「ただ哀れみだけを感じさせたとしたら、それは自分の写真が間違っている」と語ってもいるからだ。
つまり、エドワード・サイードの《オリエンタリズム》で強く指摘された西洋文化の欺瞞性である。


しかし、そうした知的な態度と、豊富なアフリカ体験をもってしてもなお、傷ついた魂の修復は必要だったようで、その場所は、彼の故郷、ブラジルの森だった。

彼が中等教育を受けるまでは両親が経営する牧場周囲の世界だけだったのが、街に出ることではじめてお金というものに出逢い、市場経済に面食らっていく様子も語られるのだが、それほどに故郷は前近代的社会のままで、しかし人が生きていくことでは、十分に豊かさだった。
それが急速な近代化の波に洗われ、牧場を取り囲む山々は皆伐採で荒廃し尽くされていた。

妻のレリアの提言もあり、一念発起し、これら周囲の山々に大規模な植林事業を展開し、すばらしい森に返していく。(その様子が描かれたサイト

💥関連するTEDでのプレゼン

蘇った森の精気にも助けられ、快復した魂が向かったのは、サルガド最後のプロジェクト「GENESIS」だった。
ナミビア砂漠、ルワンダのゴリラ保護区、そしてガラパゴスなどの未開の地である。
そこはまさに地球原初の姿があり、ホモサピエンス発祥の地で、私たちの起源の地を訪ね、現代世界をそこから照射し、未来を考えるといった風の企画だ。

監督・ヴィム・ヴェンダースについて

私はヴィム・ヴェンダース(Wim Wenders)の映画はかなり初期のものから親しんできており、好きな映画作家の中でも上位にランクされる監督だ。

ここ最近は偉大なアーティストを被写体としたドキュメンタリーが続いていたが、サルガドのこの映像化ももまたその路線上にあるとも言える。

前2作とも、音楽界、映画界に衝撃をもって迎えられた不朽の名作である。

そして今回のセバスチャン・サルガドだが、ヴェンダースは〈AFRICA〉シリーズに魅入られ、盲目の女性など2枚のプリントを自分のデスク上に掲げていたとのことで、パリに事務所を構えるサルガドとの交流へと発展していったそうだ(「GENESIS」の頃)。
その後、サルガドの長男・ジュリアーノ(映像作家)とともに、サルガドの撮影取材行に同行しつつ、本作の企画へと進んでいった。

サルガドとヴェンダース

サルガドとヴェンダース

息子のジュリアーノ自身も既に父親の撮影行に長く同行していたことから、多くのフィルムを残してきたものの、第三者の眼を必要としていた時に、ヴェンダースとの出会いがあり、本作での共同監督という立場から制作にあたった。

サルガドの写真はその取材対象、被写体の過酷さを考えた時、余りにも美しく、その点からの批判もあるように聞くが、それはいわゆる一般的な報道写真とは異なり、徹底して被写体に迫り、時には同一化し、入れ込み、同衾し、というプロセスを介すという時空の濃密な関係性が写り込むからなのだろうと思う。

それは優れたジャーナリスト的な眼を持ちつつ、同時に被写体への限りない尊厳をバックグラウンドとしたものであるからこその成果なのだろう。


ヴィム・ヴェンダースが魅入られたように、私もまた彼のプリントの数々に打たれ、シャッターが押されたその瞬間へと飛翔し、その時空を思い遣るのだ。

サルガド未体験者でも、この映画に触れたらば、たぶん多くの人が写真集へとアクセスし、サルガドの人生の旅路を追体験するようになるのではと期待する。
写真作品が大きなスクリーンに映し出されるだけでも、観る価値は大きいと言えるだろう。

そこには近代社会が見失ってきた人の営みの原初的な形態を見ることができるだろうし、またあまりにも非対称な現代世界の構図を見せつけられ、自己の立ち位置を振り返るきっかけになるかもしれない。
そしてやがてはこの大気と水に覆われた地球という奇跡的な星に生き、暮らす人々の荘厳さに打たれるだろうと思う。

お薦めです。

まだ国内、各地域での上映予定がありますので、アクセスしてみてください。


《セバスチャン・サルガド/地球へのラブレター》

原題:〈The Salt of The Earth〉

 監督:ヴィム・ヴェンダース
 制作国:フランス/ブラジル/イタリア
 制作年:2014年
 配給:RESPECT / トランスフォーマ
 公式webサイト(日本)
   Facebook(こちら


〈追補〉2015.11.19
「NHK日曜美術館」のアーカイブTV映像(「極限に見た生命の美しさ ~写真家セバスチャン・サルガド~」)がありましたので、URLを貼ります。
http://jp.channel.pandora.tv/channel/video.ptv?ch_userid=fx_keaton&prgid=36867146

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❖ 脚注
  1. 1994年、フツ族とツチ族の抗争がジェノサイドと化し80〜100万人の犠牲者を出し、大混乱となる []
                   
    

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