工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

フクシマ状況下の「流言飛語」「風評被害」

ボクは「風評被害」の加害者?

週末恒例の鮮食買い出しの店頭の棚には福島県産の野菜が、
「つながろうニッポン」のキャッチコピーとともに。

一瞬、手が伸びたものの、結局その手は引っ込められ、買い物かごには入らなかった。
こうした消費者の作法が「風評被害」と指さされることになるわけか。

さらに言えば、これから記述する内容はもしかしたら「流言飛語」に類するものとして指弾されてしまうかもしれない。

4月6日、総務省から1つの文書が出された。
「東日本大震災に係るインターネット上の流言飛語への適切な対応に関する電気通信事業者関係団体に対する要請」というもの。

 本日、「被災地等における安全・安心の確保対策ワーキングチーム」において、「被災地等における安全・安心の確保対策」が決定されました。
 同対策においては、東日本大震災後、地震等に関する不確かな情報等、国民の不安をいたずらにあおる流言飛語が、電子掲示板への書き込み等により流布している状況に鑑み、インターネット上の流言飛語について関係省庁が連携し、サイト管理者等に対して、法令や公序良俗に反する情報の自主的な削除を含め、適切な対応をとることを要請し、正確な情報が利用者に提供されるよう努めることとされています。
 同対策を踏まえ、総務省では、社団法人電気通信事業者協会、社団法人テレコムサービス協会、社団法人日本インターネットプロバイダー協会及び社団法人日本ケーブルテレビ連盟に対して、東日本大震災に係るインターネット上の流言飛語について、各団体所属の電気通信事業者等が表現の自由に配慮しつつ適切に対応するよう、周知及び必要な措置を講じることを要請しました。 

農家 男性の自殺とボクたち消費者

3月24日、福島県須賀川市で有機栽培農家の男性が自殺する(asahi.com[福島の野菜農家が自殺 摂取制限指示に「もうだめだ」])という、実に痛ましい報道は今もボクのフクシマを巡る想念の1つとして消え去ることはない。
ちょうど石巻で災害支援活動を行っている最中、iPhoneから取得したニュースだった。

こうした自死を選ぶに至らずとも、激しく苦悶している農家は数知れない。

トマト、きゅうり、小松菜、キャベツ、ほうれん草、ブロッコリー、かぶ、水菜、パセリ、サニーレタス、春菊、しいたけ、サンチュ、ちんげんさい、etc、etc

初夏を迎えた畑の野菜は滋味豊かでさぞ美味しいはず。
しかし、放射能にまぶされた野菜は、生命体が摂取するにふさわしいものであるかはもはや議論以前の問題であるだろう。

次のデータは文科省がプレス向けに作成している公的資料だが、いまだにフクシマ第一原発から20Km以遠においても高濃度の放射線量を観測していることからすれば、これらの地域で生産されたものを「がんばろうニッポン !」のかけ声と共に口に運ぶことが、どれだけ被災者への支援となり、どれだけ日本人の生命体の健康を維持することにつながるのか、凡庸なボクの理解力では受け入れることにはならない。(PDF:福島第一原子力発電所の20km以遠のモニタリング結果

またこうした物言いを「流言飛語」と呼ぶのであれば、甘んじて受けるしかないか。
「風評被害」として指弾されても仕方が無いのか。

では聞こう。
中国製の冷凍餃子で中毒事件が起きたのは記憶に新しいが、日本人の誰もが購入をためらい、いそいそと自分で餃子を作るというブームがあったのもついこないだのこと。
あるいは、こんなことはなかったかもしれないが、チェルノブイリ周囲で生産されたヨーグルトをあなたは口にできるだろうか。

他国の問題と自国のそれとは次元が違うだろ、というご意見があるかもしれない。
またその程度でわめくな、という人もあるだろう。
私は買って上げたいわ、という人がいてももちろんおかしくはない。
そうした人とともに、でもやはり口にしたくない、我が子には食べさせたくない、という人の思考スタイルを一律に「風評被害」とするのは果たして正当なことなのだろうか、という問いである。

同様にフクシマをめぐっては海外での過剰とも思える「風評被害」はオイオイ、とも思うが、冷静に考えれば、そうした反応も故無きことではないということも理解されねばならない。

ボクたちはそうした状況、そうした時代を生きているという認識が必要だと言うことだろう。
安易な「つながろうニッポン」的抑圧に与することが、真の意味での被災者への支援にはなりえず、「風評被害」と概括されるあいまいな基準の下でのキャンペーンは、消費者への恫喝であり、美味しい野菜を届けようと朝早くから畑に出掛け、鍬を振り下ろす農家と、これをありがたく頂戴する消費者との関係をズタズタに分断しようとする、巧妙な策略以外の何ものでもない。

それはフクシマの設置運営事業者の東電、あるいは政府当局者、そしてそれらを受容してきたボクを含む人々の責任をあいまいにし、すり替えるだけのこと。

「風評」が拡散しているのではなく、拡散しているのは「放射線」の方なのだから‥‥。

汚染野菜と「内部被曝」

今、TVのワイドショーでは連日のように「内部被曝」に関わる話題でもちきりのようだ。
外部被曝に較べ、とてもダメージが大きいということは確かなようだが、そもそも個人の被曝線量がどれだけ人体にダメージを与えるかという研究というものは、ヒロシマ・ナガサキへの原爆投下による被害から始まった分野であり、まさしく軍事科学のためのデータ検証であったことは良く知られたこと。

したがってここでは残念ながらと言うべきか、内部被曝に関わる「科学的な基礎研究」も十分なものとはなっていないということであるようで、今後のフクシマ被ばく者のによる東電を被告とする提訴、あるいは国家賠償請求においても、「科学的立証」を困難にするのではないかとの怖れを指摘する専門家も少なくないそうだ。

つまり、そうした訴えを「デマ」としてふるい落とされる懸念もあるわけだが、さんざん信じ込まされてきた「原発安全神話」なるものがガラガラと崩壊してしまった今、ボクたちは政府当局者、原子力村の専門家センセイへの依存体質から抜け出て、市民の力で、原子力村から排外され続けてきた真っ当な科学者と手を携えて、自分たちの健康を維持する方法を見いだし、被災者とともに再生へ向かって歩みを始めるしかないだろう。

放射能が降っています。静かな夜です。

(福島市の詩人和合亮一さんのツイッターから)

放射線はただちに健康に異常が出る量では無いそうです。
「ただちに」を裏返せば「やがては」になるのでしょうか。
家族の健康が心配です。

(同じく)

野菜に降りかかる放射線量は例え低レヴェルであったとしても、低線量放射線被曝のリスクは「ただちに健康に異常が出る量では無い」かもしれない。しかし「やがては」人体を蝕むものとしてうごめき始める毒素を体内に取り込むということになる。

台風2号。超巨大な威力を持ち、虎視眈々と日本列島を伺っている。
各地、注意を要するのはもちろん、フクシマをはじめ、その他の被災地にさらなるダメージを与えることのなきよう、今、静かに祈っている。                                    
                                              
神など信じたこともない男が、フクシマ以降、すがりつくものが欲しいと思う変節ぶりである。

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  •  >「風評」が拡散しているのではなく、拡散しているのは「放射線」の方なのだから‥‥。
     仰る通り。 情報を操作することは止められないことなのですが、だからこそ、「自身で感じる」ことをもっともっと大事にしなければいけませんね。
     板に手を当てて、持ち上げて、削ってみて、放置して、感じることと、含水率を測ることや銘木屋さんの話を鵜呑みにすることとは全くの別ものです、データはデータ、そこからの解析が個人個人にもっと必要ですね。そういった行いが少ないから簡単に操作されてしまいます。
     流行や趣味ならいいですが、生命に関わることにはもっと真剣に五感を働かせるべきなのでしょう。

    • 「情報」をキーワードとして、「フクシマ」、「木の仕事」を横断する批評的視点というわけですね。
      加えて「生命」も双方に掛かっているのでしょうか。

      放射能も木材の内部も、その真実への接近は困難。そこで重要になってくるのが五感というわけですね。
      まぁ、放射能は見えませんし、臭いませんし、感じませんね。
      ただ、その情報をどのように受け止めるかは、受け手のリテラシー(情報解析能力)次第。

      専門家なるものの実態、安全神話なるものの実態、それらが白昼の下に晒された今、どの情報を信ずるのかは、その人の五感に依る、という理解で良いのでしょうか。

      違っていたらご指摘くださいね。

      たいすけさんには小さなかわいいお子さんがいらっしゃるので、その受け止め方も傍観者ではあり得なかったのではと推察いたします。
      「未来の他者」の尊厳と生命が掛かる重大な問題ですからね。

  •  artisanの筆(キーボードか)を通すと、僕の拙い考えが理路整然としますね。
     誠にその通りです。 フクシマについては本当に困惑しています(表には出せないですが)、内心、おろおろとしているというのが本音です。先代が「戦争」を異常なまでに恐れていたのが判る気がします。
     将来になって、「あの時のことは間違いでした」と言われても、その時には遅いですし、それを見逃したことが次の悪例を生んでいるように思います(以前、このようなネタをお持ちでしたね)。
     

    • >先代が「戦争」を異常なまでに恐れていた
      私も先の戦争については、様々な話に触れ、様々な書を紐解き、様々な映像に接してきた積もりですが、しかし体験された方の受け止め方とは、埋めがたい断絶があるだろうことも知らねばなりません。

      この度の2010.3.11、わけても「フクシマ」は“第2の敗戦”とでも言うべき事態ではないかとさえ考えていますが、それほどに過酷なものです。
      しかもそれは、「敗戦後」なのか、いやいやそうではなく「戦時中」であるのかも知れないという、先が見えないということでの、実に困難な事態を抱え込んでしまっているという特異性があります。

      何としても、この「戦時中」というトンネルから抜け出る方策を見いだし、「戦後」の歩みを開始するところへとステージを上げていかなくてはなりませんね。

      つまり一方で「戦時中」を抱えながらも、他方で「戦後」の歩みを大車輪のように進めるという難しさがあるわけですが、「新しい再生」(復旧ではなく、新たな再生というところが重要)への兆しもいろいろと見えてきていますので、そこに希望を見いだして、努力していきたいです。

      たいすけさんは、これからの時代を担う責務もおありですし、またそれにふさわしい資質をお持ちと拝察していますので、そうした劈頭でがんばってくれるものと信じていますよ。

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