工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

椅子の試し方文化

撫子
椅子の善し悪し、品質の基準というものはいくつもあろうが、やはり他の家具と違って座り心地という要素が重要で人体が触れてみなければ解らない。
展示会などに出品する椅子はその座り心地の品質を理解してもらうために積極的に座ってもらうように誘導する。
さて、過日ある椅子の公募展に入選した椅子が展示終了で戻ってきた。全国巡回してほぼ18ヶ月になるだろうか。
多くの方々のお尻に座られてさぞ嬉しかっただろうと思う。椅子の方が照れるような美女もいただろうし、野獣に座られ喘いだかもしれない。
したがって多くの傷が付いて帰ってくることは覚悟していた。もしかしたらホゾが緩んでいるかもしれない(エアコンが効いた会場という過酷な環境で長く晒されたということからして)という不安もあった。
結果、ホゾのゆるみは全くなかったし、座板部分などにはむしろツヤが出て(多くのお尻で磨いてくれたため?)良い感じになっていた。
大きな破損が無く戻ってきたことはありがたい。展示会場の関係者の配慮には感謝したいと思う。
ただやはり小さなものだが多くのキズが付いていた。
キズは座板部分を除けば、背の帯(オビ)部分(背もたれの下部の貫のこと)がかなりのダメージを受けていた。


これは断定するにはその確証があるわけではないが、恐らくは腰の後ろ部分に何かキズが付くようなものを身につけた状態で座った事によるものであろうと考えられる。
これは自分が立ち会った展示会場でも多く見かけたことだが、女性などは「どうぞお掛けください」と誘導すると、では、と掛けてくれるのは良いのだが、背中側に回したショルダーバッグ、あるいは腰のポーチなどをそのままの状態で座り込むことが決して少なくないのだ。こちらは冷や冷やしながら見てるしかないのだが、椅子の掛け方、マナーに欠ける触れ方には困ることもある。
座るように誘導されたからというだけではなく、それなりに興味があって座ったのだろうけれど、邪魔者を腰に抱え、背中をしっかり椅子に預けるような座り方ではなく、ちょこんと掛けるだけでは座り心地など解らない。「あら、いいわねこの椅子…」、と言われても、何と返事して良いやら。
恐らくは帰還したこの椅子のキズもそのようなことからのものと推察することが妥当だろう。
ぜひ購入前の椅子のお試しは、基本的で、当たり前で、最低の、マナーは考慮していただきたいものだ。
仕方がないから1部削り手直ししたり、全体的にサンディングし直し再塗装だ。
ところで展示会場での作品への接し方についてもここでついでに触れておきたい。
展示会場に出品するものは多くの人が観覧することになる。椅子ではなくキャビネットなどでも基本的には直接触れても構わないようになっているだろう。
そこで1つ残念なことだが、同業とおぼしき人が例えばキャビネットの抽斗などを荒っぽく出し入れしたり、ひっくり返してその仕事を観察したり、という光景に出会うことがある。
作家にすれば全てを白日の下に見てもらうことを望むであろうが、しかしそこにおけるマナーというものが自ずからあるだろう。
私見では、家具などというのも平面の美術品と同様に触れずに観覧することで十分その品質、美的価値は判断できるものだろうと考える。
内部などはあえてひっくり返して見なくても、外観からその作家、職人の腕の力量は推量できるものだろうと思う。
これが一般の人ではなく、同業の人であればなおのことあてはまる基準ではなかろうか。
その上でなおかつ内部を見たければ、あるいはその仕事のディテールを知りたければ、会場関係者に、あるいは作家が立ち会っていれば直接その事情を話し、許しを請うた上で希望を叶えれば良いだろう。
恐らく多くの作家は気持ちよく自身でその客に解説をしてくれると思う。
椅子への接し方、家具への接し方について何も難しいことを要求しているのではなく、その作品、商品への敬意を込めたそれでありたいと思うのだ。
top写真は本稿とは全く無関係な「撫子(なでしこ)」
花言葉「長く続く愛情」(この花の命は短い。ましてや手折って活けても数日の命、なのにこの花言葉?)
近くの野原で毎年この時期に目を楽しませてくれる。
今日6日は入谷鬼子母神の朝顔市。そして「朔」新月。
明日の七夕は天気さえ良ければ天の川の観測には良い月齢だろう。
そして7月7日は盧溝橋事件の日でもある。(日中戦争の発端になったといわれる発砲事件 1937年)

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  • こんばんは。家具の展示会はおっしゃる通り美術品をみるのと同じだと思いますね。つい近づいて細部を確かめそこをクリアするとおもむろに下がって全体を見るというように。でも平気でバッグをおいて整理を始める姿をつい先日も目撃してはらはらししました。どうしてそういうことが出来るのか!…作者のかたもいらっしゃるのにです。
    川原撫子がもう咲いているのですね。涼しすぎます。夏はやってくるのでしょうか。

  • 木工作家として、出展した作品の無事を慮(おもんぱか)るその気持ち、よくわかります。すこし大袈裟にいえば、これまで手塩にかけてきた娘を嫁に出したような父親の気持ちに似通っていませんか……。
    じつは、昨年1月、貴君が阪急梅田で個展を開かれたとき、はじめて観に行き、10年ぶりかの久闊を叙したものでした。そのとき、貴君はもう忘れていると思うけれど、わたしにはきわめて印象的な一言が、いまでも鮮明に蘇ってきます。
    それは、木工には度素人のわたしが、貴君の作品である一枚板のテーブルの上に何気なく紙をおいてメモしようとしたとき、それを目ざとく見つけた貴君が、そっと、「テーブルに傷がつくから」と、注意してくれたことです。
    「あっ、そうか!」これは、うちにあるような傷だらけのキッチンテーブルではなくて、貴重な作品だった。それに気づかなかったわたしが、迂闊だった。
    そのとき、はっきりと知りました。ああ、これがプロなのだ。木工作家にとって、作品こそ、命なのだ、と。
    話は、がらっと変わります。撫子の写真、とっても素敵ですね。だけど、裕次郎君、ちょっとピントが甘いよ。ジューンブライドのときの写真は、後方がうまい具合にぼけていて、よかったけれど、これは花の生命をきちんと表現しなくちゃいけないから、ピントはぎりぎりまで合わせなくっちゃ。三脚を立て、レリースを使って、焦点深度をもっと上げたほうがいいよ。
    恐れ入谷の鬼子母神。もう、朝顔市の季節になったんだねえ。わたしも東レ時代に5年ほど、東京は田端に住んでいた(芥川龍之介の旧居のすぐ近く)ので、なつかしい……。ちなみに、末の息子は、本郷の東大病院分院で生まれました。うちで唯一のトーダイ出身です(爆笑)。再見

  • aiさん コメント感謝します。
    まだまだボクらのもの作りへの社会的評価が低いということと、残念ながらそうした粗末な扱われ方しかしてもらえない力量のなさの両方ですかね。
    あるいはまた大衆消費社会を経てきて、本来持っていた日本人の徳「もったいない」文化の廃れの現象の1つでしょうかね。
    マーサーさん 
    > 一枚板のテーブルの上に何気なく紙をおいてメモしようとしたとき、・・・「テーブルに傷がつくから」と、注意してくれた・・・
    そんなことありましたか。
    なかなか一般の客には言い出せないものですがね。
    撫子、ピント甘。
    その通りです。掲載にあたってはどうしようかと思ったけど写真のネタ切れで、ドモ。

  • ものづくりの方達に敬意を表する人が増えてきているのでそんなに捨てたものではありません。このところお客様のなかで10数年にわたりうつわを買い続けて食器棚の中にキシっと揃えられた方が増えてきました。何しろ5客売りできていましたのでしっかりした食器棚になっている訳です。その方達が家を建てたりリフォームそしたりする段になり、設計を依頼する訳ですね。
    そうすると建築士の方がうつわやを覗きに来てくださるんです。施主の好みの源がどこななのか、暮らしに対する考え方をどこに反映させたいのか、家、家具、日用品であるうつわを、きっとLINKさせて考えられる建築士が増えてきているのではないかと想像しています。
    最初からそう思ってお客様に説明してきてはいるのですが、随分と時間のかかることなのですね。次に生まれてきて職業を選ぶとしたら環境破壊をしない建築家ですかね…(笑)
    家具作家もいいし…。

  • aiさん 再度のコメント感謝です。
    >次に生まれてきて職業を選ぶとしたら環境破壊をしない建築家ですかね…
    ボクも同様かな。ボクの場合は最初から人生踏み外しちゃっていましたから、半端な木工家もどきで口に糊してますが、グランドデザインができるような建築家はあこがれでしょうか。
    しかしね、やっぱりあらためて人生やり直すとはいっても、また同じような人生しか歩めないような気もしますね。
    才能、資質、価値観、なかなか替えることは難しいかもしれない。
    もの作りへの敬意という言い方はちょっと十分な説明になっていないかもしれない。ものを作る人への敬意というよりは、モノそれ自体への敬意、そのバックにある文化とか、気の遠くなるような時間を掛けて築き上げられてきた先人達のモノづくり文化への敬意という意をもう少し鮮明に込めるべきだった。

  • >ボクの場合最初から人生踏み外しちゃっていましたから、
    だけどさ、裕次郎君、われわれの高校時代の仲間を見たって、「人生踏み外していない」奴って、いるかい?
    第一、「人生踏み外」すって、どういうことさ? 初めは、まともにサラリーマンしてた奴が、ほかの道に突っ走ることを言うのかい? それなら、おれの知っているだけでも、枚挙に暇がない。
    それにさ、サラリーマンでありつづけることに、ある日忽然と疑問を抱き、悶々と悩み、とうとう drop out する人は、すごく勇気のある人だとは思わないかい? 世の中のたいていの勤め人は、多かれ少なかれ、サラリーに縛られて、もっとはっきりと言うと、月給がもらえ、ボーナスがもらえるから、仕方なく毎日、勤めに行っているんじゃないか。
    それを考えると、君のとった行動は、君だからできたことで、それだけ人間としてのエネルギーに溢れていたからだと、わたしは半分羨ましさを込めて、そう思う。これが、厭味に思われたら、ごめんなさい。
    >モノそれ自体への敬意、そのバックにある文化とか、気の遠くなるような時間を掛けて築き上げられてきた先人達のモノづくり文化への敬意
    というのは、すごいよねえ。
    人間を、人間たらしめているのは、戦争をくり返しながらも(戦争を肯定するのではなく、人間が人間である以上、戦争はなくならない、という意味です)、文化という人間の性(さが)に根づいたやむにやまれぬ活動ではないだろうか?
    その意味で、裕次郎君のやっている木工も、ほかの人たちが手がけている「うつわ」や建築も、もろもろのものが、文化の成果なんだから、人間の営みって、けっしてばかにできない。たとえ、戦争をくり返し、人殺しをくり返す愚かな生き物だとしても……。

  • 戦争と文化という問題はそれ自体大命題ともなることなので、こんなところで持論をひけらかす積もりは全くないけど。でも困ったな…、少しだけ。
    近代以降の戦争というものは総力戦としての性格が避けられず、人々を塗炭の苦しみに追いやり、国土は灰燼に帰する。「文化的営為」としての社会的基盤なども崩壊する。
    正にお互い相容れない概念だろうと思います。
    今後の戦争を考えた場合、核戦争というものが基本となるでしょう。
    そうするとどうなるかというと、広域にわたり全てのものが無に帰します。
    規模が大きくなれば人類滅亡の危機にもなりかねない。
    まさにヒトが営々と築き上げてきた文化は滅亡です。
    戦争という行為により、新たな時代にふさわしい文化が育まれる、言い換えれば戦争そのものに新しい文化が胚胎する、という見方があるとするならば、それには全く同意できるものではありません(貴兄がそのように解釈していると言うことでなく一般論としてのそれ)。
    戦後日本の復興は、朝鮮戦争への特需を画期とするというのは定説ですが、日本の復興、文明的飛躍の踏み台になったことは確かなことでしょう。(1960年代のベトナム戦争での兵站基地機能の時も同様に)
    しかしそれによって日本の文化が発展したということは無いでしょう。
    経済的発展と文化的発展とは全く次元の異なる概念です。
    むしろ戦後日本のアジアのなかにおけるパワーバランスが不均衡になり、現在に続くアジアの不安定性を胚胎させたという意味でも文化的深みから見れば問題なしとはしないという思いがします。
    戦争という概念、暴力論、国家論、とても難しい問題ですが、ボクは戦争というものを「人間の性(サガ)」という考えには同意できず、もっと経済的、思想的、国家的、歴史的、な要因があり、それを押しとどめる人間の知恵(文化的蓄積としてのそれ)が十分でないために暴発してしまうものと考えたいと思います。
    文化的営為のほんの端っことしての木工などで、戦争をどうこうできるものなどではないことは確かで、そんな議論など笑止だろうと思うから、そうした側面からの位置づけなどしないけど、せめて戦争の道具になるようなものは作らないようにしようかな。ごまめの歯ぎしり、でした。

  • いや、表現というのは、むずかしい。しかし、今回、わたしの使った「戦争」という用語は、あまりにも不用意で、あの文脈には唐突すぎたため、筆者の意図を超えてひとり歩きをしてしまい、誤解を招いたようです。
    裕次郎君の書かれていることは、正論です。わたしのあの「戦争」という語の使い方は、明らかに歴史的配慮を欠き、語の持つ特有の暴力性・多義性を無視した、きわめて粗っぽい雑なものでした。
    わたしが前回のコメントで言わんとしたことは、「文化という人間の性に根づいたやむにやまれぬ活動」にあり、その対極として、いわばそれを引き立たせる脇役として、人間の愚かな行動の典型たる「戦争」を出したつもりです。
    でも、それが結果的に、意図から外れてしまったようです。《ことばのひとり歩き》を、今後戒めます。
    今回は、artisan から腰のすわった議論を引き出すことができ、なんだか、高校時代のあの意気盛んな裕次郎の面影が髣髴としてきたなあ。
    わたしのハンドルネームも、artisan の前に p をつけた “partisan”に、替えようかな?

  • マーサーさん、
    どうもコメントへ茶々を入れた感じになっちゃって面目ない。
    貴兄には真意が伝わるであろう事を前提に記述したものですが、こんなところで、こんな短文で戦争と文化を論ずるなどと言うのは場違いも甚だしいですね。
    こんなところでやりとりは引き取りましょう。
    なお、戦争勃発の要因については、「文明の衝突」(サミュエル・P. ハンチントン)や、9/11WTCでの対イスラム問題で浮上している宗教対立を上げるべきかもしれませんが、これも裏を返せば先に述べたような要因に起因するものと考えていますので、列記していません。念のため。

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