工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

葬送行進曲を

この夏の異様な暑さについては気象庁を中心として分析が行われているようで、いずれまたエルニーニョ、ラニーニャなどといった専門用語が飛び交うようになるのだろうが、ボクにとっては(最近ではボクテキニハ‥‥、などと言った気色の悪い言い方があるが、あれはどうなん?苦笑)暑く、げんなりさせられた要因はもっと他にあった。
ここ数週間にわたる民主党の代表選、そしてその報道ぶりのこと。

TVをつければ不自然な笑いを振りまく代表戦候補者、二人が握手するシーンでは目を合わさずに作り笑い。
共同記者会見場では隣に座った相手へのあからさまなネガティブスピーチ。
新聞を開けば、候補者への一方的な断罪、パッシングの嵐。
何だ、俺は三流タブロイド紙でも取っていたのか、と愕然とする。

政治記者も、識者と言われるTV芸者もそれぞれの候補者の政策の解説、評論はそっちのけで、耳にタコができるほどに聞き飽きた「政治とカネ」問題、下ネタスキャンダルへの焦点化での政治ショー。

まあ、結果はご存じの通りで、まだ残暑厳しいお彼岸前なのに、悪寒をもよおすものとなった。


世論という名のメディアが作った空気感をモロに反映したものであったかと理解することもできるが、議員、党員、サポーターという賢者たちが昨年の政権交代時に高く掲げたマニフェスト、政権公約というものを1年足らずして公然と反故にするような候補者に荷担する結果には、あきれ果てて言葉を失う。

政治とは一体何なのだろう。昨年の政権交代とは一体何だったのだろう。
55年体制という巌の如くに日本の隅々にまで張り付いた旧弊、悪弊を打ち壊し、風通しを良くし、未来への窓を開け放ち、希望を共に語ることのできる社会へと作り替える壮大な試みであったはず。
昨年の鳩山政権樹立時のマニフェストには不十分だったとしても、しかしそうした理念が語られ、希望を共有することができる高揚感があった。

しかしその後を検証すればお分かりのように、旧体制からの強烈な反撃に遭い、米国からの強いブレーキを受け、1つ1つと頓挫し、矢折れ、弾尽きて、鳩山政権は倒れてしまった。
その後を継いだのが、その間の政権の苦悩を吾関せずの姿勢の頬被りで乗り切ってきた菅直人氏。

薬害エイズで官僚の壁をぶち破った厚労省大臣で、恐らくはボクだけはなく、多くのリベラル陣営は彼に期待するところは少なくなかったはず。
しかし政権Topに躍り出るや、その本質は露わに。
ただただ薬害エイズでの遺産だけで生きてきた議員でしかなかったことがはっきりしただけ。

政権についた後のマニフェスト破りも、代表戦での突然の消費税10%ぶちあげも、共同記者会見でも、おいおい、一体どうしちゃったのさ、と頭を抱えてしまうほどの変節ぶり。

経済対策では消費税増税という安易な手法を胸に抱えるだけで、日本が得意とする分野であるはずの新たな時代に適合する新産業戦略を熱く語るなどは見られず、ただ官僚主導の旧弊の枠内で政策をいじるだけの人なんだな。

日米関係の再定義などには関心を持たないというか、絶対に変えないという姿勢が見え見え。
したがって普天間基地問題の解決案など持たないばかりか、米国の属国のままに、既得権益者だけが甘い汁に与れた、旧自民党と一体どこが違うのか。
代表戦ではほとんど外交、軍事問題の喫緊の課題であるはずの沖縄問題は封印。
「愚者の楽園」(安保密約の当事者、若泉敬氏の遺稿から)をこのままに謳歌しようというのだろう。

そうした政治家はこれまでもごまんといただろうから今さら驚かないが、政権交代させた民主党員がそうした人物を親分に担ぐという選択をすることに呆れてしまう。

この代表戦での最大の論功行賞はメディアにあることははっきりしている。
あまりに一方的な反小沢ネガティヴキャンペーン。
「産経新聞」も「朝日新聞」も肩を組み、仲良く歩調を共にする。
気色悪いったらありゃしない。
まるで戦前の大政翼賛じゃない、これって。

東京新聞などはまだましな方かも知れないが、今では四大紙で読むに値するものは無いのかも知れない。
そんな中、琉球新報は中央のメディア、信頼に足らず、とばかりに自社でワシントンに支局員を派遣を開設したらしい。次の記事などは中央紙からは伝えられないアメリカ政治の内幕だ。(四大紙の支局は当然にもこうした情報は掴んでいるが、報じようとはしない)
(『琉球新報』在沖米海兵隊 広がる不要論 下院の重鎮「冷戦の遺物」

この代表戦の結果を一番喜んでいるのはどこの誰かと言えば ‥‥、米国務省なんだとか。(「民主党代表選、小沢氏敗北で米国に安堵」AFP

つまりは、政権交代というものが、アメリカの属国であった
戦後のあり方を見直そうという明確な意志の下でスタートしたにも関わらず、しかし米国、およびこれに繋がる国内既得権益者の強烈な巻き返しに頓挫し、一方これに我慢ならなかった原理主義者の小沢一郎氏の出馬を断じて許容できないとばかりに、あらゆるチャンネルを動員し、フレームアップ様に小沢氏を断罪、パッシングし、かろうじて管政権を維持させた、というところだろう。

日本人の熱しやすく冷めやすい、政治を単なる祭りの如くにもてあそび、人気商売でもあるまいし、好感度、イメージだけで政治選択するという民度。
この程度で内外共に困難な時局を突破する政治が行えるのであろうかね。

グスタフ・マーラー「巨人」第3楽章から、アシュケナージで(オケ:洗足学園音楽大学)
民主党に捧げるにはあまりに甘美ではあるけれど、ちょうど1年前にスタートした政権交代も終わりを遂げたということでの選曲。
[youtube]http://www.youtube.com/watch?v=Sv7xSgoXRI8[/youtube]

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  • なかなかの選曲。。。。
    厚生大臣がいいとこ、ですかね。

  • いやぁ〜、kokoniさんに選曲を褒められるのはこそばいものですね。
    「葬送行進曲」といえばショパンのソナタですが、ちょっと外して‥‥、
    それとアシュケナージと洗足学園音楽大学の組み合わせがおもしろくて取り上げました。
    しかし巨匠アシュケナージもフットワークが軽いですね。
    >厚生大臣がいいとこ、
    理念も突破力も期待薄ですね。

  •  若泉敬さんとは少し縁があるので、著書や評伝記には目を通しています。
     若泉さんが一番辛かったのは、自分の行いが公然と無視され、無かった事のように扱われたことであると思いますが、それをした当事者の意識は脈々と今に続いているということでしょう。
     「男としてどうか」「恥を知れ」と言っても、ただただ空しいです。

  • 『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』とする沖縄返還極秘交渉過程の内幕を開かした著書、太田知事(当時)宛の遺書、などに示される、若泉氏自身が関わった日米外交史への死を賭した「総括」は、今もなお沖縄問題を語る時の日米当局者の欺瞞、加えて政治家、メディアの政治倫理的荒廃を鋭く突くものです。
    「核持ち込みについての密約」などは謂わば半ば公然たるヒミツだったわけで、この春にやっと岡田外相の下で外務省も渋々認めた(西山事件、および密約訴訟でのこの4月の文書開示判決などの一連の流れを受けて)わけですが、戦後日本社会の対米従属、あるいは平和憲法が「核抑止力」によって維持されてきたというパラドクスには暗澹たる想いが交錯します。
    >自分の行いが公然と無視され、無かった事のように扱われたことである
    先日放送されたNHK番組での「土曜会」と若泉氏の最晩年の沖縄での執筆活動などの調査報道は重く考えさせられるものでした。
    やはり一、学究者と既得権益者である官僚、企業人との違いが強く表れてくるということでしょうか。そこには保守、革新といった政治信条を超えた人の根底のところでの生き方に関わる問題であるような気がします。
    引用させていただいた「愚者の楽園」の下でどのように生き、自身をどのように処するかが一人ひとりに問われているわけですが、果たしてこのたび信任を得た改造内閣の日米の軍事外交問題、とりわけ沖縄基地問題、あるいはきな臭くなっている対中外交において、これまでの欺瞞的な政治姿勢を超えられるかが試金石になってきているようです。
    若泉氏の最期がどうであったかは詳らかにしませんが、死者が語る言葉には、強く重いものがあります。

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