工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

COP10への関心の低さ

18日にスタートしたCOP10(国連生物多様性条約第10回締約国会議)本会議だが、本年度の「国際生物多様性年」終了後、2011〜2020を「国連生物多様性の10年」と位置づけ、生態系の保全に取り組むことで合意、採択の見込みとなったとのこと。
これは「生物多様性条約市民ネットワーク」(日本のNGO)による国連への要請だが、MISIAの記者会見で話題になっていた奴だね(47NEWS

ところで、前回も生態系の重要な一角を占める木材資源を主要素材とする木工家具職人にとって、このCOP10は浅からぬ関係を持つのではと記したところだが、メデイアでの扱いが少なすぎることも影響しているのか、木工関係者の間でも関心が高いとは言えないようだ。

1つの指標として、木工関連BlogでこのCOP10がどれだけ記事として上げられているか、検索かけてみた。
「COP10」と「木工家」、あるいは「木工職人」といったキーワードを使って「Googleブログ検索」で確認。
何と、ヒットするのはこの「工房通信悠悠」のみ。
ブルルッ、これほどまでのお寒い状況。
全く関心がない?
今はとりあえず仕事ができて、食えてりゃいいじゃん、って?
明日の世界なんて、俺たちにゃ関係ないじゃん、って?


いやいや、こうした関心の低さは今さら驚くには値しない。
この5月に名古屋で木工家が集う大きな催しがあったが、その準備過程の頃、関係者に「COP10に連携してシンポジウムなどに取り上げられるというような話しはあるの?」と聞いたところ、全く話題にもなっていないとのことだった。
数ヶ月後に同じ名古屋の地でで国連主催の国際会議が開かれようとしているのに、である。
事程左様に、我らの世界はアパシー。

コンゴでゴリラの生息環境が破壊され、生存の危機的状況にあると言っても、日々の暮らしに繋がるものでは無いだろうから、無関心であるのは仕方ないかもしれない。
(久しく動物園には出掛けてないな‥‥近くまたゴリラに会いに行ってこよう)
しかし、コンゴの森を破壊してゴリラの生息地を狭めている原因が、ボクたちの日常生活では欠かせなくなっているケータイ、PCに使われているレアメタル(稀少金属)の無法な採掘の結果であることを知れば、遠いコンゴのことが決して無関係ではないことに気づくだろう。(ポポフ日本支部にジャンプ)

あるいはまた、次の世代の子供たち、孫たちに真っ当なヒトの生存環境を残していくのが、我らの世代の倫理的使命だと信ずるのだが、今の社会的、経済的、あるいは倫理的命題においては、そうした迂遠な課題を自らに引き寄せて考えることの困難さが横たわっているのだろうか。
地球の歴史において、過去5回、生物多様性の崩壊が起き、生き残った生物の中の一粒がヒトの先祖として、幾たびの困難を乗り越えて反映してきたと言われる。
現在の生物多様性の危機は、それ以来6度目の危機ということになる。
この6度目の危機は過去5度の崩壊とは大きく異なるという。
何となれば過去5回の危機は隕石の落下などによる自然現象であったことに対し、今回は言うまでもなく人が起こしたものであるということだ。

ともかくもこのCOP10の国内開催は、問題の所在がどこにあり、何が議論対象になり、各国の議論の対立の背景に何があり、それらの打開策はどのように展望できるのか、といった基本的なところから考えて見る良い機会だろうと思う。
遠からず、いやすでに、ボクたちにはどの道を進んでいこうとするのかという選択を迫られていることは間違いない。


COP10 支援実行委員会
COP10の中継(オンデマンドでのライブ、および録画:通訳付)
今週のYouTubeは、COP10、名古屋国際会議場での開会式に披露されたMISIAの新曲“LIFE IN HARMONY”(COP10オフィシャルソング)
[youtube]http://www.youtube.com/watch?v=pnbz9FICYYU[/youtube]

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  • 生物学を学んだ私としても恥ずかしいのですが、この問題に関心が
    深いとは言いがたいです。
    先日、NHKで、この生物多様性のテーマに沿う形で、鳥島のアホウドリ
    復活の歴史の番組が放送されていて、中心的に活動された長谷川博さんは
    私が同じ研究室で教わった先生でした。
    ただ、このテーマに関するニュースを見ていると、artisanさんがこの記事の
    中で取り上げたような崇高な思想の基に活動している人は、このCOP10の
    会議に参加している当事者の中でも少ないのではないか、とさえ思えて
    来ます。
    つまり、この会議の多くの時間は、搾取する側の先進国と、される側の
    発展途上国との間の利益の奪い合いに利用され、消え行く生物達のことを
    本当に心配しているのは、いったい誰なの?という印象を受けるからです。
    生物学は医学、農学、林学などの基礎となる部門ではありますが
    日々の生活との関わりが分かりにくい部門でもあります。
    artisanさんが上で取り上げたような話題が、広く一般の人々の間で
    議論されるようになるには、まだまだ、そういった方面からの
    啓蒙活動が必要だと言うことだと思います。
    今回のartisanさんの記事も、その啓蒙活動のひとつ、だとは思います。

  • acanthogobiusさん、コメント感謝です。
    acanthogobiusさんは、生物学を修められていたのでしたか。
    私はそうした機会がなく、欠落しているジャンルの1つですね。まぁ、だからといって関心対象外におく理由にはなりませんがね。
    >崇高な思想の基に活動
    私の場合、必ずしもそうしたものではなく、木工家具職人としての生き方を支えてくれているのが、日本という国土の豊かな自然、木材資源であり、あるいは木材工芸の歴史と文化であるとの認識に立つわけですね。
    しかしこれらの資産、環境というものは、とても巧緻にできた地球上の生物多様性に支えられる奇跡的なものであることに気づき、そしてこれが日々崩壊への道を辿りつつあるという否定しがたい現実を前にした時、やはりひとりの木工職人として持続可能性への道筋を考えるというのが、今を生きる我らの使命。← このことが関心をそそる最大の理由ですね。
    決して「啓蒙」だなんて考えていませんね。
    良い仕事をしていこうよ、という弱々しい声の1つでしかないでしょうね。
    これまでの数千年にわたる人と森との関係、つまり木工職人、杣人たちが残してくれた豊かな森を次の世代へと手渡してゆくのが、私たちの使命だろうという、とてもありふれた平明な解釈であるにすぎないわけです。
    >搾取する側の先進国と、される側の発展途上国との間の利益の奪い合い
    議論の現場では、結局は「崇高な思想」を抽象的に語るものというよりも、利害のやりとりの激烈な交渉の場となるのは言うまでもありません。
    しかし一方、これを締約国共同の課題として約束する「議定書」へとまとめあげるには、単なる金銭的やり取りでの合意ではなく、やはり「崇高な思想」と哲学的命題による強力な指導力がなければダメだろうということも確かなのです。
    そうした認識に立てば、必ずしも悲観的に見るのではなく、経済的合理性にも裏付けられた、合意形成が図られる道筋は十分にあり得るものと考えていますがね。
    結局は市民一人ひとりが、自らの生存の原点、仕事の原点に立ち返り、そして少しでも広く長いパースペクティヴをみやることが肝心なことかなと思いますね。
    ハピーで、豊かな人生とは、結局はそうしたものなのではないのかな。

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