工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

豪雨間近の工房で

家具今年は梅雨入り宣言後、当地の雨はさっぱりだったが、このところ梅雨時らしくさすがに好天気は続かず、隔日ごとに強い雨をもたらす。
仕事も何某かの影響を受けずにはおかないが、迫った納期のものもあり、天気予報をながめながめという悠長なことも言っておられない。
しかし、いい加減に事を進めると後で取り返しの付かない失態を演ずることになるので、あくまでも慎重に進捗管理しながらの業務となる。
気象レーダー画面を見れば今夜半から強い雨が来襲すること必至。
夕方までは晴れ間ものぞく良い天気だったので、雨中ではやっては
ならない組み上げなどを優先し、何とか所定のスケジュールを大きく破綻させることなく進めることができた。
後は支輪、台輪を制作すれば、塗装工程に移ることができる。
ところで、現在は工房 悠プロパーの制作だけであり、したがって1本ものばかりなのだが、昔、地元の松本民藝家具販売店の特注ものを請けていた時期があった。


例えば、その頃は6×6尺の2段重ねの水屋を良く作っていたが、いつも3台づつ‥、つまり6×3尺のものを6台づつ制作するという態勢で、バリバリとやっていた。
自身のデザインであったが、全て無垢材で、仕口も全く手抜きのない高品質なもの。
販売価格は松本民藝家具と同等であると言えば分かるだろうか。3桁に近い価格帯のものである。
大きな店舗だったが、いつも正面入り口の最初のコーナーにドーンと展示してあったことも幸いしてか、良く売れたようだ。
ボクの家具職人としての基礎体力(肉体的ということに留まらず、家具制作総体としての力)はその頃に形成されたと言えるのかも知れない。
職人としての技量、あるいはそれに留まらない精神的資質を含めた力量を獲得するためは、やはり高品質でボリュームのある仕事を、継続的に、どれだけ打ち込める態勢にあるか、といった環境は重要になってくるのだろうと思う。
“家具作家”、“木工家”と言ったカテゴリーの人とは異なり、無名の職人であっても、ある基準に適合させるための技能(ここでは松本民藝家具のそれ)を満たし、かつオリジナリティーのデザインを付加させ、目の肥えた客層が触手を伸ばす魅力を備えた家具づくりをするということは、決して安易な考え方、未熟な技能では為し得ない、立派な仕事だと思う。
ボクの場合、思うところがあり、こうした真っ当な道を踏み外してしまい今日に至るわけだが、いつも半端者としての恥じらいがあったりする。
未だに熟練の職人を前にすると、何故か引け目を感ずるのだ。
それだけに仕事へのこだわりはある。
いい加減な仕事は職人として植え付けられた誇りと自負が許せないということなどだね。
ボクの職人時代の親方は今も現役バリバリであるが、彼の仕事力は今も衰えを見せない。
眺めていると、それはまばゆいばかりだ。
時々アチャ〜、などと失態を演じ苦笑いもでるが、基本的には淡々と、無理も無駄もなく、バシッとすばらしいものを作る職人である。
含羞は忘れないようにしなければと思いつつも、こうした熟練職人の方をも唸らせるような内実を持った仕事をしてきたいものだと思う。

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  • でもartisanさんは家具職人に戻りたい、と思っている
    訳ではないんですよね。
    職人さん、というのは基本的に雇われ人という位置づけ
    だろうと思いますので、最終的には雇い人の意図に左右
    される存在ということだと思います。
    一人でデザインから材料調達、制作、営業活動、工房運営までこなしていると、ただ単に職人と呼ぶには、もはや
    無理があるように思います。
    職人に負けない物を作りたいという意識は必要だと
    思いますが、先日も家具作家とは呼ばれたくないという
    お話がありましたが、何か気に入った呼称があると
    良いですね。
    いっそのこと「先生」とか「社長」というのはどうですか(笑)

  • acanthogobiusさんからのコメントですので、言っちゃいますが‥‥、
    ボクが言うところの職人的“こだわり”なんて本来は碌なもんじゃないです。
    そもそも、言語的解釈としての“こだわり”の意味とは、小さな事に執着して融通が利かないことを指すのだそうです。
    “こだわり”の味を追求したラーメン、とか、この味にはこだわっています‥‥、なんて用法で使われること屡々ですが、本来誇らしげに用いるべきものではないということですね。
    つまりはボクの“こだわり”なんて、自家撞着でしかないわけですが、それにもかかわらずこだわってしまう背景には、“家具作家”、“木工家”との呼称への懐疑であったり自己否定的なニュアンスがまとわりついてしまっているということがあります。
    大文字で語れば、いわば近代的自我からの宿痾みたいなもの。
    近代以前では、“家具作家”、“木工家”なんていうような概念はありえなかった。
    社会的に高く評価される専門的な職域としての職人というものがあっただけ。
    それだけで豊かで幸せな人生を送ることができたでしょう。
    今では過度に肥大した自我が邪魔をして、やたらと“家具作家”、“木工家”が排出されることになっている。
    全ては歴史と時代に規定されてしまい、これから脱しようというのは困難なわけですが、せめて自家撞着でしかない“こだわり”の荷を降ろし、淡々と木工の世界を深く掘り進めるというのがボクの望みでありますがね。
    ま、ボクには無理でしょう。
    acanthogobiusさんのコメントへは全く答えにはなっていないですね。(=_=)

  • と言うことは、「家具作家」とか「木工家」などという
    薄っぺらい呼称で呼んでもらっては困るという「こだわり」がある訳ですね。
    現代の世の中みなさん、その小さな「こだわり」にしがみついて生きて行くしか無い訳ですし、逆に職人から「こだわり」を取ってしまったら何も残らないような気がします。
    実態はどうあれ、一職人でありたい、という希望は
    解るような気がします。

  • acanthogobiusさんがお見通しのように、ボクは決して職人ではありません。職人を目指そうとしたものの、なれなかった“半端者”です(修行中のこと、ある信頼を置く先輩から、30代半ばから始めて、どうして職人なんかになれると思っているの? 考え違いも甚だしい、と強く諭されたものです)
    >薄っぺらい呼称
    とは全く思ってはおらず、むしろ尊称と考えています。
    ただ、特殊、日本においてはこれらの意味づけは注意したいということになります。
    (木工家具産業が盛んな北欧、欧州などでも、木工家、家具作家などという存在様式はほとんどあり得ないという現状があるようです)
    モノ造りの世界ですので、作者が自身をどのように呼ぼうが、全ては対象化されたモノに表されてると考えるのがキホンですよね。
    それを“家具作家○△の作品”、“木工家◇□先生の作品”などと、呼称であったり属性などをモノに付随させるものだからいきなりメガネが曇ってしまう。
    一方職人という呼び習わしにあっても、家具作りにおいて歴史と伝統のある欧州では厳しい公的資格基準があるようです。
    日本ではそれに比肩するほどに認知されたものは無いですね。
    したがってこれらの呼称とは資格要件を満たしたものとして広く社会的に認定されたものではなく、好き勝手に自称することが許容されているといって良いでしょう。
    いわば家具制作者が自らの意思、意志を表現するものとして宣揚するためのものと言って良いでしょう。
    家具制作には多くの技能の修得、経験が必要となります。
    創作となりますと、美質への造詣、発想の豊かさ、強靱な精神力、人間的素養の豊かさ、なども必須の要素です。
    しかしそうした背骨が無くても、俺は家具作家だ、と言っちゃえるわけです。
    それだけに(自称するのは勝手なだけに)、相応の自覚と責任がそこには発生するということになりますし、時には含羞の意味合いも出てくるというものです。
    いわばファジーなニュアンスが伴うだけに、この呼称の使い手も、受け手側も気をつけましょう、ということでしょう。
    それぞれが自身の審美眼、鑑識眼を磨き、呼称にふさわしい仕事に打ち込み、また買い手、使い手もそれを見極める目を養ってもらいたいということですね。
    こうした呼称と、実態とのいくつもの乖離が、本件エントリー後段の自己矛盾的な物言いになってしまっているというわけですね。
    acanthogobiusさんにはホントにご迷惑な話です。
    acanthogobiusさんはいわゆるハイアマチュアの方とお見受けしますが、また機会がありましたらアマチュアリズムについても考えてみたいですね。
    (J・クレノフの木工論、生き方、に関わる話しでもありますが‥‥)

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