工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

“手作り家具”と機械設備(その9)

家具工房における機械導入と制作スタイルの狭間で

木材加工機械と一口で言っても様々な機械があり、加工目的によりそれらの機械を選択するということになる。

現代社会で木工をしていくためにはどうしても設置導入しなければならない必須の機械もあれば、これに加えて制作対象による様々な補助的な機械もある。
しかし本項・制作スタイルを考えていく場合、いずれの機械においてもなにがしかの影響を及ぼすということに於いては変わるものではない。

例えば、手押し鉋盤、プレナーが無かったとしたらどうだろう。
製材されてきた板を与えられ、これから全ての工程を手作業で行うということになる。
本稿でも記述してきたように、実は伝統的指物の世界では、戦後しばらくはこうした作業環境が当たり前であっただろうし、あるいはまたこれも述べてきたところだが、わずか20年ほど遡るだけでもそのようなスタイルの木工家が現存していたことを知っている。
いや、どこかに現在も尚そのようなスタイルを堅持して活動している人もいないとは言い切れない。(ここではいわゆる職業木工家を対象としているので誤解の無いよう)
彼らの作業環境の中に手押鉋盤、プレナーが入ってきたとしたら、どのような変化がもたらされるだろうか。

多くの人は「こりゃ便利だ、今まで何をやってきたんだろう‥」と文明の進化というものに喜び、この生産性の飛躍的な向上を無条件に享受してくれるだろう。
しかし一方では、自覚的であるか、そうでないかは別にしても、木と作業者との関係性というものの変容にいずれ気付かされ、生産性の向上の裏に失われていくものを懐かしむということもあるかもしれない。


かっこよく言えば、有機素材としての唯一無二の固有の板材との対話というものから、あまたある工業素材としてのそれへと変貌し、ただの工場労働者のようなものへと陥ってしまう(差別的な位置づけのように単純に言っているのではないのですが)ということにある時ふと気付くということになる。

ま、これは極端な物言いかもしれないが、しかし近代化というものは総じてそのような時代的相貌を有していることも事実だろう。

我々、木工芸、木工家具制作に従事する者は、こうしたメインストリームへのある種の反逆者であり、コイズミではないが抵抗勢力であるのかもしれない。
しかし人間というものはいかに文明が極限的に進化していったとしても、ホモサピエンスとしてこの地球上に現れ、二足歩行を開始して以来の進化の果てのこの姿の中にも、古層のものが深く沈殿していたりすることも否定できないことだろう。

その1つが自然界との交歓だ。
このような展開では飽きられてしまうだろうから大幅にはしょるが、
とりわけ日本人の精神文化、生活文化の中に占める自然界との交歓、交流というものは、自然界の脅威というものを克服するため、支配者として君臨してきた欧米人によるところの文明進化の在り方とは大きく異なり、もっと柔らかで自然界の一部として人の生き方を考えるという独特の古層の精神文化が、今もなお断ち切れない尻尾として抱え込んでいるとも言えるだろう。

日本の木工文化とはそうしたところにも支えられ、単なる用としての雑器、調度品に留まらない、人の古層に潜む自然界との交歓を、この木工文化に求めてきたという側面もあるだろう。

ではこれらの制作に従事する職人はと言えば、これらを使用する人たちの木工品への思い以上に強く意識的に、あるいは自覚的にこれに取り組んだに違いない。
用を果たすとともに、用いられる木というものを、いかにして美しく魅せ、使用者の心の奥底に沈殿する古層をくすぐるかに多くの労力を割くと言うことになる。

木工業界の低迷はまだまだ続くことだろう。半端な量産家具メーカーはより存続そのものが問われていくことだろう。
前回記述してきたようにBRICs諸国の歴史的な台頭は、ドラスティックに日本の産業構造の変化を求めてくるのだから。
しかし、如何に時代が米国世界支配の終焉のベルを鳴らし、ユーラシア大陸にスポットライトが当たる時代になったとしても、日本人の古層に沈殿する精神文化が大きく変容するものではないだろう。

ここにこそ木工というものの持続可能性というものを求めることができるのではないか。
ただ単にBRICsとの競合に打ち勝つために生産性のみを追求するという愚に陥るのではなく、手作業から機械の導入後に変貌した時に失ってしまったかもしれない、木との対話というものを基底に据えた木工家具の制作スタイルにこそ未来を語る優位性があるのではないか。

しかしボクは単純に木との対話というものを語るつもりはないし、それほどお気楽でもなければ脳天気にもなれない。
生産性追求をないがしろにせずに、適切な機械設備導入を推し進めることで仕事の質を高めるということを基盤とする。これは当然のこと。

この労働生産性の高度化から産み出される余力というものをデザイン追求と、美的価値の追求へと振り向け、制作品の品質を高めることにより注力すべきだろう。
やはりモダニズムを経てきた近代人としての美意識を強く意識するところからしかスタートすることはできないのだから。

* 注:
今回から機械導入と制作スタイルについて具体的に検証していきたいと考えていたが、まだ入り口でまごまごとしてしまっている。
原稿をあらかじめ書き終え、推敲してからアップすべきなのだろうが、Blogというスタイルに甘えて、その日単位での記述になってしまい、整序されずにご迷惑掛けてしまっていると思う。その点、深くお詫びしたい。

著述を専業としているならともかくも、日々木工に汗している身からのもので、少し寛大に見ていただきたい(甘えです)。
なおこのようなボクの記述が本件論考とは論旨がかなりずれていると考えるとすれば、あまりこの論考は役立たないかもしれない。

しかし木工というもの作りにおいて機械をどのように考えるのかということは、ボクにしてみれば少しばかり哲学的命題から演繹されることで、より理解しやすくなるだろうと考えるので、この鈍重な展開はお許し願いたい。

hr

《関連すると思われる記事》

                   
    
  • 今年からBSハイビジョンのBS-iというチャンネルで
    「日本の名匠」というシリーズが始まりました。
    先週はある著名な指物師の制作風景で、けんぽなしの
    文机でした。
    この手の番組に多く見られるように、肝心な所は映って
    いませんが、指物師の自宅の作業場の片隅に昇降盤が
    置かれているのを見つけました。
    「ああ、やっぱりな!」というのが正直な印象でしょうか。

  • acanthogobiusさま コメント感謝です。
    ご紹介の番組ですが、拙宅はHiビジョンTV導入していませんので、知りませんでした。(しかもまだアナログTV、2,011までこのままかな)
    ネットで検索しましたらBS-iチャンネルとはTBSのようですね。
    仰る番組は「戸田敏夫」さんですね。
    比較的メディアへの露出の多い人ですので、作風は少し存じ上げています。
    さぞ楽しめたものと思います。
    >昇降盤が 置かれているのを見つけました。「ああ、やっぱりな!」
    彼らもまた昇降盤のすばらしい使い手だろうと思います(横切りなどは必要としないでしょう)。
    コメントで察するに昇降盤の作業プロセスは映像にはなかったようですが、仕口ディテールのかなりの部分まで昇降盤で攻めているはずです。
    今後の番組構成が楽しみですね。

  • 私もハイビジョンTVは持っていないのでハイビジョンの
    番組をアナログTVで見ています。
    パソコンは液晶でもTVはブラウン管です。(笑)
    BSハイビジョンの番組が見たくてチューナーだけ以前に
    買いました。
    昇降盤の作業プロセスが映れば私としは楽しかったのですが
    番組の趣旨からはちょっと無理でしょうね。
    以前知り合った指物師の自宅(千葉県富津)を訪問して
    隠し蟻組み継ぎの加工プロセスを見せていただいたことが
    あるのですが彼もまた昇降盤を使っていました。
    足の指で昇降ハンドルを廻しながらの作業に驚いた
    ことがあります。

  • >BSハイビジョンの番組が見たくてチューナーだけ
    なるほど、そういう手がありますか。
    >足の指で昇降ハンドルを廻しながらの作業
    ボクはそのようなことはできませんし、見たこともない。
    しかし以前もどこかで書きましたが、当て台(座式の作業台)で引き出しの側板を削る際に、足の親指、人差し指2本で、表から裏へひっくり返すというアクロバティックなことをしている古老の職人がいました。
    まさに長年の仕事の中で職能として身に備わったものですね。
    とてもおもしろい。

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