工房通信 悠悠: 木工家具職人の現場から

李朝家具の美しさとは

家具の美しさとは何だろう。
今日取り上げる画像は李朝の家具だが、いずれも松などのありふれた材を用い華美なものを極限的に排除した簡明な造形のものばかり。
李朝の家具はどれも好ましく感じ入ることが多いのだが、中でも今日紹介するような削ぎ取られた意匠を持つ重厚なものが良い。
華美とは対極のどこか無骨で鈍重。しかしそれだけに存在そのものが力強くそこにある。
無論、繊細で精緻な造形と華やかな意匠を持つ両班(やんばん)、文人が使ったと見られる高級なものも好きだが、どちらかと言えば画像のような素朴なものに強く惹かれてしまう。
陶器で例えれば伊万里のような端正で華やかなものから受ける美しさに対し、ただ呉須で唐草などを簡素に描いただけの、造形的にもよく見れば首先が少し歪んだような李朝の白磁に見られる不作為な美しさの方に魅入られることに通底する何ものか、だ。
自身が作るものはむしろ近代を経てきた時代に様々に規定されたような意匠であったり、市場、メディアを過度に意識した“いやらしい”作為的なものであったりするのかもしれなないことを振り返れば、これらの李朝のものには実に健康的な美意識を見ることが出来るし、品性において勝てないよな、と脱帽してしまう。
これがどこに起因するのかの分析は、美術史家、民藝研究家などに委ねる方が良いだろう。
浅学なところから解釈すれば李氏朝鮮が儒教精神に支配されていたということもあるだろうし、前近代の非合理的な価値概念からくる美質の特徴と言えるのかもしれない。
あるいは簡素な樹種しか産出されないという気候風土も影響しているだろう。
こうして好きな李朝様式もいざ自分で制作するとなると話しは違ってくる。
恐らくこうしたものをボクが写して作ったとしても、ただの似て非なる偽物にしかならないことぐらい分かり切っているのでそんな愚かなことはしない。
李朝家具1


李朝家具2
李朝家具3
李朝家具4
いずれも佐川美術館、館内の通路に置かれていたものたち。
*画像はクリック拡大(800px)
 使用したカメラは美術館内ということがあり、コンパクトデジカメ、自然光という制約
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